光のもとで

最終章 恋のあとさき 58話

 手術当日――目が覚めた時間はまだ真っ暗だった。遮光カーテンの向こうに少しの光も感じられない。
 今日は三十日。明日で今年が終わる。明日で終わるんだ……。
「眠れなかった?」
 隣のベッドで寝ていたお母さんに声をかけられ、
「ううん。少し……早くに目が覚めただけ」
「じゃ、起きちゃおう。顔、拭きたいでしょ? ちょっと待ってて。タオル持ってくるから」
 お母さんはベッドから抜け出てキッチンへ向かった。
「カーテン開けるか?」
 ソファセットで寝ていたお父さんに訊かれ、コクリと頷く。
 窓ガラスは結露で曇っていた。
「雨は降ってないみたいだな」
 外に出る予定はない。でも……。
「晴れると、いいな……」
「天気予報見てみるか?」
 そんな会話をしているところにお母さんが戻ってきて、顔を拭き歯を磨いてしまえばもうやることがない。
 手術前ということもあってご飯は食べなくていいし、何もすることがなくて時間が異様に長く感じた。
 目に見える場所には時計がない。けれど、秒針に刻まれる音が頭の中に鳴り響き、しだいに緊張が増していく。
 それを感じ取ったのか、お父さんとお母さんが仕事の話や私や蒼兄の小さいころの話をしてくれていた。

 七時半になると蒼兄と唯兄がお見舞いに来てくれた。
 お見舞いというよりも、手術室へ行く前のお見送りに。
 唯兄の目が真っ赤でどうしたのか尋ねると、
「なんで俺の妹はふたりとも心臓が悪いのかなっ」
 言いながら袖で目を拭う。
 そんな唯兄の頭をくしゃくしゃ、と撫で回したのはお父さんと蒼兄。
 言葉をかけることはなかったけれど、髪の毛がぐちゃぐちゃになるまでふたりは撫で続けていた。
 少し落ち着くと、
「リィ、これ。幸倉の氏神様んとこで買ってきた。あんちゃんとふたりでしっかりお願いしてきたからね」
 差し出されたのはお守り。
「健康祈願なんて今さらだけど、ないよりはいいでしょ……」
「……ありがとう」
「あと、これ……」
 次に差し出されたのは携帯。
 携帯には秋斗さんからいただいたペンダントトップとツカサからもらったとんぼ玉、唯兄に持っていてと言われた鍵がひとつのチェーンに通されている。
「リィの大切なものでしょ? これがあったらがんばれそうでしょ?」
 手の平に置かれた携帯から熱を感じた。
 とてもあたたかかった。
「この階は医師の了解が得られれば携帯もパソコンも使えるんだって。リィの場合は大丈夫らしいよ」
 言われてすぐに電源を入れる。
 聞きたいものがあった。
 ツカサの声を、一から十までのカウントを、聞きたかった。
 私の――大切な大切な精神安定剤。

 八時を回ると秋斗さんにツカサ、海斗くん、栞さん、湊先生、昇さん、相馬先生が来てくれた。
 相馬先生は何も言わずにただ頭をポンポンと叩いてくれる。
 昇さんは「うちの医師陣に任せとけば大丈夫だ」と請合ってくれ、海斗くんは「待ってるからな」と少し涙目。
 そんな海斗くんに同じく涙目の唯兄が絡む。ふたりは同級生ではないのに、どうしてか同級生とか仲間のように見えた。
 秋斗さんは「がんばってね」と一言。
 湊先生は「何も心配することないわ。大丈夫だから」と言ってくれる。
 ツカサは何も言わなかった。ただ、数秒間視線が交わっただけ。
 目が合った、というよりは睨まれた気がしてならない。
 理由はなんだろう……?
 疑問を抱いたまま病室を出た。
 手術室までは車椅子で移動のため、みんなでエレベーターに乗りぞろぞろと移動した。
 見慣れた手術室の自動ドア前まで来ると、みんなの歩みが止まる。
 ここから先はクリーンルームのため、車椅子も看護師さんも変わる。
 中から担当看護師さんが出てきて、
「じゃぁ、行きましょうか」
 車椅子を乗り換えみんなに背を向けた瞬間、
「翠……」
 ツカサの声だった。
 担当看護師さんが車椅子の向きを直してくれる。と、射抜くような目で見られていた。
「手術が終わったら覚悟しておけ……」
 明らかにドスの利いた声。
「言いたいことは山ほどある。けど、手術前に言うほどバカでもない。だから――目が覚めたら覚悟しておけ」
 なんと返したらいいのかわからなくて黙っていると、バコッ――
 湊先生がツカサの頭を豪快に叩いた。
「あんた、これから手術受ける人間を何脅してんのよ」
 ツカサは動じない。
「誰も怒らないからだろ?」
 なんのことかようやくわかった。
 ツカサは走った私を怒っているのだ。そして、そのことを誰も怒らないから、だからそのことに対しても腹を立てているのだろう。
 前に言っていた。私が私の身体を大事にしないと腹が立つと……。
「……わかった。怒られるの、覚悟しておく」
「じゃぁ、行きましょうか」
 再度看護師さんに言われ、私はクリーンルームへと移動した。
 クリーンルーム内では、今日担当してくれる看護師さんたちに出迎えられた。
 手術室に入る前に髪の毛を帽子に入れてかぶったり、最終的な準備をする。
 手術室には久住先生と楓先生がいて、ルートの確保や機材のセッティングはふたりがしてくれるという。
 心臓の手術前に涼先生執刀で胃潰瘍の手術も行われることになっていた。
 それらは全身麻酔をかけてからのことなので、今日は苦しい思いはしないで済みそう。
 そんなことを考えていると、楓先生が頭の脇に立っていた。
「さぁ、少し休もうか。点滴から麻酔薬を流すよ。そしたらすぐに意識はなくなる」
「……お願い、します」
「うん。翠葉ちゃんが目を覚ますころには自分がついてるから」
「はい」
 酸素マスクをかぶせられ、私は心の中で数を数え始める。
 夏からずっと聞いてきた声が脳内に響き、私は十を数える途中で意識を手放した。

