コンシェルジュの七倉さんに差し出されたのはサンドイッチが載ったトレイ。
「あ、もしかして翠葉に?」
「そう」
なんとなく、翠は何も食べていない気がしたから。
昼食を一緒に、と海斗が誘ったとき、翠は薄く笑みを浮かべやんわりと断わった。
「私、食べるの遅いから……だから、おうちでゆっくり食べる」
と。
「ゲストルームに運んでもらうこともできるけど?」
そう言った俺に、
「あ――朝食っ、朝食少し残しちゃったから、それを食べようと思って」
まるで思い出したかのように口にして、
「本当に本当に気にしないでっ!?」
言いながら、ひとりエレベーターホールへと早足に去っていった。
何かもっとそれらしい理由を考えろよ……。
そうは思ったものの、嘘をつける人間でもない。
朝食が残っているのは本当なのかもしれない。でも、一緒に昼食を摂らないのには別に理由がある気がした。
サンドイッチなら、仮に翠が昼食を食べていたとしても数時間もすれば海斗の胃に収まるから問題はない。そう思ったからこそ、自分がオーダーしたミートスパゲティのソースでサンドイッチを作ってくれと頼んでいた。
「あ、携帯鳴ってる。司、先に行けよ。俺もすぐに行く」
海斗は七倉さんに「ご馳走様でした」と言うとカフェラウンジを出た。
俺もまずは電話だろうか。
起きてはいると思うが、さすがに無断で入るわけにはいかない。
緊急時ならいざ知らず、ゲストルームとはいえ、今は御園生家といっても過言ではないのだから。
エレベーターに乗り通話ボタンを押したら意外なアナウンスが流れてきた。
『おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか、電源は入っていないため――』
なんで電源を落としている……?
以前、姉さんに怒られてからは病院以外では電源を落とすということはしなくなったはず。
サイレントモードで着信に気づかないことはあっても、電源が入っていないということはなくなった。
ゲストルームのドアを前にインターホンを鳴らすも応答はない。
わざわざ中から開けてもらわなくてもドアロックを解除することは可能だが、一応それなりの手順は踏む。
何度かインターホンを押してはみたが、やはり反応は得られなかった。
仕方ない――
携帯からゲストルームに備え付けられている固定電話にかけると、何度かのコール音の末、留守番電話が作動した。
「翠、中に入るから」
留守電はそのまま部屋に響くから、リビングにいれば俺のメッセージは聞こえているだろう。
もし、この通路側にある部屋にいたとしたら……。
コンコンコンコン――軽く窓をノックして、
「入るから」
指紋認証をパスして中へ入ると、すぐに翠の自室を確認した。
中に人はおらず、照明の点いていない薄暗い廊下を真っ直ぐ進みリビングへと向かう。
リビングへ通じるドアを開けると、ソファの後ろからこちらを見ている翠と目が合った。
「何泣いて――」
手に持っていたトレイをテーブルに置き翠に近寄ると、手がうっ血するほど強く携帯を握り締めていた。
「それ、電源入ってないんだけど」
翠はボロボロと涙を流しながら、「ツカサ」と小さく俺を呼んだ。
それは俺の脳内で「助けて」という言葉に変換される。
泣いている理由は具合が悪いとかその類ではなく、「気持ち」のほう――昨日、話したことに関するものだと察しがついた。
「……なんとなく、翠のほうが負けそう」
翠の手と携帯を見た俺の感想。
「翠の力じゃどんなに力を入れて握ったところで携帯は壊れない。でも、翠の力の作用で翠の手が壊れそう」
そう言って、翠の手から携帯を取り上げた。
「電源は入れておけ」
翠の返事は聞かずに電源を入れる。と、途端に鳴りだす携帯に驚いた。
メールの着信、電話の着信が次々と鳴り出す。
それのどれもが翠のクラスメイトだった。
何をしたのかはわからない。でも、翠が何かをしたのだろう。
そして、その結果に怯えている――
「……勇気も覚悟もないのに、メール、送っちゃった――」
携帯を取り上げられた翠は、ソファにしがみついてそう言った。
不安でどうしようもなくて何かに縋りたい。もしくは、力いっぱい何かを掴んでいたい。
そんな境地らしい。
メールの内容というか、翠がしたことはなんとなくわかる。
「……勇気も覚悟もなくカミングアウト?」
小さな頭だけがコクコクと意思表示をし、時折しゃくりあげるそれが肩を上下させる。
海斗は佐野以外の人間が翠に何かを問い質すことはなかったと言っていた。
それでも、翠は悩む……。
訊かれても困り、自分を気遣われ問われなくても悩むんだ。
これはそういう人間。
俺がサドなんじゃない。絶対に翠がマゾなんだ……。
「自爆型の阿呆か……」
口にして後悔……。
目の前の小動物がさらに大粒の涙をボロボロと零した。
「悪い、言いすぎた……」
翠の頭に手を伸ばす。と、次の瞬間、俺の手に翠の手が伸びてきて、両の手で掴まれた。
「っ――!?」
翠はその手を自分の額へ近づけ、なんのご利益もない手に何かを願うような姿勢を取る。
その手から、額から、翠の震えが伝ってきた。
俺は何を考えるでもなく床に膝をつき、翠の背に空いている左手を回した。
携帯が鳴っては無音になり、鳴っては無音になり――
それを繰り返すたび、翠はしがみつくように俺に身を寄せた。
仕舞いには、俺の右手を離し耳を塞ぎ目を瞑る。
昨日の翠を見て、翠の感じている「恐怖」に触れたつもりでいた。でも、ここまでのものだとは思いもしなかった。
「翠……」
背に回した手を解き、耳を押さえている翠の手を捕らえる。
「詰めが甘すぎ。自分を追い詰めるようなことをして、最後まで身がもたなかったら意味がないだろ」
「……だって、どれもつらかったの。訊かれないことも隠しておくことも打ち明けることも――本当は誰にも何も気づいてほしくなかった」
筋金入りのバカ正直な人間。
俺、なんでこんな人間好きになったかな……。
どうやったら翠に「狡猾さ」なんてものを教えられるだろうか。
翠が少しずるくなったところで、罰は当たらないと思う。
「俺が突きつけなければそのままでいられた?」
今、この状況を作り出したのが俺であることに違いはない。
なのに、
「それは違う……」
翠は頭を振る。
「自分がこのことに向き合いたくなかったから、だから――」
「それを突きつけたのは俺だけど?」
それを否定するつもりはない。
「……ずっと逃げてちゃいけないことだったから、本当は気づいてほしくなくても、私が気づきたくなくても、気づかなくちゃいけなかった」
俺はやっぱりひどい人間だと思う。
こんなにも震えて涙を流し、怯えた目で助けを求める翠を前に、「今、また携帯から逃げてるけど?」などと言えるのだから。
翠の目は涙を流しながらも見開かれる。
それでも俺は、そんな翠の手に携帯を持たせるんだ。
もし、この場にいたのが俺ではなく秋兄だったら、なんてもう考えない。
俺は俺でしかない――
Update:2010/06/02 改稿:2017/07/10
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