光のもとで

第14章 三叉路 49〜53 Side Tsukasa 01話

 朝の四時――通常なら携帯が鳴る時間ではない。が、自身の近くに放置していた携帯が主張を始めた。
 ディスプレイを見なくてもだいたいの予想はつく。
 ……翠しかいない。
 今までにこういうことがあったか、というなら答えは否。
 そのあたりの常識は相応にあるらしく、変な時間に電話がかかってきたことは一度もなかった。
 でも、これは翠だと思う。
 未だ鳴り止まないコール音と暗闇の中で、ディスプレイの光のみが浮き上がる。
 カチャ――音のした方に視線を向けると、寝室から出てきた久先輩が立っていた。
「それ、出る約束でしょ?」
「…………」
「翠葉ちゃんからじゃないの?」
 先輩はつかつかと歩いてきて光源に手を伸ばす。
「ほら、翠葉ちゃんから」
 印籠を見せるようにずい、と眼前に差し出され、しまいには胸元に押し付けられた。
「出なよ。切れちゃうかもよ?」
 切れるならとうに切れている。
 翠は携帯に固執するが、電話をかけることには慣れていない。
 コール音など五回も鳴らせば長いくらいで、こんなに長くコールすることはない。
「司が出ないなら俺が出るよ? で、司がじめじめ泣いてるからどうにかしてってお願いしちゃおうかな?」
「っ……」
 奪われそうになった携帯を強く握りしめた際、うっかり画面に触れてしまった。
 通話状態になったそれを見て、自分が招いた状況に唖然とする。
『私っ、あのっ――翠葉っ、ですっ』
 携帯を耳に当てるまでもなかった。
 声はそのままでも十分に聞こえる。
 少し高めの、緊張しているような声が。
 だから、何度言ったらわかるんだ……。
 携帯からなら誰がかけてきているのかわかるって……。
『ツカサっ、今から会いに行くからっ、だから会ってねっ』
 一気に言われて通話が切れた。
 ツーツーツー、とビジートーンが聞こえてくる。
 目の前にはおかしそうに笑いながら転がる塊がひとつ。
「くくっ、あははっ! 翠葉ちゃん最高っ! 司がちゃんと話さないからいけないんだ」
 話せと言われても何を話せばいい……?
「これから来るってよ?」
 来ると言われてもどうしたら――
「司、逃げたらだめだよ。せっかくお姫様が出向いてくれるんだから」
 その言い方もどうかと思うけど……。
「城に篭りがちなお姫様が、やっと自分から来てくれるんだよ?」
 言われたことに驚いて顔を上げる。
「貴重でしょ? そこで逃げたら男じゃないよ」
 先輩は言うだけ言って寝室へと戻っていった。

 俺の足元には寝袋とクッションが転がっている。
 けれど、それらを使うことはなかった
 初めて訪れたマンションのリビングで、これからどうしたらいいのか、どうなるのか、と一晩中考えていた。
 翠に謝らなくてはいけない。
 そうは思っても、翠には再度選択権が与えられた。
 謝ったところで無意味なのかもしれない。
 もう、取り返しがつかないのかもしれない。
 気づいたとき、翠は俺の中にいた。
 心にするりと入り込み、存在は大きくなる一方で――
 再度受け入れてもらえるなど、甘い期待は抱かない。
 そんな期待をわずかでも抱こうものなら致命傷になるだろう。
 殺傷能力高めな爆弾の起爆剤となって。
 今でさえ、かなりきついというのに……。
「どうしろっていうんだ……」

