「……暖かい場所にいたら、もっと逃げてしまいそうで……」
「……目が赤いのぉ。泣いておったのか」
木田さんの手よりもしわくちゃなそれが眼前にゆっくりと近づいてきて、目尻の涙を拭われた。
「お嬢さんは会うたびに悩み迷っておるのぉ……」
言われてみればそうかもしれない。
初めてウィステリアデパートでお会いしたときのことを思い出す。
あのとき、初対面にも関わらず、朗元さんは親身になって話を聞いてくれた。
手に入れる前から失うことを考えていたら欲しいものは手に入らない。人間は欲する生き物である。欲することをやめたとき、その人は人生の半分を捨てたことになる。
朗元さんは、そう教えてくれた。
それから、得たものを失ったとき、失うまでに得たものをすべて失うわけではないとも――
「あのとき悩んでいたものは解決できたのかの?」
ビー玉みたいにきれいな目で顔を覗き込まれると、心の中を見透かされてしまう気がした。
「たぶん……まだ、同じ場所にいます」
「ふむ……欲しいものには手を伸ばせぬか」
私が欲しいものはなんだろう……?
頭が飽和状態で何に悩んでいるのかすら明確になっていなかったことに気づく。
「さくっと訊いてしまおうかの? 何に悩んでおるんじゃ?」
「……朗元さん、私は何に悩んでいるのでしょう?」
「ほ?」
「っ……すみません。あの、色んなことを思い出したらそれだけでいっぱいいっぱいになってしまって――」
記憶が戻った時点ですでにキャパオーバーだったのだ。
何を考えなくちゃいけないのかもはっきりさせることができないほどに。
唯兄にそう言われたのに、差し伸べられた優しい手を突っぱねてしまった。
あのときに話せていたら、今こんなことにはなっていなかったのかもしれない。
ぎゅっ、と縮こまると、朗元さんに腕をさすられた。
「そんなに力むこともなかろう。ゆっくりで良いぞ? 年寄りの利点は時間がたんまりあることじゃ」
にこりと微笑む表情がとてもあたたかく感じ、さすられている腕もしだいにあたたかくなってくる。
力が少し緩むと手を握られた。
手袋の上からでも朗元さんのぬくもりが伝わってくる。
前に会ったときもこうやって手を握ってくれた。
「朗元さん、人の気持ちはどうして変わるのでしょう」
声が震えた。
寒くて身体が震えているのか、それとも声だけが震えているのかわからない。
ただ、声が震えていることだけがわかった。
「好きな人が……どうして変わってしまったのかがわからないんです」
ポロポロと涙が零れ、膝掛けになった毛布に落ちてははじかれる。
私の手を握ってくれていた手は頬に添えられた。
「冷たいのぉ……。ここは寒すぎる。パレスへ戻らんか?」
まるで諭すように言われた。
「この老いぼれを労わると思って」
本当はまだここにいたかった。この、容赦のない寒さの中で自分を責めていたかった。
それこそが本当の甘えであることも知らず。
冷えた身体は少しずつ悲鳴をあげ始めている。
ここで発作を起こしてホテルの人に迷惑をかけることだけは避けなくてはいけない。
わずかな理性が働き、私は頷くことで同意した。
朗元さんは立ち上がり懐から携帯を取り出すと、
「迎えをよこしてくれるかの?」
それだけ言って携帯を切った。
「すぐに迎えの者が来るじゃろうて、わしは一足先に戻っておるでの。お嬢さんはゆっくり戻ってくるといい。くれぐれも足元に気をつけての?」
朗元さんは口髭をいじりながら、危なげなく歩みを進める。
気づけばその背は小さくなり見えなくなっていた。
私はピルケースから痛み止めを取り出し、タンブラーに入れてあったハーブティーで飲み下す。
毛布をたたむとゆっくり立ち上がり、木に囲われたその場を一歩一歩踏みしめるように歩いた。
まだ霜が残っているところを踏むとザク、と音を立て、枯葉はシャクリ、と小気味良い音を立てる。
人前で泣いたからだろうか。苦しくて息が詰まりそうだった胸は、ほんの少しだけ余裕ができた気がする。
ひとりで泣くのと人前で泣くのは何が違うのかな……。
そんなことを考えながら、余裕のできたスペースに冷たすぎる空気を収納する。
息をするだけで肺から凍ってしまいそうな寒さ。身体の中から冷える感じ。
私は一層大きく深呼吸をした。
心の換気には深呼吸が絶大だと唯兄が教えてくれたから。
酸素供給のおかげか冷気のおかげか、頭が少しクリアになった。
涙も止まり視界も良好。
