光のもとで

最終章 恋のあとさき 31〜34 Side Soju 02話

 目覚ましが鳴り、頭上のそれに手を伸ばした勢いのままにアラームを止める。
 この季節だけは布団の誘惑に負けそうになる。
 あたたかな布団は甘美なぬくもりを武器に、「今日はやめたら?」と訊いてくる。その誘いを振り切るべく、ベッドから抜け出るのが冬だけに与えられる試練。
「……起きる、起きる、起きる――」
 バッと身体を起こし、ぬくもりの魔手から逃れるように立ち上がる。手短にランニングへ行く支度を済ませると部屋を出た。
 階段を下りようとしたとき、翠葉の部屋から一筋の光が漏れていることに気づく。
 ……起きてるのか?
 静かに階段を下り控え目にノックをすると、「はい」と返事があった。
 そっとドアを開けると、翠葉はすでに着替えを済ませ、ヒーターの前で飲み物を飲んでいた。
「起きてたのか?」
「昨日、寝たのが早かったからかな? 四時半に目が覚めちゃったの。……蒼兄はこれからランニング?」
「そう」
「あ……今日はロード? それとも公園……?」
「今日は公園に行こうと思ってるけど……?」
 なんでそんなことを訊かれるのかと不思議に思っていると、
「それ……ついて行ってもいい?」
 かすかな予感はしていたが、まさか本当にその台詞が返ってくるとは思わなかった。
「翠葉……わかってると思うけど、間違いなく寒いぞ?」
「うん。そう思う……」
 屋内にいる今ですら、ヒーターの吹き出し口に手をかざしている状態なのに。
「朝陽が……見たいの」
 翠葉は、まだ暗い窓の外を見ていた。
「朝陽なら俺がランニングから帰ってくる六時でも間に合う」
 翠葉は俯いて黙り込んでしまった。
「翠葉?」
「時間を……無駄に過ごしたくないの。冬の寒さを感じたい。霜の降りた土を見たり、草についた露を見たり、外の空気を吸いたい」
 それらを見るのが楽しみというよりも、何か思いつめた目をしていた。
「昨日も訊いたけど……何かあったか?」
「……ごめん、上手に話せない――」
 ……今が訊き時、かな。
 俺は後ろ手にドアを閉めた。
「上手になんて話さなくていいよ。聞く時間がないわけじゃないし」
 翠葉の背がかすかに上下した。人が呼吸をするときの動きで。
「あの、ね……泣きたくないの。自分が弱いせいで……泣きたく、ないの」
 まるで絞り出したような声で言う。
「今日はランニング休むよ」
「それもやなのっ」
 一言前とは大違いの、張り詰めた声で言われた。
 翠葉の心をいたわるように声をかけると、
「自分のせいで人の予定や何かを狂わせるのもいや……。あと、ここに留まったままなのもいや」
 フラストレーション――ストレスよりも、その言葉ほうがしっくりくる気がした。
 現状に満足しているわけではなく、どうにかしたいのにどうにもできない。自分に不満があり、不快な緊張をこれでもかというほどに強いられる。
 どうしたらそこから抜け出せるのかがわからない――
 テニスや陸上をやっていたとき、俺も何度となくそんな状況に陥った。あのときはスランプって言葉を使ったっけ……。
 ふと、相馬先生に言われたことを思い出す。

 ――「散歩にでも連れ出してやれ」。

 ……仕方ない。この際、時間帯や寒さには目を瞑ろう。翠葉がしたいようにさせてみよう。
 でも、申し訳ないけど唯には起きてもらうようかな。さすがに夜道ともいえる暗がりを翠葉ひとりで歩かせるのは不安だし、何より、唯ならきちんと防寒対策をしてくれるだろうから。
「じゃ、あと二十分したら出てきて。ちゃんとあったかい格好してジョギングコースから大体育館に行く道の分岐地点。そこで待ち合わせ」
「でも、そしたらいつもより走る時間短くなっちゃう……」
「大丈夫。いつもよりハイペースで走るから」
「え?」
「本気で走れば十キロ三十分台で走れる。あと二十分後に翠葉が家を出ればちょうどいい。そしたら翠葉にクールダウン付き合ってもらえる」
「……あり、がと」
「その代わり、翠葉はちゃんと防寒対策してこいよ?」
「うん。お腹と背中にカイロ張って、タイツにレッグウォーマーと肘までの手袋とダウンコート着る」
 話が一段落ついたとき、
「残念。ふたつ漏れてる」
 ドアの外から声がした。疑う余地なく唯の声。
 すぐにドアが開き、
「マフラーとイヤーマフがついたら完璧」
 実に面白くなさそうな面持ちで唯が立っていた。
「俺だけ除け者とかやめてよね。……寂しいじゃん」
 外に出たらすぐ携帯鳴らして起こすつもりだった。……とは口にできず、とりあえずそのつもりはなかった旨を伝える。
「別に除け者にしたつもりはないよ。ただ、俺が起きてきたら翠葉が起きてたからさ。その流れで話しててこうなってるだけ」
 唯は、「ふぅん……」と納得しているのかしていないのか怪しい返事をしつつ、
「じゃ、俺も着替えてくるから」
 と一緒に部屋を出た。
「唯、真面目に……。家を出たら唯を起こして翠葉と一緒に来てもらうつもりだったから」
「……一応信じとく」
 やっぱりどこか拗ねたふうで、唯は二階へと上がっていった。

