「ミュージックプレーヤー、見せてもらってもいいですか?」
「どうぞ」
黒いボディのそれを手に取り、曲目リストを見た彼女がこちらを向く。
「……どうして七曲ごとに『Close to you』……?」
そんなの決まってる。
「翠葉ちゃんが大好きな曲だから」
それ以外の答えなどない。
信号で止まり彼女を見れば、頬を少し赤らめていた。
「ありがとうございます」
ミュージックプレーヤーを両手でぎゅ、と握ったまま口にする様がかわいくて仕方がない。
真っ白な肌がほんのりと色づく変化が好き。
彼女の心臓が駆け足を始めたことは、胸ポケットに入ってる携帯がダイレクトに教えてくれる。
そんな変化をひとつひとつ噛みしめるように話をした。
「お仕事は土日休みじゃないんですか?」
「んー……うちの会社は警備会社だから、職場ごとに休みは異なるかな。俺は開発に携わっているから基本的には土日休み」
「でも、実は違うんですか?」
首を傾げて訊いてくる。
彼女の視界に入れることが素直に嬉しいと思う。
「パソコンさえあればどこでも仕事できちゃうからね。家にいてもやることがなければ仕事してるかな」
「えっ!?」
「区切りのようなものはあるんだけど、俺の仕事は終わりが見えないエンドレスのロールペーパーみたいなものだから、ペース配分は自分の力量でって感じなんだ。気づけば夜中なんてことはよくある話」
笑いを交えて話せば、
「夜は寝ないと身体壊しちゃいますよ?」
と、こちらを案ずる言葉。
「そうだね」
軽く流そうとしたら、
「それじゃ蔵元さんが心配するのもわかります。……今日くらいは早めに休めるといいですね」
秋の日差しの中で柔らかく笑う君。髪の毛も肌も陽に透けてきれいだと思った。
高速道路に乗る前だから見られた彼女の姿。
高速道路に乗ればスピードを出すため視野が狭くなる。そうすれば、そうそう彼女の顔を見ることはできないだろう。
一時間ほど走り、打ち合わせどおりのサービスエリアに入った。
大きなサービスエリアということもあり、秋の行楽シーズンにもってこいの本日はそれなりに混んでいる。
運良くトイレ近くの駐車場に停めることができた。
外に出れば少し風が吹いている。
彼女は車から降りると空へ向けて腕を伸ばし、気持ち良さそうに伸びをした。
その様は、寒がっているようには見えない。
「蒼兄たちはまだですね?」
次々と入ってくる車を見て言う。
「でも、そんなに離れてはいないだろうから、すぐに来るよ。じゃ、ここで待ってるからね」
トイレから少し離れた場所にある木の前で別れ彼女の後姿を目で追っていると、数歩歩いて立ち止まる、ということを何度も繰り返していた。
たぶん、すれ違う人を前に左右どちらに避けたらいいのか悩んでしまうからだろう。
そんな彼女を見ていると、ほかの男どもの視線も彼女に集っていることに気づく。
「早く建物の中に入ってくれないかな……」
思わずぼやいてしまう。
しかし、彼女は人の視線を集めていることなどまったく気づいていないふうだ。
そんなところもあの日と変わらない。
「あれー? 秋斗さん、リィは?」
「トイレじゃない?」
俺が答える前に蒼樹がトイレを指差した。
「あぁ、なるほど」
「栞さんたちの車、俺らの後ろについてたんで、駐車場に停めたらすぐに来ますよ」
それはどうでも良くて、俺が知りたいのは――
「蒼樹、翠葉ちゃんにあの日に着ていた洋服の話とかした?」
「……あぁ、そう言われてみたらスカートが一緒ですね。でも、俺は何も話していなし、誰から聞いたってわけじゃないと思いますよ」
「そう……」
「先輩、そんなんでどうするんですか……。この旅行中に翠葉の記憶が戻ったときの覚悟くらいしてて欲しいものですね」
それはそうだ……。
今の俺じゃ頼りなさ過ぎる。
「何なに? 寄ってたかって秋斗くんいじめ? 私も混ぜて?」
昇さんと腕を組み、にこにこと笑いながらやってきたのは栞ちゃん。
「栞はトイレに行くんだろ?」
昇さんに背を押されて、
「今日の翠葉ちゃんもかわいいわね」
と、一言だけ残しトイレへとスキップするように駆けていった。
「うちの奥さん、パレスに行くって決まってからずっとご機嫌だよ」
そんなふうに言うものの、昇さんは呆れた顔ひとつ見せない。
つい、そんな関係が羨ましくなる。
「昨日、あれから寝られたのか?」
「おかげさまで」
そんなやり取りは蒼樹と若槻に聞かれたいはずもなく、でも、余裕がないのなんて隠しようがないほどにばればれで――
