視界の端にその姿を追いつつ、何も訊きはしない。黙々と、ふたり揃って紙を破る。
でも、翠葉ちゃんの破り方が気になって仕方なかった。
まるで、紙に「ごめんね」って謝りながら破っているように見えたから。
彼女が雑誌を破るとき、音はペリペリ、チリチリと音を立てる。本当に私とは正反対で、音を立てることさえ申し訳ない、とでも思っているかのように、実に慎ましやかに破るのだ。
その胸に何を秘めてるんだろう? そう思ったとき――
「果歩さん……どうして果歩さんは不機嫌なんですか?」
思わぬタイミングでグサリと矢を胸に突きつけられる。
たったの一言、されど一言。殺傷能力は十分すぎるほどに高かった。
「ザックリストレートにきたねぃ」
思わず作業は一端中断。
「そりゃ、色んなことに不満や不安があるからだよ」
「でも、もう産むと決めているのでしょう?」
思考停止を通り過ぎて、心肺停止するんじゃないかと思った。
不自然にならないぎりぎりのタイミングで、
「私、まだ何も言ってないよ?」
ソファの上に上がりこんでちまちまと紙を千切る翠葉ちゃんを見ると、きょとんとした顔を向けられた。
でも、真っ直ぐに私を見てくるその目は意思が宿る目で、翠葉ちゃんは戸惑いながらも口を開く。
「言ってないけど……でも、この部屋にいるから。いつもベッドの上にいるから。……それはつまり、お腹の子が大切だから、ですよね? 守るためにここにいるんですよね?」
絶句――してる場合じゃない、切り返せ私っ。
「でもそれは、今は――かもしれないよ?」
まだ妊娠初期なのだ。堕ろそうと思えば堕ろせない時期ではない。
「……私、動物を飼ったことがないからわからないんですけど……」
翠葉ちゃんは視線を落とし紙を千切り続ける。
音を途切れさせることなく声を発し、
「一度守ろうと思った命を、途中で捨てられるもの、ですか?」
心臓掴まれた――ガシッ、て。酸素ボンベの酸素供給を断たれた感じ。
ヤバイヤバイヤバイ。息吸わなくちゃ。吸わなくちゃ――
人がやっている行動なら真似できそうな気がして翠葉ちゃんを見たけれど、翠葉ちゃんの様子もおかしなことになっていた。
ずっと単調に動いていた手が止まり音が止む。
行動が止まって空気が止まって――クシャリ、と紙を握りつぶす音。
「すみませんっ……あの、ごめんなさい。産むか産まないかは果歩さんの人生に大きく関わることで、あの、私が何を言える立場でもないのに――自分勝手な考え、というか、余計なことを言ってしまって、本当にごめんなさい」
完全に息継ぎを忘れ、言葉に詰まりながらの謝罪。反省してる姿、形。
全部無意識。言ってしまった言葉も、今現在過剰なまでの謝罪の姿勢も。
何か言い返してやろう、という気持ちが一気に失せる。
翠葉ちゃんはソファの上で土下座をしていた。
膝に乗せていたビニール袋が落下して、ヒラヒラと零れた紙は想像どおり、均等な大きさに千切られていて、桜吹雪みたいでちょっときれいだった。
人間、目の前に居たたまれない人がいると寛容になっちゃうものなのかな……?
そんなことを思いながら手を伸ばした。翠葉ちゃんの頭に。
ポンポン――軽く叩いただけだけど、キューティクルが破壊されてない髪はとてもよい触感だった。そして、何よりも頭の形が良い。
普通、こんな状況で人の髪の触感だとか、頭の形とか考えないよなぁ……。
自分の感覚が少しずれてきてるんじゃないか、と思うとおかしくなる。
「ゆっくりね。ゆっくり身体起こして?」
口から出た声は、自分でもびっくりするようなやわらかい声だった。
あぁ、こんな声で楓さんと話せたらいいのに。
思いながら目の前のカワイイ生き物に視線を合わせる。
よしよし、頭を上げたかね。
「うぅぅぅーーーん!!」
私は前かがみになっていた身体をぐぃぃぃっと伸ばし、ついでに腕も伸ばす。クッション代わりにしていた枕にポスンと身体を預け、再度翠葉ちゃんに視線を向ける。
翠葉ちゃんはずっと私を見ていた。少し困ったような顔で。どうしよう、って顔で。
そんな顔をされてしまうと怒りなど引っ込んでしまう。
「翠葉ちゃんには敵わんなぁ……」
まったくもって敵う気がしない。楓さんめ……。
「ねぇ、黙っててあげるから白状しない?」
「……何を、ですか?」
「翠葉ちゃんって実は楓さんに送り込まれた伏兵でしょう?」
翠葉ちゃんはぎょっとした顔をした。
「そんなっ……私が兵力の足しになるとは思えませんっ」
真面目に答えなさんなって……。
