ティーカップを手にした翠がびっくりしている様ならすぐに想像することができた。
その後、話の続きが始まれば、俺は盗聴していること自体を後悔する。
翠の告白は一時間半近く続いた。
その一時間半は、翠にとっても俺たちにとってもつらく苦しい時間だった。
翠は記憶が戻ったことでひどく苦しんでいて、翠が苦しんでいることに目の前の人間が苦しんでいる。
けど、こうなることはわかっていたこと。
記憶が戻れば俺と秋兄の間で翠が苦しむことなんて、最初からわかっていたんだ。
何が気に食わないというのなら、すべて自分のせいにしようとしているところ。
人と人が関われば、誰かひとりが悪いことにはならない。
関わった人間誰もがどこかで責を負う。
それを翠も秋兄もわかっていない。
翠が俺の手も秋兄の手も取らないことなんて想定済みだ。
むしろ、俺はそれを望んでいた。
こういう状況にならなければ同じステージに上がった気がしない。
翠が秋兄と俺の手を離した今、ここが俺たちのスタート地点になるんじゃないのか。
ようやく張り合える状況になったんじゃないのか。
秋兄は俺が想いを告げた時点で同じ土俵に上がったと思ったみたいだけど、俺は違う。
翠が記憶を取り戻してようやく、同じステージに立てる。
ずっとそう思ってきた。
ふたりとも、俺から言わせてもらうと相当覚悟が足りてないんだけど……。
翠は俺たちに想われるということがどういうことかまったく理解していないし、秋兄は俺と張り合うということがどういうことかわかっていない。
ついでに、秋兄は相手が翠という変人であることに対し、もう少し見解を深めるべきだ。
翠と別れたあと、じーさんは俺たちに向かって通信を入れてきた。
ごく一方的な通信を。
『司よ、おまえは秋斗と共に帰ってくるがよい。清良は裏口でわしが拾う。ふたりとも、これからどうするのかよく考えるんじゃな。あのお嬢さんはかなり手強そうじゃぞ』
翠が変人であることは出逢ったときから知っている。
半年ちょっと一緒に過ごして嫌というほど一筋縄でいかないことは理解した。
それから、秋兄を放っておくともっと面倒なことになることだって学んだ。
じーさんは俺のことも秋兄のこともよくわかっていると思う。
面倒くさいけど、放置しておくともっと面倒で不本意な方へ転がりそうだから――
いいよ、秋兄は俺が引き受ける。
ここに来て良かったと思えることが盗聴の内容ではなく、秋兄の回収ってどういうことだろう。
俺、ここに何しに来たんだっけ……?
俺はうだうだと考える。
こんなの、秋兄ひとりに聞かせなくて良かった。
それはもう、心の底からそう思う。
俺は、ものすごく普通の顔をしてパソコンをシャットダウンしている秋兄に声をかけた。
「それ、片付けたら帰るよ」
「あぁ……」
ノートパソコンをしまう間もソファを立っても秋兄の表情は変わらない。
このあと、俺と普通に話して普通に笑ったりしたら思い切りぶん殴ってやりたい。
俺は無意識に拳を作り声を発した。
「あのさ、そんな状態で俺と張り合うつもり? 今本気出さないと秋兄後悔するんじゃないの?」
「…………」
「昨日、藤山で俺に言ったことは嘘?」
「…………」
「闘うふりして実は引くつもりとか、そんなの許さないよ。……何情けない顔してるんだよ。秋兄は自分がしてきたことがすべて、自分だけが悪いとでも思っているわけ? それ、甚だしく間違ってるから今すぐ考え改めて。前にも言ったけど、秋兄に問題はあったかもしれない。じゃぁ、翠になんの問題もなかったかっていったら俺は違うと思う。そこでふたり仲良く自分を責めて悲観するのやめてくれない? はっきり言って不愉快だっ」
秋兄は何も言わない。
くっそ、なんで何も言い返してこないんだ……。何か一言くらい言えよっ。
「俺は――俺はっ、今の状況に満足してる。俺はこうなったうえで自分を選んでほしかったから」
「司……?」
「俺と秋兄が同じ土俵に立って、横に並んだ状態で選んでもらうことに意味がある。むしろ、それ以外に意味はない。俺の言ってることわかれよっっっ」
俺はいつだって秋兄の背中を追いかけることしかできなくて、いつだって張り合う対象になんてなれなかった。
勉強も弓道も何もかも、すべて秋兄の足跡をたどっているに過ぎなくて、いつだって追うばかり。
隣に立てたことなんて一度もなかった。
唯一、翠のことだけでは対等になれる。
そう思った。
自分が人を好きになったことには驚いたけど、それ以上に――ずっと追いかけ続けてきた秋兄の隣に並べることが嬉しかったんだ。
こんなの、追いかけている側にしかわからない感情かもしれないけど、それでもわかれよ。
わかってくれよ……。
「……あのさ、責められて楽になるんだったら俺は責めるなんてしない。絶対にしない。その反対だ。肯定してやる」
