そこにはもうひとり、藤宮の人間がいた。
翠もそのことに気づいたのか、ゆっくりと、恐る恐る俺の顔を見る。
目が雄弁に、「どうして」と物語っていた。
戸惑っているのが丸わかり。
「さぁ、どうしてだか……」
俺は適当に答えた。
藤棚にいたのは秋兄。
今日、リベンジでここに来ることを知らせていた。
別に知らせなくてもよかったんだけど、なんか空気が悪くて……。
とりあえず、三人で会ってみたかった。
それで翠を困らせることになったとしても。
「こんにちは」
秋兄が話しかけると、「こんにちは」と翠が小さく答える。
「ツカサがね、今日ここでデートするって連絡くれたんだ。教えてくれるくらいだから来てもいいのかと思って」
にこりと笑いながら答える秋兄も存外ひどい。
つまり、ここに来ることは伝えていたけど、秋兄を誘った事実はない。
……来るとは思っていたけど。
「俺がいると困る?」
秋兄は俺と翠の両方に確認する。
「別に」
俺の即答に続けて、
「こ、困らないですっ」
翠が慌てて答えた。
言葉に詰まった感は否めないけど、この場合、答えられただけでも上等なのかも。
「
先に来て紅葉具合を確認していたらしく、秋兄が翠を促した。
先導権を奪われた気分。
それが顔に出たのか、
「司、別に、とか答えてたけど、やっぱ迷惑だったりする?」
わかってて訊いてくるから性質が悪い。
「さっき、迷惑か、とは訊かれなかった」
「あぁ、確かに……。困るか、って訊いたんだっけ?」
「そう」
「じゃ、迷惑ではあるわけだ」
「想像に任せる」
こんな会話は日常茶飯事で珍しくもなんともない。
それでも翠の表情は曇る。
わかりやすいくらいにはっきりと。
翠が気にしているのはやり取りそのものではなく会話の内容。
自分が渦中にいるかと思うと、気まずさに拍車がかかるのかもしれない。
でも、それが事実なのだから、そろそろ現実を受け入れてもらわないと困る。
翠はやけにあっさり手を引いたけど、俺たちは一度手を伸ばしたものをそう易々と諦められる性格ではない。
いい加減、ひとり自己完結するのはやめてくれないか。
……空気が硬すぎる。もう少し柔らかい空気に変えたい――
そう思う気持ちと文句を言いたい気持ちがせめぎ合う。
「この藤棚の話、前にしたっけ?」
「え?」
「藤棚が五角形になっているでしょ?」
「あ、はい」
「ここの藤の木は、俺たちが生まれるたびにじーさんとばーさんが一本ずつ植樹してくれたんだ。で、最終的には五人で五本、五角形」
秋兄は普通に話し、翠はその話に耳を傾ける。
「一定の背丈で剪定してあるからもう高さの差はないけど、植えられたばかりの藤木はとても小さくてかわいかったんだよ」
秋兄は昔を懐かしむように話した。
俺にはない記憶の話を。
俺が物心つくころにはすでに自分の身長を越す高さだった。
小さかったころの藤の木なんて俺は知らない。
そんな、懐かしむように話されるとなんだか――
……あぁ、そうか。
いつだって俺は秋兄との年の差にコンプレックスを感じるんだ。
翠が絡むとなおさらに。
自分にできることが異様に少なく思える。
車の運転ができるわけではないし、秋兄みたいに社会に出て自立しているわけでもない。
年の差に嫉妬しても意味がないことなど嫌というほどにわかっているのに、それでもどうにもならい。
今嫉妬しているのは口の重い翠に、戸惑う翠に、普通に話しかけられる余裕のある態度。
自分にはできないことをさらっとやられてしまう、目の前で。
見習いたいことが多々ある。
けど、現実問題――そうはなりたくない、それは自分じゃない、と反発する気持ちもあるわけで……。
コンプレックスとはそういうものなのだろう。けど、目の当たりにするのは苦痛だ。
「秋斗さん、今日お仕事は?」
「翠葉ちゃん、今日が何曜日かわかってる? 今日は日曜日だよ?」
ただ話せることが嬉しい。
秋兄はそんな表情で答える。
「あ――そうでした」
翠は自分の発言を恥ずかしく思ったのか、秋兄の笑顔に赤面したのか、手で口元を覆って少し俯いた。
それでも会話は成り立っていて、俺といるときよりも壁が低い。
壁が薄い? 壁が柔らかい? ――とにかく、そんな感じ。
俺と秋兄の決定的な違いなどわかっている。
それは年の差ではなく姿勢――
翠に歩み寄ろうとしているかしていないか。
決して俺が歩み寄ろうとしていないわけじゃない。
ただ、今の俺は意外と我が強い。
少し前まで抑えこんでいた反動なのか。
本当は、気持ちを抑制していた覚えだってないわけだけど……。
それでも、今の自分の状態を「反動」だと結論付ける。
どうしたら翠がまた自分の手を取るのか、とそればかりを考えてしまう。
なのに、優しく接することもできてはいない。
紅葉祭のあと――あのままの流れを維持できたのなら、俺も自然と優しくなれた気がするのに。
そんな現実はない。
こういうときに思い知る。
すんなりいかないと思っていても、あのままうまくいくことを望んでいた自分の欲深さを。
逆に、秋兄は自我をよくコントロールしている気がする。
今までが今までなだけに、身に沁みて学習したのか、今は翠のペースを崩すことなく隣に並ぶ。まるで寄り添うように。
前は、俺もそんなふうに見えていたのだろうか。
いや、違うな……。俺はこんな想いを知らなかっただけだ。
好きだとは想っていても、こんなにも翠を欲してはいなかった気がする。
気持ちの大きさが、深さが全然別物。
