光のもとで

最終章 恋のあとさき 35話

 沈んだ気持ちのまま月曜日の朝を迎えた。
 朝食の席で、
「顔色悪いわよ……?」
 お母さんに言われ、
「眠れなかったのか?」
 蒼兄にも訊かれる。
「そういえば……夜、ずっと電気点けたままだったでしょ? 一度消したんだけど、また点けてたよね? 何度か様子見に行ったんだけど、寝てることは寝てるみたいだったし、なんか理由があるのかと思って消すのやめたんだけど」
 コーヒーをトレイに載せてキッチンから出てきた唯兄の指摘にドキリとした。
「翠葉?」
 お父さんが催促するように私の名前を呼ぶ。
「ちゃんと、寝た、よ? 電気は……消し忘れちゃったの。そのあとは……たぶん寝ぼけて点けた、のかな?」
 あまりにもぎこちない話し方だっただけに、みんなの視線が針のように刺さる。
「……ごめん、なさい。でも、寝ることは寝たの。本当に……。ただ――暗いのが怖くなっちゃって……電気、点けていたくて」
 正直に話したらみんなの表情が和らいだ。
「そんなときは誰でもいいから呼びなさい? 兄ふたり、私と零。誰でも喜んで話し相手になりに行くわ。ね?」
 お母さんがテーブルを囲う面々を見ながら言う。
「うん。もちろん」
 唯兄がすぐに相槌を打ち、それを追いかけるように蒼兄が、
「ふたりでカードゲームは味気ないけど、三人なら楽しめるじゃん」
「ちょっと待てちょっと待てっ! なんで三人なんだよっ! 父さんを除け者にするなっ」
 立ち上がって抗議するお父さんを見て、昨日の朝を思い出した。同じ言葉を口にした唯兄を。
 すると、唯兄も蒼兄も同じことを思ったのか、顔を見合わせ肩を竦めてクスリと笑う。
 私もほんの少し顔の筋肉が緩んだ。でも、心までは緩んでくれなかった――

 お母さんと病院へ行くと、今日も九階に涼先生がいた。
「どうして……」
 思わず声が漏れ後ずさる。
「そうですねぇ……挨拶、ですかね?」
 先日と同じようににこやかに笑い手を差し出された。
「……いえ、あの……もう胃カメラの予約は入れられてしまったし、逃げませんから……」
「ですが、身体は後退してるように見えますが?」
「いえ、そんなことは……」
 仕方なく足を止めると、
「では、脈を見せてください」
 す、と目の前まで距離を詰めた涼先生に手を取られた。
「スイハ、あんま手間取らせんな」
 カウンター向こうで、決して行儀がいいとは言えない座り方をしている相馬先生に言われる。
 いつも思う。椅子に座っているだけなのに、とても柄が悪く見えるのはどうしてだろう、と。
 ここまでくると一種才能のような気がする。
「その人、一応多忙な身なんでな」
 相馬先生から視線を戻し涼先生を見上げると、
「そうですね。決して暇つぶしにここへ来ているわけではありませんね。診察の合間を縫って来ていますので、おとなしく診察させていただけると嬉しいのですが」
「あの……私、消化器内科の予約は入ってませんし、お忙しい先生自ら出向いてくださらなくても……」
 少し顔を逸らして答えると、後ろにいたお母さんに怒られた。
「翠葉っ、時間を割いて来てくださっているのにその言い方はないでしょうっ!? 涼先生、すみません……」
「いえ、いいんですよ。お嬢さんの言うことも一理あるので。私が放っておけなくて診に来ているにすぎませんから」
 涼先生はお母さんにも笑みを向けた。
「では診察をするのでこちらへ。お母さんは廊下でお待ちください」
「はい、よろしくお願いします」
 私は物のように差し出され、夏に入院した病室へ連行された。