翠葉ちゃんは今日の俺を見てどう思っているだろう。
司にはあんなことを言ってきたものの、気持ちを伝えるとか、そんな域に達していない。
「秋斗」
昇さんに名前を呼ばれ、そちらを向くと額で手を翳された。
「な――」
「黙ってろ。俺は何をできるわけでもないんだが、人にこうされることで昂ぶる神経が治まる作用があんだとよ。なんといっても俺様相馬の直伝だ」
少しの間、昇さんの大きな手が額に翳され視界に影を作られた。
みっともない――こんなにも周りの人間に気遣われて……。
――こういうことを彼女も思うのだろうか。
人がされているのを見て、みっともないと感想を述べるわけではなく、自分がそうされたときにのみ、自分がみっともないと――
惨め――そんな気持ちになるのだろうか。至らない、と自分を責めるのだろうか。
昇さんの手が離れると、
「向こうに着いたらおまえらはどうすんだ?」
「俺は彼女を連れて森へ――前回パレスへ行ったとき、大半の時間をそこで過ごしたので」
「なるほどな。ま、昼前には着くとして、俺と栞はランチまでレストランで茶でも飲みながらのんびりするかな」
「俺らは? ……あんちゃんとらぶらぶ?」
若槻が蒼樹を見上げると、
「気持ち悪いことを言うなよ」
「冗談だってば」
若槻の表情が豊かになった。
以前からよく笑っていたものの、あそこまで柔らかい表情はしなかった。
御園生家パワー凄まじ……。
「俺は建物を見て周りたいから、敷地内ぶらぶらしてると思います。それにどうしても唯がついてきたいっていうなら別にかまわないけど」
蒼樹がニヤリと口端を上げると、
「俺もホテルの中も外も見て周りたくて来てるから、あんちゃんがどうしても、っていうなら内部に連れてってあげてもかまわないよ?」
「……どっちにしろ一緒に行動だな」
そう答えた蒼樹を見て、若槻は「ウィナー!」と手を上げた。
年相応――
若槻の綱渡り人生は終わったな。もう、過去を引き摺って自殺を考えることはないだろう。
俺は近しい身内を失ったことがない。一番近くても祖母だ。
だから、若槻が受けた傷の深さはわからない。
あとを追いたくなるほどに仲のいい家族だったという情報はなかったが、妹とはそれなりに仲が良かったらしい。
いつかの蒼樹を思い出す。
一年半前――携帯の着信を不審げな表情で出たかと思うと、血相を変えて仕事部屋を飛び出そうとした。
蒼樹の妹溺愛ぶりはよく知っていたが、その後の行動パターンををもすべて変えるほどの存在というのがわからない。
俺にも弟がいるが、生死を彷徨う状態になればそれなりに心配はするだろう。けれど、自分の生活を変えてまでお見舞いに行くとか、そういうことはしない気がする。
これは弟と妹の差なのだろうか。それだけなのかそれだけじゃないのか――
人が走ってくる気配がして振り返ると、
「お待たせっ!」
栞ちゃんが翠葉ちゃんの手を引っ張って走ってきたところだった。
たかだか数メートルだけど、走ったことに不安になる。
彼女の鼓動を知らせる携帯は、少しだけ速まるものの、とくに具合が悪くなりそうな感じではなかった。
それどころか栞ちゃんと昇さんの立ち姿に見惚れている模様。
そして、どうしてかにこりと微笑む。
「すごく仲のいい夫婦だよね」
背をかがめ彼女の視線に合わせて口を開けば、突然視界に割り込んだ俺にびっくりした顔をする。
「っ……はい、すごく幸せそうです」
屈託なく、邪気などまるで感じさせない笑顔。その顔がほんのりと色づく。
相変わらず男に対する免疫もなし、と……。
これは喜んでいいのか悪いのか。
司と一緒にいるときにはこんな顔をしない。少なくとも、ここ最近では見たことがない。
俺は、一応男として意識してもらえているのかな?
それがいいことなのか悪いことなのかはわからない。
ただ、若槻や蒼樹と同類にされるよりはいいと思っている。
目の前の彼女が周りをキョロキョロとし始めた。
あぁ、蒼樹たちがいなくなったからか。
さっき、若槻がジュースを買いにいくとかなんとか言っていた。きっとふたり連れ立って飲み物を買いに行ったのだろう。
「そんなに慌てなくても大丈夫だよ。蒼樹たちは飲み物を買いに行っただけだから」
翠葉ちゃんは周りを見ることをやめると、再度栞ちゃんたちに視線を戻した。
なんていうか、栞ちゃんと昇さん以外は目に入りません、そんな感じ。つまりは俺も蚊帳の外。
「あんなふうに翠葉ちゃんと仲良くなりたいな」
「え……?」
俺もその視界に入れて……?
