光のもとで

最終章 恋のあとさき 65話

 リハビリの負荷が減ると身体はだいぶ楽になり、私はリハビリと授業、治療と補習に追われて毎日を過ごした。
 相馬先生の治療が毎日あることで、身体に疲労を溜めすぎることなく日々を乗り切れていたのだと思う。
「勉強は順調か?」
「はい。わからないところはツカサや秋斗さんに教えてもらえるし……」
「……ストレスの正体はそれか?」
 私は誰が見ても明らかなほどにうろたえていた。
「……努めて穏やかに振舞ってるみてぇだが、脈は正直だ。なんかあるなら吐いとけ。聞くだけはしてやる」
「何も、ないです」
「……そうか」
「……嘘です」
「おい……」
「ごめんなさい。やっぱり先生には嘘をつきたくなくて……」
「で?」
「何かはあるんです。でも、蒼兄と唯兄が、時間が経てばわかるって教えてくれたから……時間が経つのを待っています」
 時間が経つごとに感じるのは、好きな気持ちが膨らんでいくことだけ。
 ツカサをどんどん好きになっていく。会うたびに、もっともっと好きになっていく。
 秋斗さんとツカサと同じように会って、同じように勉強を教えてもらっているのに、私はツカサだけを好きになっていく。
 秋斗さんのことを好きにならないわけではない。秋斗さんとの時間が増えれば増えるほど、秋斗さんのことを知り親しみや信頼度は増す。でも――恋じゃない。
「答えは出そうなのか?」
「……答えは出るかもしれません。でも、私は何も変わらない……。そう決めたから」
「そうか……。ほらよ、最後の鍼も取った。今日の治療は終わりだ」
「ありがとうございます」

 私は、秋斗さんが予想したとおりの行動を取っていた。
 最初はツカサに教えてもらったから次は秋斗さん。次はツカサ、次は秋斗さん。そうやって、ふたり交互に教えてもらっていた。
 そうして二週間が過ぎたころ、秋斗さんと連絡がつかなくなった。
 いつものように補習のお願いをするメールを送ると、「Mail Delivery System」と返ってきてしまう。
「メールアドレスが違う……?」
 そんなわけはない。今までこのメールアドレスに送っていたのだ。
「アドレスを変えた……?」
 でも、連絡はもらっていない。
 何度か繰り返し送ってみたけれど、一度としてメールは送信できなかった。
 恐る恐る電話をかけてみた。すると、耳を疑うアナウンスが流れてくる。
 ――『おかけになった電話番号は、現在使われておりません。番号をお確かめのうえおかけ直しください』。
 指先からす、と血の気が引いた――

 届かないメールにつながらない電話。
 仕事で接することが多い唯兄なら、何か知っているかもしれない。
 そうは思うのに、どうしても訊けなかった。
 何がどうしてこういうことになっているのか、知るのが怖くて。
「何かあったのかな」「どうしたのかな」――そんなふうに訊くことはできなかった。
 きっと何かの間違い……。数日したらまたつながる。
 そう自分に言い聞かせ、私は誰にも確認せず、送っては返ってくるメールを受信ボックスに溜めていった。