 洗顔を済ませると、玄関ポーチで軽いストレッチを始める。
 十キロ三十分が無理ではないにしろ、十キロ走ると翠葉たちとの待ち合わせ場所を通り越してしまう。
「……九キロ弱ってところかな?」
 俺は家を出ると、腕時計のストップウォッチをスタートさせた。
 運動公園内のジョギングコースに出れば一〇〇メートルごとに距離表示ポストがある。その表示とストップウォッチを見ながら一分三キロのペースをキープ。
 あとは自分の呼気を感じながら、前へ前へとひたすら走るのみ。
 走っているときは頭を空っぽにすることができた。勉強のこと、進路のこと、学校のこと、友人関係のこと、家族のこと。何も考えずフリーになれる時間。
 もともとは体力づくりであったり、脚力を鍛えるために始めたランニングは、いつしか自分にはなくてはならないものになっていた。
 毎朝、頭や心をリセットするための――俺なりの儀式。
 翠葉にも、気持ちを切り替えることができるようなアイテムがあるといいんだけど……。
 翠葉にとってのピアノは一種それに近いのかもしれないけれど、あれはリセットするとかそういう類ではない。どちらかというと、抱えきれなくなったものが溢れ出す……。そんな感じ。
 そういうのじゃなくて――ストレス発散。リセット。そうできるものが見つかるといい。

