あれは早急に持たせたほうがいい気がする……。
視聴覚室に着き、皮のペンケースから何の飾り気もないシルバーのボールペンを取り出す。
GPS搭載型発信機――翠、何かあれば呼べ。
本当は俺だけに通知されるシステムでありたかった。が、自分ひとりではフォローしきれない。だから、藤宮警備と風紀委員の携帯にも通知されるように改良してある。
何かある前に人を呼べ。
集計作業の進行をチェックしてから桜林館に戻る際、視界に入ったものは特教棟出口手前の階段。
さっきまでそこに翠がいたかと思えば自然と足がそちらへ向く。
なんの変哲もない階段を下り、立ち止まるでもなくただ通り過ぎて外へ出る。と、そこには翠がいた。簾条と海斗、佐野を伴って飲み物を買いにきていたらしい。
俺はなんと呼ばれるのだろう……。
それを考えるだけでもはらわたが煮えくり返る思いだ。
ゲームで進めてきたコマを、問答無用でマスをいくつか戻される気分。
俺がどれだけ時間をかけて名前を呼んでもらえるようになったと思っている?
翠には記憶がないかもしれない。けど、こっちにはしっかりと残っているんだ。
「翠」
「何?」
翠は一瞬にして顔をしかめた。たぶん、俺の不機嫌が伝染した。そのくらいには機嫌が悪い。
「もう一度言うけど、名前の呼び方変えたら返事しないから」
さっき、「そういうの気にする必要ないから」とは伝えたが、そんな間接的な言い方では翠は何を指しているのかすら気づかないのかもしれない。そういうところにおいては読解力が欠損しているんじゃないかと疑いたくなる。
だから、今度は直接的な言い方をした。すると、
「……ツカサ、駄々っ子みたいだよ?」
「なっ――」
駄々っ子って俺がかっ!?
翠の後ろで、簾条が腹を抱えてくつくつと笑う。
勝手に笑ってろよっ。
「だって、私が司先輩って呼べば済むことならそのほうがいいと思うもの。もともと後輩が先輩に対して呼び捨てで呼ぶのはおかしいことなのでしょう? それなら、私が直せばいいと思う」
あぁ、これは間違いなく名前の呼び方を戻すつもりだ。
なんだこれ……マスをいくつか戻るとかの問題ではなく、振り出しに戻ってないか?
「……『友達』っていうのはどこへいったわけ?」
苦し紛れ――いや、最後の悪あがき、かな。
「どこにもいかないよ。ツカサは友達でしょう?」
翠にとって、名前の呼び方にそんな大きな意味はないのかもしれない。俺だって、ここまでこだわる自分はおかしいと思う。それでも――俺にはこだわれるものが少ない。
これしかないんだ……。だから譲れない。
真正面から脅すように見ても、翠は怯まない。
だいたいにして、翠を脅してどうする……。
少しでも気分を変えたくて一呼吸しようと思ったのに、息を吸うどころか出てきたのはため息だった。
「これ」と今取ってきたばかりのボールペンを差し出せば、翠は両手で受け取り「ボールペン?」と尋ねてくる。
「見かけはね。それ、GPS搭載のナースコールみたいなもの」
「……は?」
「やばいと思ったらすぐに押せ」
「意味がわからない」
「……呼び出されてやばいと思ったら押せと言ってる。そしたら、俺か生徒会メンバー、風紀委員、警備員、誰かしらが駆けつけるから」
我ながら言っていて嫌気が差す。駆けつける人間の多さに……。
「……ちょっと待って。警戒レベルが高すぎやしませんか?」
小動物の目が俺を見上げる。
「うるさい、とにかく持ってろっ」
俺は半投げやりに言葉を放ち、その場を立ち去った。
俺自身が、自分の感情の起伏についていけない。
呼び出しがどうのとかではなく、名前の呼び方が変わることにどうしてこんなにも執着しているのか――
理由なんてわかりきっている。
俺と翠の間にはそれしかないんだ。
翠の記憶がなくなったとき、俺は何も失うものはないと思った。何かが変わるほどの関係を築けていたわけではなかった、とそう思っていた。
秋兄は失いうもののほうが多すぎるくらいだっただろう。
俺はそんなに多くのものは持っていなかった。そのはずだったんだ……。
でも、ひとつだけ――唯一呼び名というものがあった。
再度、「ツカサ」と呼んでもらうまでに時間はかからなかったけれど、それでも四月に出逢ってから八月まで時間を要した。
記憶がなくなったことは不可抗力と認める。が、あんな呼び出しのひとつやふたつで覆されることがたまらなく腹立たしい。
俺はこんな人間だっただろうか……。
ふと疑問に思い、すぐに考えることをやめる。
そうだ――いつだって翠が絡めば俺は自分のペースが保てなくなる。いくら表面を繕ってみても、心の中までは律することができない。
いつか、何もかも繕えなくなりそうで、少し怖い……。
桜林館へ戻ればほかの生徒会メンバーに捕まる。
「翠葉、大丈夫だったの?」
詰め寄ってきたのは嵐。
「問題ない」
むしろ、問題があるのは俺だ。
「あぁいう方向に話が進むとは思わなかったわ」
茜先輩の言葉に、茜先輩もイヤホンを渡されていたことを知る。それならきっと、会長も内容は知っているのだろう。
ほかの二年メンバーは不思議そうな顔をしている。けれど、細部まで話す必要はない気がした。
茜先輩も俺の気持ちを汲むかのように、それ以上を口にすることはなかった。
ただひとり、飄々としているのは朝陽。
朝陽はさっきの俺を見ているから、それだけで珍しいものが見れた、とでも思っているのだろう。
なんだか色々と最悪だ――
Update:2010/06/02 改稿:2017/07/06
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