自分の感覚を少しずつ取り戻していると、御崎さんが数人の従業員と共に現れた。
たぶん、御崎さん以外の人はラグなどの片付けにやってきたのだろう。
御崎さんは更地を突っ切り私のもとへ真っ直ぐ歩いてくる。
「御崎さん、あの……お片付けが終わるまででかまわないので、もう少しお時間いただいてもいいですか?」
「かしこまりました」
快諾してくれた御崎さんは片づけを手伝いにいき、私はそれまでと同じように、更地をゆっくりと歩いて回った。
ただ歩いているだけなのに、それだけで自然と考えがまとまってくるから不思議だ。
朗元さん、あのときと今では少しだけ状況が違うみたいです。
あのときは欲しいものに手を伸ばすのが怖かった。得たあと、なくすのが怖かった。
でも、今は違う……。
今は、手の内にあるものを失いたくなくて身動きが取れません。
ツカサか秋斗さんか――答えを出したら片方をなくしてしまう気がして。
……そっか。……それが怖かったんだ。
ならば、選ばなければいい――
それが、私の出した答えだった。
御崎さんの手を頼りにパレスへ戻ると、女性従業員が待っていた。
「お部屋にお風呂のご用意が整っております」
私の身体を気遣ってのことだと思った。でも、私には朗元さんとの約束がある。
私は御崎さんに向き直り、
「あの、朗元さんをお待たせするわにはいかないので……」
「お嬢様、朗元様からご伝言を賜っております。ゆっくりとあたたまってからレストランの個室へいらっしゃるように、と」
「朗元さんが、ですか?」
「はい。お嬢様が冷えていらっしゃることをたいそうご心配されていました」
「……では、あたたまったらすぐにお伺いしますとお伝えいただけますか?」
「かしこまりました」
いつものように三十五度のお湯から足先にかけるも、痛くて温度を下げずにはいられなかった。
四十度のお湯に慣れるまでどのくらい時間を要したのかわからない。
でも、お風呂に入って正解だった。
冷えからきている頭痛も頭を洗うことで解消され、足の痛みも腕の痛みもずいぶんと軽減された。
お風呂から上がり髪の毛を乾かし洋服に着替える。
必要最低限のものだけをバッグインポーチに入れ部屋を出ると、先ほどの女性従業員が廊下で待っていてくれた。
フロントまで案内されると、案内役は木田さんに引き継がれる。
「お嬢様が朗元様とお知り合いだとは存じませんでした」
木田さんは朗らかに笑う。
「朗元さんはこちらによくいらっしゃるのですか?」
「頻繁にお越しになられるわけではございませんが、陶芸用の粘土を作っている工房がこの近くにありますので、そちらにお越しになられる際にはお立ち寄りくださいます」
「私は朗元さんの作品が好きで、数年前から兄への誕生日プレゼントにコーヒーカップを買っていたんです。今年も同じようにカップを買いにお店へ行ったとき、偶然お会いすることができて……」
「ファン一号さんだそうですね」
「はい」
まだお昼には少し早い時間ということもあり、レストランに人は少ない。
結婚式の打ち合わせにきているのかな、と思う人たちが二組いるだけ。
私が案内されたのは、前回来たときにみんなでご飯を食べた個室だった。
「お待たせしてすみません」
頭を下げると、朗元さんは私の手を取る。
「うむ、きちんとあったまってきたようじゃの」
目を細め、顔をくしゃりと崩した。
「さっきよりも顔がすっきりして見えるのは気のせいかの?」
私はその質問に愛想笑いを返し、朗元さんに促されるまま席に着いた。
朗元さんはコーヒーを飲んでいた。そして、今は木田さんが私にお茶を淹れてくれている。
きっと、何を言わずともハーブティーが出てくる。
「失礼いたします」
差し出されたカップに目を瞠った。
「約束をしたじゃろう?」
朗元さんがにこりと微笑む。
私の目の前に置かれたカップは、以前デパートで見ていた藤色のコーヒーカップのティーカップバージョンだったのだ。
「いつどこで会えるかわからんからの、常に携帯しておって良かったわ」
私はびっくりしすぎて言葉が出てこない。
「ファン一号さんへのプレゼントじゃ」
「ありがとうございます」
かろうじて出てきたのはありきたりな言葉だった。
Update:2012/02/16 改稿:20157/07/16


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