「司……?」
「もし俺が秋兄だったら――俺が秋兄で、秋兄と同じように翠と付き合う経緯にあったとしたら、俺だって同じことをしたと言える」
俺は正面から秋兄を見据え、
「相手の気持ちがどうとかそういうことまで考えられなくて、自分の気持ちだけ押し付けて、それで翠を傷つけたに違いない。……あぁ、もし俺が秋兄だったとしても女遊びはしてないだろうから、女の扱いなんて知らない俺はもっとひどく傷つけたかもね」
「おまえ、何を言って――」
「変わらないんだよっ。俺も秋兄もっ。たぶん、俺のほうがもっとひどい」
秋兄は意味がわからないといった顔をしていた。
いいよ、全部白状してやる……。
「俺は翠の気持ちを踏みにじるようなキスをした。自分の気持ちが嘘じゃないと知らしめたいがためだけにキスをしたっ。想いが通じてもいないのにキスをした。片思いだって思っていながらキスをした。急に沸き起こる衝動なんて止められなかった。両思いだったから結果オーライ? はっ……そんなの関係ない。俺がどんな気持ちでキスしたかだけに問題がある。秋兄は今その部分を責めてるんだろっ!? だったら、そんなの俺だって変わらないんだよっ」
言い切ると息が切れていた。
そのくらいに大声を発し、秋兄に掴みかかっていた。
「だから――秋兄のことを責めたりしない。できない……わかれよ」
頼むから、身を引くとか変なことは考えないでくれ。
横に立たせてくれ。ちゃんと闘わせてくれ。
俺をいつまでもガキ扱いしてくれるな。
「……なんか、頭殴られた気分なんだけど」
やっと言葉を口にしたかと思えばそんなこと。
「どうせだったら本当に殴ってもいいんだけど……」
「いや、遠慮しておく。すでに頭がぐわんぐわんいってるから。これ以上衝撃与えられたら運転不可能になりそうだし」
「俺は別に困らないけど? そしたら警護班を呼びつければ済むことだろ」
「ま、それはそうなんだけど」
秋兄はへなへなとその場にしゃがみこむ。
「いや、まいったな……。何? 翠葉ちゃんにキスしたって?」
改めて訊かれると微妙な心境……。
俺は顔を逸らしたくて、「した」とだけ答えた。
「気持ちを伝えるためってことは紅葉祭二日目か……」
「…………」
「いや、本当……なんていうか、まいったな……。自分のことをどれだけ責めても、どれだけ彼女の幸せを願っていても、そんな出来事を聞くだけで嫉妬するって言ったら笑う?」
秋兄は苦笑を浮かべた。
取り繕っている表情じゃない……。
「……いや、俺も普通にむかつくと思うし」
「そっか……。これって普通の感情なんだ」
秋兄はどこか確認するように、または納得したように口にした。
そのとき気づいたんだ。
俺も秋兄も初恋で、「恋」というものにどんな感情を抱くことすら知らないんだ、と。
知らないから戸惑う。
何が良くて何が悪いのか、何が普通で何が普通じゃないのか、すべてにおいて経験値という基盤がないから、自分の中の何とも比べることができなくて。
自分ひとりでは判断ができなくて、人に話すこともできなくて――
あぁ……俺と秋兄は今同じところにいるんだ。
やっと実感できた。同じ場所にいる、と。
理解した。
なんで秋兄に恋愛の話をすることに抵抗がないのか。
同じだからだ。
今まで恋なんてしてきてない者同士、同じだから。
本当に「同士」だったんだ。
俺は秋兄の背後にしゃがみこんでは背を預ける。
わざと体重をかける感じで。
「とりあえず、今後一切身を引くとか考えないでほしいんだけど……」
「あぁ、しない……。ちょっと道を間違えるところだったかも」
「……それ、心配ないから」
「え?」
「俺が気づいた時点でぶん殴ってでも引き摺り戻す」
「……じゃ、おまえが道を踏み外しそうになったら俺がその役引き受けてやるよ」
秋兄の柔らかい髪が俺の頬に触れた。
至近距離で目が合えばどちらからともなく笑みが漏れる。
くつくつと、クスクスと……。
昨日話したときよりもっと近く。
小学生のとき、初めて弓を持たせてもらったときのような距離感。
「帰るか……」
「帰ろう、藤倉へ。で、あのバカをとっとと攻略する」
「バカっていうのはひどすぎないか?」
「だってバカだろ? どこからどう見てもバカだろ? こんな寒い日に好き好んで森へ行くくらいにはバカだろっ?」
「あはは、本当だったら今ごろ一緒に藤山歩いているはずだったのにな?」
言われて思い出した。
そうだった……。
俺、初デートをキャンセルされたんだった。
「秋兄、帰ったら落城させるよ」
「了解」
俺と秋兄は互いの手を取り合い、体重を分かち合うように立ち上がった。
Update:2012/02/26 改稿:2017/07/18
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