 ――「もう一度よく考えて決めろ」。

 それは自分が翠に放った言葉なのに、拒まれたとき、耐えられる気がしない。
 そんな選択は到底受け入れられそうにない。
 
 翠が来るまでそう時間はかからなかった。
 時間にして三十分ほど。
 体感時間では十分くらいなもの。
 玄関でふたりが話す声はどれも鮮明に聞こえた。
 ほかに音という音がないのだから、当然といえば当然のこと。
 でも、それとは別で、翠の声だけは聞き漏らさないように、と無条件に聴覚神経が働いているようにも思える。
 先輩の言葉を最後に、ドアが閉まるとき特有の空気の圧力を感じた。
 廊下の照明は点いているが、部屋の照明はひとつとして点いていない。
 俺はそんなリビングの窓際にいた。
 ちょうど、翠が立つ廊下の延長線上に。
 翠がゆっくりと、確実に歩みを進めるのが見える。
 廊下の照明はダイニングの手前部分までしか届かない。
 翠の側からは暗いリビングにしか見えないだろう。
 仮に俺の姿が見えたとして、逆光で表情を読まれることはない。
 物理的に見えない。
 わかっているのに俺は下を向く。
 どんな顔をして会えばいいのかわからなくて。
 充血している目など見られたくはなくて。
「ツカサ……?」
 顔を上げることもできなければ呼びかけに応じることもできない。
 声が震えそうだったんだ……。
 何か口にしたら自分が崩れるんじゃないかと思った。
 けど、何も言わなければ翠はそのまま俺との距離を詰める。
 すぐそこまで来ている、と気配が告げていた。
 咄嗟に、
「来るな」
 短く放つ。
 長い言葉は話すことができなくて。
 翠の歩みが止まった。が、それも束の間のことだろう。
 このまま何も言わなければ翠は歩くことを再開する。
「それ以上来ないでくれ」
 俺ははっきりと口にした。
 直後、トスン――音がした。
 翠がラグに膝を落とした音だった。
 翠は堰を切ったように話しだす。
「……ごめんっ。ツカサ、私、ごめんねっ? 謝って許してもらえるかわからないけれど、ごめんっ。関わらないでなんて思ってないっ。関わらなければ良かったなんて思ってないっ。本当にごめんっ。もう二度と言わないから、もう絶対に言わないから――」
 完全に先を越された。
 本来なら、俺から謝らなくてはいけないところで。
 そうだ――何を考えるより先に、まずは謝らなくてはいけなかった。
 何を受け入れられるとか受け入れられないとか、自分のことではなく……。
 こんな場面でようやくわかる。
 わかったのに、俺は素直になれない。
「そんな簡単に答えを出していいわけ?」
「……え?」
「せっかく与えられたチャンスなのに、そんな簡単に答えを出していいのか、って訊いてる」
 俺は自分の声が震えていないことにほっとした。
 いつもどおりに話せていることに心底ほっとした。
 たぶん、防衛本能が働いたのだと思う。
 自分がこれ以上傷つかないための本能が。
 謝るとか謝らないではなく、許す許さないでもなく、ただひとつ――翠を失うことが怖くて。
 翠との関係を絶たれることが怖くて。
「ツカサ、そっちに行っちゃだめかなっ?」
「来ないで」
 こんな自分は見られたくない。
 この距離が限界。
「……ごめんっ。そっちに行く。顔を見て話したいからっ」
 サラ、と勢いよく衣擦れの音がした。
 バカっ、急に立ち上がるなと何度言ったら――
 顔を上げると、翠が真っ直ぐ俺を目指していた。
 けれど、視線が交わることはない。
 無意識に前へ伸ばされた手が証拠。
 眩暈を起こしたまま歩いている。
 そして、足元に転がっていたクッションに躓いた。
 ほんの数秒間の出来事。
 自分の目の前で翠が崩れ落ちる。
 反射的に出した手を俺は引っ込めた。 
 触れたくて、触れられなくて――。
 翠の膝が着地した場所は、俺の脚の内側だった。
 痛みに顔をしかめるものの、それを声に出すことはない。
 もしかしたら、「痛み」全般を我慢することに慣れすぎているのかもしれない。
 翠は俺の両脚の外側に手をつき体勢を整えると、頭をこちらに突き出す体勢となる。
 すぐ目の前に翠の頭があり、長い髪が俺のシャツにかかっていた。
 何度となく嗅いだことのある香りが鼻腔をくすぐる。
 変な感覚に陥りそうで、俺は焦って口をつく。
「バカなんじゃないの? 急に立つな。……眩暈がしたらすぐ座れって何度も言われてるだろ?」
 口を開けたところでこんな言葉しか出てこない。
「言われてるけどっ、立ち止まれないときだってあるっ」
 あまりにも大きな声が返ってきたから眩暈が治まったのかと思った。
 けど、違った。
 意思のある目なのに、声なのに、間違いなく俺を捉えているはずのそれと視線が交わることはない。
 意地っ張り、強がり……。
 そんなところすら愛おしく思えるから困るんだ。
 バカだ、と頭にきつつも、そんな部分も愛おしく思えるから――
 突如、
「っ……ごめんっ」
 視界が戻ったらしい翠が俺から離れようとした。
「っ……勝手に人の中に入ってきて、勝手に出ていくなっ――」
 今度こそ条件反射だった。
 身体の動きも放った言葉も何もかも。
 自分から離れる翠を直視できなくて――
 何を掴んだのかは定かじゃない。
 ただ、目の前にある「翠」が離れないように必死だった。
 とはいえ、どんな言い分だ、とも思う。
 でも、もう遅い。遅いんだ――
 翠を手放すことなどできない。
 つながりを絶つことなど考えられない。
 選択権など与えられない。
 格好悪い自分を見せることで得られるのなら、それでもいい――



Update:2012/06/16  改稿:2017/07/19



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