秋兄は、最初から感じていたのかもしれない。
この、手に負い切れない相手を欲する気持ちを。
だから失敗したのだ。
本当に嫌になる。
常に秋兄のあとを追っている自分が。
「失敗」と言う前例を見てきたのに、同じことをしそうになる自分が。
意識してそうしているわけでもないのに、同じ道をたどりそうなところが本当に最悪。
「司」
気づくと翠は写真を撮りに場を離れ、藤棚の下には俺と秋兄しかいなかった。
「すごい仏頂面」
「うるさい」
「俺、帰ろうか?」
「気遣われるともっとむかつく」
秋兄がくっ、と笑った。
「本当、司の表情が豊かで見てて飽きないな。俺、割と好きだけど?」
「気色悪い」
秋兄はくつくつと笑った。
「不機嫌な理由は俺だろ?」
「秋兄だけなら苦労しない」
「……翠葉ちゃんとケンカでもしたの?」
それも何か違う。
「ケンカはしてない」
……たぶん。
「俺の個人的な感情の問題」
この会話に終止符を打ちたくて、違う話題を振った。
「越谷に動きは?」
「毎日報告は上がってきてるはずだけど?」
「きてるけど……」
「それ以上のものは俺のところにも上がってはこない。情報はすべて司に渡している」
「雅さんの件も?」
「それは司の管轄外だろ?」
舌打ちしたい衝動に駆られる。
「あくまでも学園内だけを見ろってこと?」
「見ろというよりは、集中しろ、かな」
全体像が見えている人間の言葉だと思った。
力を試されているはずなのに、こういう部分で子供扱いされている感が否めない。
そんな自分の年令に、立ち位置にイラつく。
じーさんが俺にやらせたいのはなんなのか。
それが見えるようで見えない。たぶん見えていない。
見えていないと何か綻びがあるような気がして心に影を落とす。
翠が写真を撮っている間、俺も秋兄も何をするでもなく、ただその辺の風景に目をやっていた。
そして、大半は翠の写真を撮る姿を目で追うことになる。
俺たちの視線に気づいた翠は、はっとして時計に目をやった。
「すみません……つい、時間を忘れてしまって」
撮ることをやめレンズにカバーをつけたところを見ると、「もう撮らない」ということなのだろう。
「かまわないよ。司だって翠葉ちゃんを楽しませるためにここへ連れてきたんだろうし。だろ?」
なんでいつも俺の先をいくんだよ……。
「迷惑ならとっとと声をかけてやめさせている」
結局のところ、俺からはこんな言葉しか出てこない。
翠は何を思っただろう……。
視界に映る翠は、眉をハの字にして困った顔をしていた。
ここ最近はこんな顔ばかりを見ている。
そのどれもが自分のせい。
「三時半、か……」
秋兄の言葉に自分も時計に目をやる。
ここに来たのは一時半前だったから、あっという間に時間が過ぎたことになる。
明るかった空も、少しずつ光の分量が減り始めていた。
「まだ太陽はあそこにあるのに、四時を過ぎるとすぐに陽が落ちちゃうんですよね」
翠が低い位置に移動し始めている太陽を見て言う。
「陽が沈むと急に冷え込むから、そろそろ引き上げようか」
「はい」
秋兄と翠、ふたりの会話だけでものごとが進んでいく。
それは、ひとえに俺が口を開かないから。
自分の不器用さを痛感し、それでもこういうふうにしか生きられない気がして、そのままの自分を翠に受け入れてもらいたいと思ってしまう。
じゃぁ、俺はそのままの翠を受け入れることができるのだろうか。
そもそも、そのままの翠って何?
今までなら突っ込んだことを考える必要などなかったのに。
今となってはもう何がなんだかわからない。
俺は藤山内にある自宅へ帰り、翠と秋兄はマンションへ帰る。
必然と、俺はふたりを見送ることになった。
しかも、秋兄は珍しくも歩きで藤山に来たらしく、ふたりはマンションまで歩きで帰る。
同じ時間を共有して。
「教えなければよかった……。そしたら、俺がマンションまで送っていけたかも……」
会話がなくても、言葉を交わしてギスギスしてしまっても、それでももう少し一緒にいられたかもしれない。
それとも、「蒼兄に連絡して一緒に帰る」と断わられただろうか。
何もうまく運ばない。何もうまく運べない。
けれども、秋兄に先を越されてばかりで悔しいはずなのに、秋兄がいつものペースを取り戻したことに、俺はどこかほっとしている。
危うい精神状態をやっと脱したような気がしてほっとした。
それと、翠に関しては一切手加減されていない。
そう思うと、対等に扱われている気がしてイライラが少しおさまる。
「……俺、屈折してないか?」
首を傾げながら家に帰ると玄関が開かれる。いつものように母さんの手によって。
すると、風呂上りらしいハナが廊下にいくつも足跡をつけてやってきた。
いつもきれいにブラッシングされている自慢の毛は、濡れてぺったりとしている。
頭や身体の輪郭がはっきりとわかるその様は、ずいぶんと貧相なものだった。
「母さん、ハナがかわいくない……」
「あら、ひどい。これからドライヤーをかけてふっさふさのかわいいハナになるのよ?」
「エイリアンみたいに見えるから、早いとこ乾かしてあげて」
「ハナ、今なら司のことを噛んでもいいわよ? 私が許すわ」
ハナは会話の内容がまるでわからないらしく、珍しくもきょとんとした顔をしていた。
Update:2012/05/14 改稿:2017/07/18
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