 少し先に翠葉たちの姿が見えた。
 徐々に走る速度を緩め、翠葉たちを追い越す瞬間、
「うっわ……スライドでかっ」
 唯の声。
 そりゃね、速く走ろうと思えばスライドも大きくなるってものです。
 俺が止まったのは翠葉たちから六メートルほど先だった。
「久しぶりに本気で走ったっ」
 短距離を全力で走りきるのとはまったく別の快感。週に一度くらいはこのペースで走るのもありかもしれない。
 そんなことを考えながら屈伸をすると、すぐそこまで翠葉が来ていた。
 翠葉が隣に並んでからクールダウンのウォーキングを開始する。と、唯が後ろから駆けてきた。
「で? あんちゃんどのくらい走ったの?」
「十キロには及ばず。……九キロ弱くらい?」
「ぐはっ……御園生唯芹はあんちゃんを超人と認識しました」
 いや、その認識は嬉しくないんだけど……。
「毎朝十キロ走るのは中学のときの習慣だから別になんともないけど……唯も走ってみるか?」
 拒否されるのを想定して訊いてみると、
「全力で遠慮させていただきますっ。一メートルたりとも走りたくございませんっ」
 おぃ……一メートルっていうのは言いすぎだろう。
 そうは思ったけど、翠葉がクスクスと声を立てて笑っていたのでいいことにした。
 三人、手をつないでジョギングコースを会話なく歩く。
 日の出までにはまだ二十分近く時間がある。ベンチはそこかしこにあるけれど、動かずに座って待つのは寒すぎる。
 そんなわけで、日の出までは歩き続けようと思ったわけだけど……。
 会話がないまま、というのは少々いただけない。
 冬の張り詰めた空気は好きだけど、人間関係において、その雰囲気が満ちているのはあまり好きじゃない。だとしたら、看破しなくちゃいけないわけで……。
 俺は自分に制限を課した。
 この呼吸が整ったら――そしたら切り出そう。
 数分もすると呼吸はいつものそれと変わらなくなる。
 ……三、二、一。
「……翠葉。さっきも言ったけど、別に上手になんて話さなくていいよ? 聞く時間はたくさんあるから」
 俺の声があたりに響き、翠葉の視線はほんの少し下がる。
 そして、つながれた右手に少しの力を感じた瞬間、
「……私の言動で、友達に嫌な思いさせちゃったの。……佐野くんと桃華さんと香乃子ちゃん――言葉にして教えてくれたのは三人だけど、もっとたくさんの人に嫌な思いをさせてるんだと思う。でも、どうしても身動きが取れなくて……」
 声が震えている割に話す内容は簡潔で……。
 きっと、ここに来るまでに用意していたものなのだろう。
「……概要だけ? 肝心の内容は話してくれないの?」
 唯の合いの手に翠葉は口を噤んでしまう。
「今抱えてるものが原因で胃に負担かかってんじゃないの? 話して楽になるなら話せばいいのに。これで不整脈まで出てきたら目も当てらんないよ?」
「唯、ストップ。それじゃ翠葉が話せない」
「でもっ……」
 唯、ありがとう。切り込み隊長を買って出てくれて。唯がそう動いてくれるから俺は翠葉をフォローできるんだ。
「翠葉……話そうとしてもっと苦しくなるなら言わなくていい。話したら楽になるとは限らないから、話せるようになったらでもかまわないよ。ただ、苦しくてどうにもならないとき、絶対そこに俺たちはいるから」
 唯がいなければこの会話は成り立たない。
 翠葉は目に涙を溜めていた。
「蒼兄……私、そういう優しさに甘えて、甘えすぎて……友達なくしちゃったかもしれない」
 やっとの思いで言葉を発すると、翠葉は俯いてしまった。顔は見えないものの、翠葉の足元、コンクリートが泣いていることを教えてくれる。
 それを見ていると、唯の視線が自分に向いていることに気づく。目が合うと、「どうにかしてよ」と視線のみで言われる。
 そうだな……。言うならこのタイミングだな。
 俺はすっと息を吸い込み、切り札を切ることにした。
「……翠葉。桃華と佐野くんから伝言がある」
 驚いたのか、つながれた手から振動が伝わった。
「翠葉があまりにも落ち込んでるようだったら伝えてくれって言われてた。……私たちは友達だから、たまにきついことを言うかもしれない。でも、それで友達をやめるとか離れるとか、そういうことは考えてない。佐野も同じ。私も佐野も、どうでもいい人間が相手なら何も言わずに離れてる」
 一言一句違わずに伝える。
 届け――桃華や佐野くんの想い。真っ直ぐ、届け……。
 翠葉はずっと下を向いたまま涙を流していた。
 今、何を思っているだろう……。何を感じているだろう。
 ちょうど開けた広場に出たとき、日の出の兆候が山の稜線に見え始めていた。
「リィ、顔上げてごらん」
 翠葉は上半身を揺らすようにして拒んだ。けれど、
「いいから、あーげーるーっ」
 唯は翠葉の頭を両手でおさえ、無理やり前を向かせた。
 こういうやり方、俺にはできないな。
 新鮮な思いで見ていると、涙に滲む目に真っ赤な太陽が映って見えた。
「見えた? 朝陽だよ」
 俺も視線を前に移す。と、オレンジをより濃くしたような太陽が、朝もやの中で一際存在を主張していた。
 ゆっくりと上昇する太陽を見ていると、
「リィ、ごめん……。なんか最近のリィは危なっかしすぎて見てらんなかったんだ。でも、それでこんなふうに訊くんじゃもっと困らせちゃうよね」
「そんなこと――」
 ふたりのやり取りを微笑ましい思いで見守る。
「家族の前でくらい、もっと肩の力抜いていいんじゃない?」
 不意に、唯に場所を譲られた。即ち、翠葉の背後。
 俺は半歩移動して、マフラーの上から翠葉の肩を掴んだ。
 まだ強張っている身体を優しくマッサージしてほぐす。
 翠葉……距離を測りあぐねているのは翠葉だけじゃないよ。俺もだ。
 何を訊いたらいいのか、どう訊いたらいいのか、俺も悩んでる。
 何をしてあげられるのか、何もせずに見守ることが正しいのか、常に考えてる。
 時には間違えることもあるかもしれない。でも、大切なことだから悩むんだ。
 翠葉が今悩んでいることも、きっと翠葉にとってはすごく大切なことだから……。なら、思う存分悩めばいいと思う。
 ただ、その傍らに俺と唯がいることだけは覚えていてほしい。そして、視野を広げれば、桃華や佐野くんたちがいることも……。
 いつか、気づけるといいな。



Update:2013/07/20  改稿:2017/07/26



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