「手をつないで、翠の腕や肩が俺に触れて、翠の顔がすぐそこにあって――どこまで理性を保っていられるのかがわからないっ」
語気荒く言われたけれど……。
「リ、セ、イ?」
口にして数秒後、リセイが漢字に変換された。
「あのさ、俺をなんだと思ってる? 一応、人並みの性欲と生殖機能を備え持つ普通の男なんだけど」
――ヒトナミノセイヨクトセイショクキノウヲソナエモツフツウノオトコ。
なんだかものすごいことを言われた気がするし、大きな衝撃を受けた気がする。
私の頭はショートしてしまったのか、すべての思考がストップしていた。
ツカサはばつの悪い顔で、
「例えば、俺は翠を抱きしめたいと思うことだってあるし、キスをしたいと思うことだってある。でも、それがどこまで受け入れられるのかがわからない」
今度の言葉はきちんと理解が追いついた。しかし、理解が追いつくと同時に顔がこれ以上ないほどに熱を持つ。
「抱きしめてキスしたら――俺はその先を自制できるのかがわからない。正直に言うなら自信がない」
ツカサはひどく切なげな表情をしていた。その表情を見て思い出す人がひとり――秋斗さんだ。
私に触れたい、私に触れてほしいと言った秋斗さんを色濃く思い出す。
もしかしたら、今私はあのときと同じような場所に立っているのかもしれない。
こういう話をツカサとするのは初めてだけど、ツカサを見ればこの話をするのに勇気が要ったことくらいは想像ができる。
求められていることに応じる覚悟はない。でも――
「ツカサ……ツカサっ……」
「何」
何か言わなくちゃ……。何か返さなくちゃ……。
秋斗さんのときと同じにはなりたくない。
「ツカサ、ツカサ……ツカサ――」
気持ちは急くのに、何も言葉が出てこない。
秋斗さんのときは何もかもが怖くなってしまったけど、ツカサは違う。ツカサは違うのだ。
違うことを伝えたいのに、どうやって説明したらいいのかがわからない。感情を言葉に変換することができない。
あまりにも思っていることを表現できない自分が情けなくて涙が出てくる。
次の瞬間、ツカサの手によって髪が耳にかけられた。
「っ……なんで泣いて――」
少なくともツカサのせいではない。そんな説明すらできない。
きちんと言葉にしなくちゃいけない。わかっているけれど、それが難しい今は行動に訴えてもいいだろうか。
「ツカサ……もっと近くに寄ってもいい?」
ツカサは少し間を置いてから、
「別にかまわない」
私は二十センチほどの間を詰めた。
止まらない涙を左手の袖で拭い、
「絶対逃げない?」
問いかけのような前置きをすると、
「逃げない。……でも、理性の保証もない」
「……なくてもいい」
そんなふうに答えてしまったのは、もう距離を置かれたくないから。
ツカサが求めるものにはきっとまだ応じられない。でも、それを望むツカサが嫌いなわけでも怖いわけでもないのだ。
ただ、行為そのものが怖い。覚悟が持てない。でも、私は――
「……側にいたい。ずっと近くにいたい。もっと近くにいたい……」
私の気持ちは伝わるだろうか。
理性とか、自制とか、どうでもいい。ただ近くにいたい。もっと近くにいたい。それだけでいいから伝わってほしい。
「翠……もっと近くって?」
「……本当に逃げない?」
勇気を出してツカサの顔を見る。ツカサは息を呑んでから、
「逃げないけど――」
私は返事をすべて聞く前に、ツカサに抱きついた。
ツカサの背に腕を回してぎゅっとしがみつく。
逃げられる、もしくは反する力を加えられることを想像しながらの行動だった。行動を起こしたあとですら、いつ拒絶されるか、と怖くてたまらない。
恐怖から、身体の震えが止まらなかった。歯の根が噛み合わなくなるのも時間の問題かもしれない。
そう思ったとき、ツカサの腕が背に回された。
これは受け入れられたことになるのだろうか……。
気が少し緩み、新たに涙が流れる。心の底からほっとした。
「悪かった……」
頭の近くにツカサの低い声が響く。
「ツカサは優しいだけだもの……」
「偏見」
「違うもの。……ツカサは知っているから……」
秋斗さんとのことを知っているから距離を置いてくれたのだ。私を怖がらせないように、と。
「……翠を不安にさせていた事実は変わらない」
とことん自分に厳しいところがツカサらしい。そんなところも大好き……。
「好き」と思うたびに心があたたかくなる。この気持ちがそのまま伝わったらいいのに――
そんなことを考え始めたとき、今までとは反する力が加えられた。
背に回されていた腕が解かれ、ツカサとの間に三十センチほどの距離が生まれる。
たかがそれだけ。それだけなのに、身を引かれた気がして悲しくなる。
感情の振れ幅が大きすぎる。そんな状況を理解していても、ブレーキの利かない心は「嘘つき」と言葉を吐き出してしまう。
「嘘つき」なんて思ってない。ただ、もっと近くにいたいだけ。
溢れて止まない感情をどうしたらいいのかわからずにいた。
いっぱいいっぱいになった心と頭に浮かんだのは「キス」の二文字。
――「俺は翠を抱きしめたいと思うことだってあるし、キスをしたいと思うことだってある。でも、それがどこまで受け入れられるのかがわからない」。
ツカサ、それが本当なら――
「……キス、して?」
ツカサは目を見開いた。
勇気を出してもう一度――
「キス、して?」
次の瞬間にはキスをされていた。
数秒で離された唇がひどく熱く感じる。
ツカサの視線をずっと受けたままで、何か説明を求められている気がしたから、
「……好きっていう気持ちがたくさんで、どうしたら伝わるのかがわからないの。でも、キスしたら伝わる気がして……」
混乱しているなりに理由を述べてみたけど、それまで以上に恥ずかしい気がしてきて、今度は自分からツカサとの間に距離を設けようとした。しかし、それはツカサによって却下される。
再度ツカサの腕に抱きしめられ、新たに口付けを受けた。
「キスはしていいの?」
「して……?」
素直な気持ちだった。でも、口にするのはひどく恥ずかしく、じっと見られていることに耐えられなくなる。
今度こそ離れようと力を加えると、それまで以上の力で引き寄せられキスをされた。
「ツ、ツカサ……身体、起こしたい」
全身に汗をかきそうなくらいに熱い。それをツカサに悟られるのが嫌だった。でも、決して側にいたくない、という意味ではなく――
違うからね……?