「……でも、伏兵って……? あれ? 果歩さん、楓先生と戦争しているんですか?」
戦争、か……。そうきたか。もうだめだ、降参っ。
「あははっ、ははははっ」
ゲッラゲラ笑った。お腹の底から。
入院してから初めてかもしれない。
気が済むまで笑ったら喉が渇いた。湿度調節もしてくれてるけど、やっぱ話してると喉が渇くのが人の原理。
ということで、目の前にあるカップを手に取りグビグビ飲んだ。
カラになったマグカップを差し出し、
「おかわりもらっていい?」
「はい」
いい子のお返事。カワイイ子のお返事。素直な子のお返事――
なんか、どれも自分から欠如してるような気がして、それら全部が欲しくなる。欲しくなって、ソファを立ち上がった翠葉ちゃんの手を掴んでしまった。
「翠葉ちゃんのグラスも空けちゃおうか? で、一緒におかわりしよう」
本当はね、おねぃさんは翠葉ちゃんが欲しかったんです。翠葉ちゃんにガブッ、と噛み付いたらどんな味がして、その血肉を食べたら自分もそんなふうになれるのかな、とか。ちょっとだけ、ほんの少しだけ真面目に思ってしまいました。ゴメンナサイ。
そんな私の言葉を真に受けて、慣れてないであろう飲み物の一気飲みをしてくれてアリガトウ。
翠葉ちゃんは自分のグラスを一気に傾け飲み干すと、「待っててくださいね」と簡易キッチンへ向かった。
この部屋に入ってきたときと同じ状況。翠葉ちゃんが簡易キッチンから飲み物を持って戻ってくる。
右手に私のカップ、左手に自分のグラス。それはいつも変わらない。
「左利き?」と訊いたことがある。そしたら返事は右利きだった。
私はその答えに嬉しくなった。
あのね、人って大切なものを利き手に持つ心理傾向があるんだよ。必ずしも、ってわけじゃないけれど。それってさ、今は私のカップを大切にしてくれてるってことだ。
ほんの些細なことかもしれない。でも、無意識に大切にされてるってなんか嬉しいじゃん。
たかだかそんなことに私の心は穏やかになる。ザッパーンザッパーンッて波が打ち付けていたのに、急に静かになる。
そんなことが何度あったかね。まだ三回しか会ってないのにさ。
変な子。変な子だけど、やっぱりすごくいい子だ。
私は翠葉ちゃんが定位置に腰を下ろしたのを見て話し始める。
きっと話せる。この子の前でなら、屈折しまくった私も素直になれる。
「翠葉ちゃんの言うとおり。たぶん、私はこの子を堕ろすなんてできない。今ここにいるのも、結局はこの子を守るためだと思う。意識してたわけじゃないんだけど、翠葉ちゃんに言葉にされたら、そっか、って思った。そのとおりだな、って」
本当、おねぃさん参りましたよ。翠葉ちゃんの言うとおりです。こーんなやな思いして、こーんな窮屈な場所にいるのは、ぜーんぶこの子のため。
言われて気づくとかアホすぎんじゃないか、と自分の脳みその初期化を考えたくらいだ。
無意識に投げられた言葉は、素っ裸の言葉で、超絶鋭利な刃物だったけど、ザックリ切られたらなんか爽快だった。私、ますますもって感覚やばいかも。
「運ばれたときは出血してたし、お腹痛かったし――正直何を考える余裕もなくて、レポートの期限迫ってたし、資料集めすら終わってなかったし、超パニックだったわ。でも、痛みがひどかったのって最初の二日間だけだったの。だからすぐに退院できると思ってた。退院して、レポートとか片付けたら考えようかって現実逃避の体勢だっただけに、逃げ場失って鬱憤溜まって――」
病院抜け出しちゃえ、と思ってたところにお母さんが来た。ナース服のままで。
「あら、果歩ちゃん」
にこりと笑い、ピシャリとドアを閉められた。
「ベッドの上で、絶対安静、って聞いていたけれど、どうしてドアの前に立っているのかしら?」
「トイレ」
「トイレはそこよ?」
部屋の片隅を指され戸惑う。
トイレ、シャワー、キッチン完備の部屋であることは知っていた。だって、「トイレ」と答えたのは咄嗟に出た嘘だったのだから。
言葉に詰まっていると、
「ほら、ベッドに戻って」
くるり――回れ右で室内に戻される。あと一歩で廊下に出られる場所から。
仕方なしにベッドへ上がると、
「あのねぇ、あなたのお世話してくださってる看護師さん。お母さんの上司なのよねぇ……」
目が怖かった。表情はにこやかなのに、目が据わっている。
「果歩が思ってるよりも、ものすごぉくエライ人で、ものすごぉく忙しい方なの。だから、手を煩わせるようなことはしないでね? ほら、ここ、お母さんの職場だし」