 前回と同じように下瞼の粘膜を見られたり、口腔内を見られたり、腹部の触診の末に訊かれる。
「前回、胃の粘膜を保護する薬を追加で出しましたがどうですか? 胃の痛みに変化はありましたか?」
「あまりないように思います」
「そうですか。ご飯は食べられていますか?」
「はい」
「分量はどうでしょう?」
「半人前弱くらいは食べられています」
「胃はずっと痛いですか?」
「不快感なら一日中……でも、蹲るくらいに痛むのはたいていが空腹時です。……胃酸過多なんでしょうか?」
「そうかもしれませんね。……下瞼の粘膜が大分白い。鉄分も足りていない気がします。血便は?」
「いえ……今のところは」
「……嘘はついてませんね?」
 ツカサと酷似する目が探るように私を見ていた。
「……はい」
「疑っているわけではありませんが、念のために今日は血液検査もしておきましょう」
 先生はてきぱきと用意をし、止血帯をすると血管と睨めっこをしてすぐに消毒を始めた。
「……少しちくっとしますよ」
 針が皮膚を刺し、その下にある血管にプツリと進入する。
「すごい……」
「……何が、でしょう?」
「あ……えと、血管に刺さるまで間がなかったから……」
「間、ですか?」
「はい。ちゃんと血管に針が刺さるときは二度痛みがありますから」
「もしかして、皮膚に刺さるときと血管に刺さるとき……という意味ですか?」
「はい。皮膚に刺さるときよりも血管に刺さるときのほうが少し痛いんです。たいていの人は皮膚の次、血管を刺すまでに少し時間がかかるんですけど、涼先生はその間がなかったので……」
「その『間』でしたか」
 先生は少し苦笑する。
「あの、本当にすみません。こんなにすんなりと採血されることはあまりなくて……」
 採血する人はたいていが難しそうな顔をする。数回の失敗はよくあることだ。
 こと、湊先生や藤原さんにおいてはあまり失敗された記憶はないけれど……。
「そうでしたか……。いつも痛い思いをさせていたのでしょうね。申し訳ございません。もっと精進するように通達しておきます」
「あっ、いえっっっ。そこまでしていただかなくてもっ。私の血管がいけないのであって、看護師さんや臨床検査技師さんたちが悪いわけではっ――」
「動かないでくださいね」
 にこりと牽制されたあと、針を抜かれた。
「御園生さんが悪いわけではありません。そういう患者さんは割といますし……。強いて言うなら、医療従事者の修行不足です。ところで、湊や楓はどうでしたか?」
 にこにこと笑っているのに凄みを感じる。
「え……あの……」
「かばうようなことはしていただかなくて結構ですよ? さ、正直に」
「さ、最近は湊先生にも楓先生にも失敗されたことないですっ」
「ほほぉ……最近とはいつまでのことを言うのでしょうね?」
 怖くて及び腰になっていると、
「腕のいい医師になってもらいたいだけですから、そんな怖がらなくても大丈夫ですよ」
 採った血液の入った真空管を振りながら言われる。
「採血の結果はパレスでお話ししましょう」
「でも、その日は――」
「えぇ、湊の結婚式です。お越しいただけるのでしょう?」
「はい。でも……」
「でも?」
「…………」
「お気になさらず。その際にも診察させていただきますので、そのつもりで」
 涼先生はにこりと笑ってステンレストレイを片手に病室を出ていった。
「……涼先生、ずっと笑ってた……」
 採血するときだけ一瞬笑みが消えたけれど、それ以外は終始笑っていたように思える。
 同じ顔だけど、ツカサとは全然違う。
 ツカサは無表情がデフォルトで、笑っているところなんで数えるほどしか見たことがない。
 眉間にしわを寄せて不機嫌な表情や怒っている顔。そんな表情ばかりが思い出される。
 ふと、自分が名付けた氷の女王スマイルこと、絶対零度の笑顔を思い出す。
「……同種の笑顔だったかも?」

 涼先生の診察が終わるとすぐに相馬先生の治療が始まる。
 脈診の見立ては先週指摘されたものと変わらなかった。
 身体の状態に大きな変化はないけれど、心のほうはどうだろう。
 暗闇に恐怖感を覚えるほどには悪くなった気がする……。
「幸倉に帰ったんだろ?」
「帰りました……」
 あの日のうちに。
「でも、何をやっても身が入らないんです……。ピアノを弾いても本を読んでも、カメラを持って外に出ても楽しくない……。先生、どうしよう――」
 趣味は多いほうだと自負している。でも、そのどれを試してもだめだった。これ以上気分転換になるようなものを持ってない。
 景色が灰色になるまで時間はない気がする。
 身体の芯から震えだす。その震えを抑えるために自分の身体を抱きしめた。
「――探せ」
 相馬先生の声に顔を上げると、とても厳しい顔をしていた。
「自分が楽しいと思えること。どうしたら気持ちが楽になるのか、自分で探すことも必要だ」
 突き放されたと思った。
 家で蒼兄や唯兄、お母さんたちから優しい言葉ばかりをかけられていたから、相馬先生の言葉がとても鋭く感じた。
「与えてもらうことに慣れんな。もっとあがいてみろ」
 先生は何か言おうとして口を閉じ、
「……次は二十三日にパレスで昇の治療。二十八日月曜日が年内最後の治療になる」
 それだけを言うと病室を出ていった。
 洋服に着替え廊下へ出ると、お母さんはナースセンター前で先生と話していた。
 いつもなら何も考えずそこへ向かうのに、相馬先生に近づくことに勇気がいった。
 私はどれだけ意気地なしなのか……。
 そろそろとお母さんの隣に並び、ふたり揃って相馬先生に頭を下げたけれど、私は最後の最後まで相馬先生の目を見ることができなかった。

 エレベーターに乗る直前、はたと思い出しお母さんには先に車へ行ってもらうことにした。
 私は縋るように十階のボタンを押す。
 十階に着くと、祈るような気持ちでひとつひとつセキュリティーを解除していく。
 ホテルのような空間へ続くドアが開いたとき、いつもと違うことにはすぐに気づいた。
 廊下の照明がひとつもついていない。そして、いつもいる場所に人がいない。
 警備員控え室には誰もいなかった。
 逸る気持ちを抑えて廊下を進む。
 ナースセンターにも人影はなく、デスクの上に置かれた電話がうるさく鳴ることもない。
 小枝子さんがいないということは果歩さんもいないのだろう。
 わかっていつつも果歩さんが使っていた病室のドアへと足を向ける。
 小さくノックをしてから静かにドアを開けると、陽の差し込む病室はガランとしていた。
 妊婦さん関連の雑誌は残ったままだけど、きれいに整えられたベッドが入院患者がいないことを物語っている。
「ふふ……」
 乾いた笑いというよりも、震えから発せられたような声が漏れる。
「翠葉……都合良すぎるよ」
 メールをくれたときには会えないと思って、相馬先生に突き放されたら会いたくなるなんて――
 会ったところで何から話したらいいのかもわかっていないのに。
 私は病室の片隅に置かれていたハープケースを手に取り病室を出た。



Update:2012/12/09  改稿:2017/07/23



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