そんな意味をこめ、ツカサの手を握る右手に力をこめる。でも、口にしないと不安で、
「ツカサ……好き。大好き」
目を見て言うことはできなかった。でも、言葉にした気持ちは届くと信じたい。
何度か同じ言葉を口にすると、ツカサは私の唇の前に人差し指を立てた。
「ツカサ……?」
ツカサは何も答えない。けれども、ゆっくりと顔が近づいてくればその先は想像ができる。
私は目を閉じ、唇に訪れる柔らかな感触を待った。
ふわり、と遠慮気味に触れるぬくもりに、心の中で「大好き」と何度も唱える。
こんなふうにキスをしてもらえるのは、ツカサに好きだと告白した日以来。あの日は「好き」と伝えるたびにキスをしてくれた。それは今日も有効なのだろうか。
「好き……」
小さく口にするとツカサの目が優しく細まり、願ったとおりにキスをしてもらえた。
何度かキスを繰り返したところで、ツカサの眉間にしわが寄る。
「……ツカサ?」
困惑しているような表情に声をかけると、ツカサは優しく抱きしめてくれた。そして、
「……翠は何が怖い?」
「え……?」
「俺も男だから、秋兄と変わらない。性欲はそれ相応にあると思う。俺がそういうことを考えていたら、恐怖の対象になるのかが知りたい」
いつもなら赤面してしまうような話だ。でも、今は不思議と普通に受け止めることができる。
「……何が違うのかはわからないの。でも、秋斗さんに感じたような恐怖感をツカサには感じてない。でも、性行為は怖い」
「……わかった」
この場合の「わかった」とは、どういう意味を持つのだろう。ツカサはどう受け止めたのだろう。
「ツカサは……?」
「……わからないんだ。キスをすればその先を望む。箍が外れたように翠を求める。この二週間、ずっとそう思ってた。でも今は――」
ツカサは言葉半ばで話すのをやめてしまう。
「今は」の先にはなんと言葉を続けるつもりだったのだろう。
話が再開されるのを待っていたけれど、ツカサは一向に口を開かなかった。
「……ツカサ、お願いがあるの」
「何?」
「……これからは、避ける前に話して……?」
「何を?」
「……だから、その……ツカサの気持ちを」
「……気持ちって、欲求のこと?」
私はコクリと頷いた。
「急に避けられるのは理由がわからなくて怖い……。だから、話してほしい」
私が空回りをしそうになったときは話してほしいと言われた。だから、私も同じことを提示してみる。
「話したところで翠は困るだけじゃないの?」
「……かもしれない。でも、話してほしい」
「……わかった」
腕を解かれると、やっぱり少し寂しく思える。でも、ずっとくっついているわけにもいかないから、
「ツカサ、もう一度だけ……」
ツカサの唇を見ると、何も言わずに顔が近づいてきた。
優しく触れる唇に涙が零れそうになる。
……嬉しい。
ツカサとのキスは嬉しい……。ドキドキするけれど、それ以上に嬉しくて幸せな気持ちになる。
こういう気持ちはどうしたら伝えることができるんだろう。
そんなことを考えていると、新たなる願望が沸き起こる。
今ならなんでもお願いできる気がするけれど、
「……ツカサ、デート、したいな……」
ツカサの様子をうかがいながら口にすると、
「デート……?」
「うん。いいお天気だから……お散歩に、行かない?」
ツカサは優しい顔つきで、「了解」と答えてくれた。
特別などこかへ出かけるわけではない。マンション敷地内の小道をぐるりと回るだけ。
でも、小さい子が遊ぶ公園の脇をツカサと並んで歩くのは初めてで、それだけでも新鮮に思えた。
太陽が照らす小道を好きな人と歩ける幸せ――この幸せはどこまで続くのかな……。ずっとずっと、続いていたらいいな……。
時には立ち止まったり後ろを見たり、そんなことを繰り返しながら、ツカサと歩いていきたい。
ほかのどんな願いが叶わなくても、この願いだけは叶いますように――
END
Update:2014/11/19(改稿:2017/08/13)
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