 目が覚めると十階の病室にいた。
 聞こえるのは機械音や電子音ばかり。人の話し声は聞こえてこない。
 ほかに気になったことと言えば、喉の奥まで感じるひどい異物感。
「五時五十分覚醒、と。翠葉ちゃん、おはよう。手術は無事に終わったよ」
 楓先生が顔を覗き込み、優しく笑いかけてくれた。
「因みにね、今話せる状態じゃないから。人工呼吸器がついているから喋れないし、首を縦に振ったりすることも無理。OK?」
 そういえば、手術前にそんな説明があった気がする。
 私の中では数え切れない合併症と、内視鏡手術ができなかったときに残る傷跡の大きさがありとあらゆる説明を凌駕していて、ほかのことはすっかり忘れていた。それに、まだなんとなく頭がぼーっとしているような気がしなくもない。
 目をパチパチとさせると、楓先生は一歩後ろに下がり私を眺めた。そして指折り数え始める。
「人工呼吸器のほかには首から栄養を送るための管一本。左腕の静脈に点滴一本と左手首動脈に点滴の針が入っているからちょっと手の形を固定させてもらってる。それと……鼻に入っている管は痰を出すためのもので、心臓の廃液を流すためのドレーンが二本。あとは、痛みが出てきたら麻酔を流せるように入れてある肋間神経ブロックの管と尿管。うん、結構大掛かりな状態だと思う」
 まじまじと見つめられても反応のしようがない。
「まだ麻酔が効いていて痛みはないと思うけど、痛みを感じたらすぐにナースコール押してね。そしたら麻酔を流すから」
 ナースコールは右手に握らされていると聞き、「はい」と答える代わりに一度だけ瞬きをした。
 少し拍子抜け。こんなにも普通に覚醒するものなのか、と。
 自分の中ではついさっき手術室に入ったばかりという感覚のため、もう夕方というのが信じられない。
 時間の経過を感じられない中、自由にならない身体から状況を解する。
 時間より何より、気になって仕方のないものがひとつ。
 人工呼吸器がついているのに苦しい。心臓が、というよりはこの口に入れられているものが苦しさの原因のような気がする。
 これ、本当に呼吸を助けてくれているのだろうか……。できることならすぐにでも外しほしい。
 切に願うものの、声は出せないし意思表示できるものもない。
 諦めて目を瞑る。と、人が病室に入ってくる音がした。
 足音を聞いて紫先生と藤原さんだと確信する。
 あともうひとりは誰だろう……。
 不思議に思っていると、最初に顔を覗き込んだのは涼先生だった。
「おはようございます。消化器の手術も心臓の手術も問題なく終了しました。これで貧血の原因はなくなったかと思います。このあとは定期的に鉄剤の補充をして貧血の症状を改善していきましょう」
 それだけ言うと涼先生は下がり、紫先生が枕元に立った。
「涼先生の言うとおりだ。安心していいよ。胸にメスを入れることなく手術は終わった。傷は最小限に止めることができたよ」
 朗らかに声をかけてくれた。その隣の藤原さんは、
「右脇に小さな傷跡が残るけど、数年もすれば目立たなくなるでしょう。楓くん、人工呼吸器は何時に外す予定?」
「七時の予定でしたが、意識もはっきりしているし、呼吸機能にも問題はないのでそろそろ外してもいいころかと」
「そう」
 楓先生とのやり取りを終えると、藤原さんはこちらに向き直る。
「外したらすぐに楽になるわ。それから、術中輸血はせずに済んだから。その点においては合併症の心配はしなくてもいい」
 いつもどおり、淡々と説明をしてくれた。
「このままいけば、明後日にはご家族と面会できるでしょう」
 一通りの説明と診察が終わると、
「きれいな心音になったわね」
 表情よりも声音が柔らかくなった。
 確かに、手術を受けるまではバックンバックンとうるさく暴れている状態だったのに、今は一定の強さで規則正しくトクントクンと動いている。
 最後に「よくがんばった」と言われたけれど、がんばったのは私ではない。
 私は手術室に入って点滴の針を刺すところまでしか知らない。あとはずっと麻酔をかけられて寝ていただけなのだ。