「下心は多少なりともありますよ? でも、本気だから」
下心――以前の下心に比べたら、今の俺の下心なんてかわいいものだろう。
「俺はあの日、このドライブに行かなかったら翠葉ちゃんを好きになることはなかったかもしれない。……いや、どうかな――たまたま自分の気持ちに気づいたのがあの日だっただけで、森林浴に行ってなくても君に惹かれたのかな」
彼女を女として見てしまったのは確かにパレスで、自分の伴侶に欲しいと思ったのはその日の夜だ。
司がいなければ――司があの日ホテルにいなければ、その気持ちに気づくまでにはもう少し時間がかかったかもしれない。
「リィっ! 朝に持たせたミネラルウォーター、半分くらいは飲んでる?」
若槻が彼女に駆け寄ると、
「え? あ、うん。ちょうど半分くらいかな?」
俺の車まで移動すると、若槻が手際よくジュースを割り始めた。
「はい、ハーフジュースの出来上がり!」
残りのジュースと新しいミネラルウォーターも一緒に渡された彼女は、目をまん丸にして驚きつつ、嬉しそうに
「唯兄、ありがとう!」
「どういたしまして! リィ、俺のこと好き?」
彼女に訊く前に、若槻は俺の方を見てにこりと笑っていた。
「大好きっ!」
「俺もっ、リィ大好き!」
彼女が満面の笑みで返せば、若槻は嬉しそうな顔で彼女に抱きついた。
はああああああっっっ!?
若槻、おまえ誰の許しを得てそんな大胆な行動に――ってこれは俺への嫌がらせか……。
こめかみの辺りが引くつく。
引き剥がしてやろうと思い側に近寄ると、
「唯兄の髪の毛ふわふわしててくすぐったい!」
「だそうだ……」
若槻の首根っこを掴んで、思い切り引き剥がす。と、
「先輩、大人気ないですよ……」
蒼樹、悪いな。俺、「大人」にこだわるのはやめたんだ。
「大人げなくて何が悪い。さ、翠葉ちゃん、そろそろ行こう?」
彼女をやんわりと車の中へ押し込む俺を見て、蒼樹と若槻はおかしそうに笑った。
ある程度開き直ってはいるものの、こんな目で見られることにも笑われることにも慣れてはいなくて、なんだかひどく気恥ずかしく思えた。
合流斜線でアクセルを全開で踏み込む。
彼女は若槻が作ったジュースを飲んでいた。
「翠葉ちゃんは若槻に触れられるのは全然大丈夫みたいだね?」
「そう言われてみれば……」
たぶん、何も意識はしていないのだろう。
「なんだか本当のお兄ちゃんみたいな感じなんです」
とても嬉しそうに話す様に、
「なんだこれ……。嬉しい気持ちもあるのに、俺はなんだか複雑」
「なんですか、それ」
彼女が喜ぶことは嬉しいし、若槻が殻から抜け出せたことも喜ばしい。
が、目の前で俺ができないことをあんなふうにされると腹立たしくもある。
隣の彼女がヘッドレストから頭を離して俺の顔を覗き込むものだから、彼女用の別の答えをあげる。
「若槻はさ、もうひとりの弟みたいな感じなんだ。憎まれ口叩きつつも部下でもあって――ずっと頑なだった若槻を救ってくれてありがとうね」
それは嘘じゃない。
あぁ……海斗が生死を彷徨うっていうのは想像するのが難しいけれど、若槻がいつ自殺してもおかしくないっていうことなら経験していた。
あのときは、確かに俺や蔵元の生活中心に近い部分に若槻がいた。目を離せない時期というものが確かにあった。
蒼樹にとって翠葉ちゃんはそういう存在なんだな。
「今日の秋斗さんは表情が豊かです」
「そう? だとしたら、それは翠葉ちゃん効果だよ」
君と話をしていると色んなことを考えさせられるし、色んな発見がある。
それはきっと、この先も変わらないんだろうな……。
否、変わることなく彼女の側にいられることを願う――
パレスのゲートに到着すると、彼女は緑に目を奪われていた。
ここら辺は紅葉する木が少ないが、パレスの周りは色づき始めたと木田さんから情報をもらっている。
「ここはまだみたいだけれど、もう少し奥まで行けば、多少は紅葉しているんじゃないかな」
「……きれいなところですね」
そう言って彼女は窓から見える景色に釘付けになった。
何もかもがあの日と同じ。
つい、「あの日」を思い出してしまう自分がいる。そして、「あの日」について話を聞かせたいとも思う。でも、「今日」という日を大切に過ごしたいとも思っていて……。
過去の記憶とこれから作られる新しい出来事。
それらバランスをどうとったらいいのかがわからない――
Update:2010/06/02 改稿:2017/07/07
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