人に話したところで少しも楽になれない話とはどんなものだろう……。
心に抱え持つドロドロとしたものを人に話すとき、勇気が必要なことは知っている。
話したあと、どう思われるのかが怖くて仕方がないということも……。
たとえば、痛みのことを誰かに言ったところで楽にはならないから話さない。
一度口にしたら、言いたくないようなことまで言ってしまう気がするから。
醜悪な自分を晒したくないから言いたくない――
そういうものとは違うのかな。
でも、私は――
伝えることにはまだ慣れないけれど、わかってくれる人がいると知ったとき、話せる人がいるとわかったとき、涙が止らなくなるほどに救われた。
そういうものとは根本的に違う、とツカサは言いたかったのだろうか。
ツカサの使う言葉はいつもものすごくストレートなのに、時々よくわからない。
この通路の先にいる茜先輩は何を抱えているのだろう。私に何を話したいのだろう。
私で良かったのかな……。
考えているうちに不安になってきたけれど歩みは止めない。
速度を緩めることなく、逆に少し加速させる。
すると、通路に座り込む茜先輩が目に入った。
ドレス姿のまま、体育座りで自分を抱きしめるようにして蹲っている。
「茜先輩、遅くなってしまってすみません……」
すぐ近くまでいって声をかけたけど、茜先輩はピクリとも動かなかった。
「茜先輩……? 具合悪かったりしますか?」
むき出しの肩に手を添えると、そのままの状態で返答があった。
「来ないかと思ってた」
くぐもった小さな声。
「遅くなってしまって本当にすみません……」
「ううん、いいの。来てくれたから」
ツカサのステージを見にいく前から待たせていたのだから、もっと早くに来るべきだったと後悔する。
今は目の前の茜先輩が心配で仕方ない。
さっきまでの茜先輩とは何もかもが違う。
声のトーンも話し方も、何よりも声に張りがない。まるで力が抜けたように話す。
「茜先輩? ……大丈夫ですか?」
「……大丈夫よ、ステージでは」
「……え?」
返ってきた言葉の意味がよくわからない。
「先に訊くわね」
前置きのような言葉にドキリとする。
「翠葉ちゃんは強い?」
何を問われているのかがわからなくて、頭が疑問に支配される。
でも、言葉に詰まることなく答えなくてはいけない気がして、ひたすらに言葉を探していた。
「ふふ、困っているのね?」
「……はい、困っています。何に対して訊かれているのかがわからなくて」
「少なくとも、身体が、という意味ではないわ」
身体が、ではないのなら、精神面? ――わからない。
でも、答えなくちゃだめだと思った。それが答えになってもならなくても。
「私は自分を強いとは思いません。それは身体のこともすべて含めて。身体が弱いならせめてメンタル面だけでもなんとかしたいと思うけど、自分が思い描くようにはコントロールできないし、いつも色んなことにぐらぐらしていると思います。だから……私は自分を強いとは思いません」
こんなことを言ったら話してくれないだろうか。それとも、「弱いから話さないでほしい」と取られてしまうだろうか。
不安に駆られ、そういう意味ではないと言おうとしたら、茜先輩が顔を上げた。
「なら、大丈夫ね」
口元にだけ笑みを浮かべ、それまでとは違う声を発する。
変わったのは声だけではなく、その場の空気までもが変わった気がした。
不安定なものが、より不安定に――
「自分を強いと思っている人は信じない。そんな人、本当は強くないのよ。自分の弱さを認めたくないだけ。人に見られたくない、見せたくないだけ。私がそうだからよくわかるわ」
まとまった言葉が返ってきたときには、自分の前にいる人が本当に茜先輩なのかの自信がなくなっていた。
この人は、誰――?
「さっき、体調は大丈夫か、って訊いたわよね? 大丈夫よ、ステージではね」
ステージでは、とさっきと同じことを口にする。
「ステージでは大丈夫じゃないとだめなの。いつもと同じ、もしくはそれ以上の力を発揮できないとだめ。そう決まっているのよ」
張り詰めた表情で話すと、最後にクスリと笑った。
「私がステージで向けた笑顔が本物じゃないことくらい、翠葉ちゃんは気づいていたでしょう?」
それは――
「気づいていないか、と言われたら、少しは気づいていました。本物偽物ではなく、演技かな、って……」
「そんな顔してた」
「でも、話している言葉に嘘はないと思ったから……」
だから、今私はここにいる。
茜先輩は私から視線を逸らし、無機質な床に視点を定めた。
「そうね……嘘はなかったわ。ひとつも……。私は翠葉ちゃんと話したかった。でも、こんなふうに話す私と話し続ける勇気はある?」
訊かれてゾクリと粟立つ。
「……話したら、茜先輩は楽になれるんですか? それとも……現実を目の当たりにして苦しむんですか?」
私は、さっきツカサに言われたばかりの言葉をそのまま口にしていた。
「……両方、かしら。言えば鬱憤は晴れるかもしれない。でも、現実が変わる可能性は何ひとつないように思える」
茜先輩の目が何を見ているのか、何を捉えているのかすら、このときの私にはわからなかった。
でも、だからこそわかりたいとも思う。
――そんな思いこそが傲慢だとも知らずに。
「続けます……。今、勇気総動員かけました。だから、茜先輩とお話しを続けます」
決意に変わりはないと意思表示するために、私も床にぺたりと座った。
「……引き返せば良かったのに」
茜先輩がボソリ、と呟く。
「それはどうしてですか?」
「……私が翠葉ちゃんを傷つけるからよ」
え……?