 秋斗さんと連絡がつかなくなってからは、毎回ツカサに勉強を教えてもらっていた。
 頻度が増えたことにツカサは気づいているだろうか。
 メールをすれば来てくれる。いつもと変わることなく勉強を教えてくれる。
 秋斗さんの話に触れることはなく、訊かれることもなく、気づけば一月の最終週を迎えていた。
 退院の目処が立ったある日、
「秋斗さん……元気、かな」
 帰る間際のツカサにさり気なく訊いてみた。
「……さぁ。気になるなら自分で訊けば? ここ、携帯使えるわけだし」
 サイドテーブルに置いてあった携帯を渡され、もっとも過ぎる言い分に「そうだね……」としか答えることができない。
 何度も電話した。でも、つながらなかった。メールを送っても宛先に届かず返ってきてしまう。
 そう言えばいいのに、言えない。訊けない。
 誰かに訊きたいのに知るのが怖くて、確認できずに今日まで来てしまった――
 あのあと、インターネットで少し調べた。
 電源を切っているか圏外ならばそういったアナウンスが流れ、着信拒否という設定ならば、アナウンスが流れることなく不通音が聞こえるという。
 導きだされる答えは解約――
 秋斗さんはあの携帯を解約してしまったのだろうか。だとしたら、どうして教えてもらえなかったのだろう。秋斗さんなら前もって教えてくれる気がするのに……。
 そう思うからこそ訊くのが怖かった。理由を――真実を知るのが怖かった。
 秋斗さんが自分から離れていってしまう既視感を覚えるくらいには。
 そんな思いが脳裏を掠めるたびに恐怖で身が震え、誰に訊くこともできなくなった。
「翠は自分から動かないな……」
「え……?」
「何があっても自分からは動かないだろ?」
 ツカサの言葉に心臓が反応した。あまりにも変な動きで咄嗟に胸を押さえる。
「つながらないだろ?」
 ソレ、とでも言うように、ツカサは私の手の内にある携帯を見る。
 ゴクリ――唾を飲み込む音が異様に大きく感じた。
 理由が明らかになるのか、と急激に脈が速まる。
「それとも、つながらないことを不思議にも思っていなかったとか? 翠ならありえるな」
 ツカサは薄く笑みを浮かべる。嘲るような笑みを。
「仕事が忙しくて出られないとでも思っているならずいぶんとおめでたいやつだと言ってやる」
 それはつまり――
「仕事が忙しくて出られないわけじゃない。メールアドレスを変えて、変更の連絡を忘れているわけでもない」
 一気に話しだしたツカサは止まらない。口調が速まるわけでも荒くなるわけでもない。
 むしろ、恐ろしいほどゆっくりと、じわりじわりと話を進める。
 言葉を挟む隙はいくらでもあったのに、私は話を遮ることができなかった。
「翠のためだけに用意されていたあの携帯」
 ツカサが息を吸う瞬間がひどく長く感じた。
「解約されたから」
 心臓が止まった。間違いなく止まったと思った。
 だけど、それは気のせいだったかもしれなくて、すぐに痛いくらいの鼓動を感じ始める。
 逆に、頭は真っ白になった。意識が飛ぶ直前のブラックアウトならぬホワイトアウト。
「解約。つまり、もうあの携帯にはつながらない。メールが届かないのは――」
「やめて……」
 掠れた小さな声しか出せなかった。耳を塞ぐには遅すぎた。
「翠が招いたことだ……。連絡がつかないとわかった時点でなぜ人に訊かなかった? 訊いたら教えてくれる人間はいたはずだ」
「…………」
「訊こうとしなかったのは翠だろ? ――決して自分からは動かない。手を離そうともしない。それで誰が救われる? 誰が得をする? ……利益が生まれる場所があるなら教えてほしいんだけど」
「…………」
「翠はずるい。俺と秋兄をどちらも選ばないくせにどちらも手放さない。すぐ手に入りそうな場所にいるくせに、絶対に踏み込ませないし踏み出さない」
 ツカサが言っていることは正しい。
 私は、記憶を取り戻してからこちら、ふたりを失わずにいられるための行動しかとってこなかった。それで私が楽になるわけではないけれど、利益は私にだけ生じていた。
「ごめん……私だけ、私だけで……」
「それにも納得はいかないけど……。翠が得をしているなら、翠はなんで今泣いている?」
 気づけばパタパタ、と涙が手に降ってきた。
「泣いてることにくらい気づけよ」
 ルームウェアの袖で拭おうとしたらハンカチを押し付けられた。
 何度か見たことのある、縁取りが濃紺の青いハンカチ。
「……俺も秋兄も諦めは悪いほうだけど、精神衛生上よからぬことは基本排除する性格で」
 その先にどんな言葉が続くのか、と胃がキリキリ痛みだす。
 続きはすぐに発せられなかった。
 ツカサはテーブルに置いてあったノートの端にサラサラと数字を書き連ねる。
 訊かなくてもわかる。携帯の番号。
「秋兄の仕事用回線。つながらないことはないはず――ただし、本人に出る意思があればの話だけど」
 キュッ、と胃が縮んだ。
「ラストチャンスかもよ?」
「え……?」
「秋兄、明日には日本を発つから」
 ニホン、ヲ、タツ――?
 言葉本来が持つ意味が、ちゃんと変換されて頭に届かない。
「ニホン、ヲ、タツ……?」
 漢字以前、日本語が理解できなくなってしまった人のように声に出す。
「そう。日本を発つ。……JAL七〇〇八便六時五十分発。仕事で海外へ行く」
 仕事、という言葉に刺激を受けて、カタカナが漢字に変換された。
「ほっとしたように見えるのは気のせい?」
 訊かれてドキッとする。
「安心したように見えるけど、それはどうかと思う。秋兄は当分帰ってこない。秋兄との連絡が途絶えても翠が動かなかった代償だ」
 思わず目を見開いた。自分でもわかるほどに大きく。
 ツカサは無表情で、いつもと変わらず単調に話す。言葉以外のものから何も情報を得ることができない話し方。
「秋兄の気持ちはわからなくもない。側にいて手に入らないのなら、手の届かないところにって考えもありだと思うから」
 ツカサはコートに袖を通しかばんに手をかけると、
「俺も翠の進級を見届けたら留学することにした」
 りゅう、が、く――
 心臓が裂けるかと思うほどの痛みに襲われる。身体中が痛いのとはまったく別物の、心が抉られるような痛み。
「九月編入に備えて四月には日本を出る」
 切れ長の静かな目に見下ろされたときには、もう何も言えなくなっていた。
「生殺しには耐えられない。それが、俺たちの出した答え」
 涙がぼろぼろ零れる。
「静さんみたいに何年も想い続けられるかと思ったけど、無理。あんなのできる人間のほうが稀。それをしてもらえると思っていたならご愁傷様。――手に入らないものがいつまでも視界に入るのは目障りだ」
 ツカサが病室を出ても、私はツカサが立っていた場所から視線を動かすことができなかった。
 身体のどこかをザン、と斬り捨てられた気がした。
 きっと、ツカサはもうここへは来ない。来てくれない。
「サイゴツウチョウ」とはどんな字を書いただろう。でも、きっとこういうことを言うのだ。
 すべては私が招いたこと。
 あぁ、そうか……。
 ――「いい加減学習しろ。こっちも何度も同じことを言うのは疲れてきた」。
 そう言われたとき、私は喜ぶのではなく、危機感を持たなくてはいけなかったのね――



Update:2013/06/23  改稿:2017/07/25



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