 先生たちが出て行くと人工呼吸器が外された。
 喉の奥まで入った太い管が抜かれるとだいぶ楽になる。異物感と閉塞感がなくなり、喉と口腔の筋肉が開放された感じ。
 代わりに付けられたものは酸素マスク。
 楓先生にお礼を言おうと思ったけれど、肝心の声が出なかった。
 そこで思い出す。人工呼吸器を外したあと、声が掠れたり声が出ないことがあるということを……。
 あれほど丁寧に説明していただいたにも関わらず、私は受けた説明のほとんどを忘れていた。
 そんな自分に面食らっていると、楓先生に笑われた。
「大丈夫、時間が経てば治るから。それに、患者さんってみんなそんな感じだよ。手術前に詳しく説明を受けていても、たいていは緊張していて全部を覚えている人なんてごく稀なんだ」
 言われて安心する。
 安心したらなんだか痛い気がした。
 右脇が痛い……。
 麻酔が切れる、とはこういうことを言うのだろうか。
 すぐにナースコールを押してもよかったのだけど、私は押さなかった。
 しばらくの間、メスで切られたであろう右脇の傷の痛みを堪能した。
 なんというか……とても久しぶりだったのだ。物理的な痛みが。
 今まで私が感じてきた痛みとは種類が異なる。はっきりとそれを感じる。
 たとえば、転んでできた傷や何かにぶつけて痛いと感じること。それらと、普段私が感じる痛みはまったくの別物で――だから、痛いのにどこか新鮮で、その「感覚」を味わおうと思ってしまったのだ。
 ところが、「痛み」というのは血圧に表れるものらしく、楓先生にすぐさま気づかれてしまう。
「ねぇ、翠葉ちゃん……ひょっとして麻酔切れてきてない?」
 楓先生はディスプレイに視線を戻してから、
「切れてきてるよね……? 痛み始めてるよね……?」
 疑いの眼差しで尋ねられ、私は少しだけ笑みを沿えて「なんのことでしょう?」という表情を作ってみた。
「あのね、血圧見てればわかるのっ。そういう我慢はしなくていいし嘘はつかないっ」
 楓先生には珍しく、少し荒げた声で叱られた。
 もう少しこの痛みを感じていたい気はしたけれど、即座に麻酔を流されてしまった。
 別に痛いことが好きなわけではない。どちらかと言うなら嫌いだ。
 でも、何かを感じられること自体がすごいことだと思ったから――麻酔から醒めた今だからこそ感じていたかっただけ。「生きている」と実感したかっただけ。
 もし、言葉にして説明することができたなら、楓先生はわかってくれたかな……。
 続いて鼻のチューブを抜かれることになったけれども、痰が肺に溜まっているらしく、チューブを抜いたあとは自力で少しずつ痰を出すようにと言われた。
「痰を出すとき、ちょっと傷が痛むかもしれないけど、少しずつ出してね」
 言われて、「痛み」という言葉に反応している自分に気づく。
 自分が少し怖い。
 痛いのは嫌いなはずなのに、手術を受けたらなんとなく貴重なものに思えるようになっていたなんて――私、変……?
 しかし、そう思っていられたのは二時間くらいのものだった。
 まだ右脇には二本のドレーンがついている。右胸腔、心嚢から廃液を流すためのもの。これを回収するときに突き刺さるような激痛が走った。
 これは痛い……などと冷静に痛みを感じている自分がおかしかったけれど、これがあと何回続くのか、と考えればそんな余裕はすぐになくなった。
 この日の夜は昇さんと栞さんが病室に泊まりこんでくれ、痛みが出たら麻酔を流し、数時間おきに廃液の回収をしてくれた。
「今日は眠れないかもな?」と言った昇さんの言葉は正しかった。



Update:2013/05/04  改稿:2017/07/25



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