「これから話すことは誰に話してもどうにもならないことなの。どうにもならないけど、私は翠葉ちゃんを妬んでしまう。妬んだところで何が変わるわけでもないけれど、妬まずにはいられない。しかも、それを話したところで翠葉ちゃんがどうできるものではないの」
期待されすぎても困る。でも、最初からそこまで諦められているのも何か悔しい。
「……私は何もできないかもしれません。でも、せめて悩んだり考えたりするくらいはさせてください」
「悩んで、考えてどうするの? それで現実が変わるわけでもないのに」
私は絶句した。
先が見えない――違う、そうじゃない。
こんな話をするためにここへ来たわけではないし、茜先輩もこんな話をするためにここで待っていたわけじゃないと思う。
話の軸がずれていく。
直さなくちゃ、もとに戻さなくちゃ――
私が話をするんじゃない。私は話を聞く側でなくてはいけない。
何を言われても口を挟まず、茜先輩の言葉に耳を傾けよう。
目を閉じ、頭の中で数を数えた。一から十までの数を。
私は何度でも魔法にかかる。何度も聞いたツカサの声で。
「茜先輩……茜先輩が私と話したかったことはなんですか? 私に話そうと思ったことはなんですか? それを聞かせてください」
「……本当に、どこまでもお人好しでバカな子」
そう言うと、茜先輩は話し始めた。
茜先輩が私に話してくれたのは家庭環境と久先輩のこと。
それは感情を言葉に変換できないほど、ひどく胸を抉られる内容だった。
――「話したところで自分に現実を突きつけるだけ。その現実を自分がどうできるわけでもない。人に話して誰がどうできるものでもない。話すことで楽になったり答えを得られる人間ばかりじゃない」。
まさにその通りだと思った。
茜先輩の出自を私がどうできるわけではないし、誰がどうしたところで覆るわけではない。
久先輩のご両親にしてもそうだ。
人の価値観は簡単に変わるものではない。
変えたくても変えられないことだってあるし、それが大人ともなればなおさらな気がする。
茜先輩の気持ちなど、私にはわかりようがない。
お父さんもお母さんも健在だけど結婚はしておらず、認知はされているけれど母子家庭に変わりはない。
ほかにも腹違いの兄弟が四人いて、そのうちのひとりがサザナミくん。
彼以外は音楽の道に進み、お父さんの目に留まるためには音楽業界で成績を残すしか方法がなかったという。
音楽がお父さんに振り向いてもらうための唯一の方法だったなんて……。
そんな状況、私にはわかりようがない。
そして、その状況へ追い詰めたのがたったひとりのお母さんだったなんて――
「母はいつも言っていたわ。恋や愛に永遠はないって……。ずっとそう言われてきたの。だから、久のことが好きでも、その気持ちはずっと続かないと思ってた。久が好きって言ってくれても、そんな気持ちが続くわけないと思ってた。……けど、久はずっと変わらず好きでいてくれた。いつも私の側にいてくれた。だから、少しだけ――少しだけ信じてみようと思った」
久先輩と「付き合う」という形を取ったのが中等部三年の卒業式から高等部一年の夏前ごろまでだったそう。
その間に歌手デビューを果たし、ファーストアルバムが発売された。そして、久先輩のご両親に「加納の家に相応しくない」と言われた。
理由は、母子家庭であることとお母さんが精神科に通院歴があること。それから、歌手という浮ついた仕事をしている、というものだったらしい。
私にはそれらの言葉が理解できなかった。
加納の家に相応しいってなんだろう……。
母子家庭の何がいけないの?
お母さんが精神科に通院歴があったらどうしていけないの?
歌手がどうして浮ついた仕事と言われるの?
どれひとつとして、私に理解できるものはない。
わからないことだらけで頭がパンクしてしまいそうだった。
Update:2011/09/15 改稿:2017/07/11
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