そんなことを言われたら何も言えなくなる。やれなくなる。
だって、お母さんが私を育てるのに困らなかったのは手に職があったから。働く場所があったから。
私、お母さんには頭が上がらないんだよぉ〜……。
そんなわけで脱走は諦めたわけだけど、
「うちの母、ここのオペ看なの。あぁ、オペ看って、つまりは手術室専任の看護師なんだけど……。その母がね、看護部長の手を煩わせるな、って言うのよ。私の担当看護師さんって、どうやら母の上司らしくて……」
「はぁ……」
「楓さんと付き合ってるのってさ、公になっていいこと何もないじゃない? 母だって職場でやな思いするかもしれないし。今のところ、看護部長しか知らないみたいだけど」
それは私の願いでもあったけど、楓さん側というか、藤宮的にもそのほうがいいらしかった。
「……公になっていいことが何もないっていうのは、悪いことがある、ということですか?」
「や、悪いことしかないでしょ」
それが事実。今までのあれやこれやが現実を物語る。
「あの……たとえばどんなことですか……? あ……って訊いてもいいですか?」
きょとんとした、小動物のような目が見上げている。
「翠葉ちゃん。ソレ、すでに訊いてるって言うんだよ?」
「あ、ごめんなさいっ」
「いいいい。別に気にしてないから」
むしろ好物だから――って私、いつかこの子を食べちゃうんじゃないかな?
いえ、レズビアンの気はまったくございませんが。つまり、そのくらいカワイイと思っているだけです。
「つまりさ、見目麗しく? 頭脳明晰? お家柄もご立派で? そんな人が目ぇ惹かないわけないじゃない? その隣に分不相応な女が並べばいいようには見られないって話」
私が何を気にしなくても、相手方やら周りは違うだろう。
ううん、「だろう」なんて不確定なものじゃなくて、「絶対」。
問題なのは、その辺を楓さん自身がまったく意識していないこと。
意識が楓さんに逸れると、私のすぐ近くにいた小動物がしょげていた。
「翠葉ちゃん……?」
「…………」
むむむ……人の痛みまで想像してしまうんだろうか。それでそんな顔ができちゃうんだろうか。
真似したくても無理が目に見えている。
「そーんなつらそうな顔しなくていいよ? うち、母子家庭だからそういう目で見られるの多少免疫あるし」
こういう話をカラッと流すのは得意。だって慣れてるもん。
でもね、申し訳ないけど母子家庭ってそんなに不幸せなもんじゃないし、そんな悲しそうな目で見られるようなものでもない。
世間一般の母子家庭がどうかは知らない。でも、少なくともうちは、お母さんとふたりで不幸だと思ったことはない。
ちょっと説教たれてやろうか? と思ったら、翠葉ちゃんの意識はほかへ飛んでいた。自分の頬を押さえて、表情筋の確認でもしているかのようだ。
……何やってんの?
「おーいっ! 聞こえてますかぁっ!?」
ちょっと大き目の声で、幼稚園児に問いかけるように訊いてみた。
すると、意識がこちらに戻る。
「あ、聞こえています。あのですね、私の周りも何分藤宮だらけなので、その気持ちは少しだけわかるような気がしなくもなくて、だからきっとこんな顔で――」
あぁ、止まってしまった。その勢いで全部話してしまえばいいのに、と毎回思う。
言葉に詰まって困っているのか、内に秘めたものに困惑してるのか――どちらにせよ、小さな女の子は私の前で泣きそうになっていた。
「なーんで止まっちゃうかね? そのまま全部吐き出しちゃえばいいのに」
「え?」って顔で私を見る。その目には私が映っているのに、どうしてか途中でどっかいっちゃうんだよねぇ……。
「ここに来るのは三回目。前回も今みたいにわーって話しだして止まっちゃったでしょ? で、その先は言わない。私みたいに全部言っちゃえばいいのに。言うだけならタダだよ? 楓さんは、翠葉ちゃんが何か内に抱えてるものがあって、それを吐き出させたいがためにここに連れて来たんでしょ? 翠葉ちゃんはちゃんと役目を果たしているのに、私は役目を果たせてないんですけど?」
ちょっと意地悪っぽく言うと、翠葉ちゃんは悲しそうな顔に薄く笑みを浮かべる。そしたら、もっともっと悲しい顔に見えた。
作られた笑顔って、こんな切ないんだ。
いっぱいいっぱいの翠葉ちゃんを見ながら、早く心から笑える日が来ますように、と祈らずにはいられなかった。
Update:2017/07/26
ネット小説の人気投票です。投票していただけると励みになります。
↓コメント書けます*↓