「ツカサ、どうかした?」
本を手にまったく違うことを考えていたら翠に声をかけられた。覗き込まれた拍子にキスをする。と、翠はきょとんとした目で俺を見た。
「……どうして、キス?」
「したくなったから」
こんな至近距離に顔があったらキスをしたくなる。でも、翠は俺とは違うのかもしれない。だから、こんな疑問を問いかけられるのだろう。
目をぱちくりとさせる翠に、
「そのままでいるとまたキスするけど?」
翠は脊髄反射張りに身を引き口元を押さえた。
……こんな状態だというのに、翠は俺の願いごとをきけるのだろうか。
翠の気持ちを優先させたい。でも、自分の欲求の高まりを抑えられる気もしない。だからこその「願いごと」。
率直に抱きたいと伝えてそれが受け入れられないのなら、代わりとなる何かを得たい。今回はそこまで話を詰めたい。
「翠、インターハイで優勝したら、の約束、覚えてる?」
「え? あ、うん。覚えてるよ?」
「……ならいい」
「……本当にどうしたの?」
「なんでもない」
あっさりと引き下がった翠は俺の隣で楽譜を広げ、楽しげな表情で音符を追っている。
きっと、「願いごと」に「自身」を要求されるとは思ってもいないのだろう――
インターハイで優勝を果たした俺は、翠と一緒に宿舎であるウィステリアホテルへ戻ってきた。
一度互いの部屋へ戻り、三時間ほどしたら夕飯を食べに行く約束をして別れると、俺は真っ直ぐバスルームへ向かった。
三時間もあればシャワーを浴びる時間もあるし、翠が休む時間も取れるだろう。
シャワーを浴びて出てくると、ここ数日の経済の動き、株価チャートなどをチェックする。そうして一時間が過ぎたころ、携帯が鳴りだした。相手はほかの誰でもない翠。
『ツカサ、寝てた……?』
「いや、起きてたけど……?」
『……あの、とくに何があるわけじゃないの。夕飯までにはまだ時間があるけれど、どうしても眠れそうにはなくて……だから、ツカサの部屋に行ってもいいかな?』
翠の声は弾んでおり、今にも「優勝おめでとう」の言葉が飛び出しそうだ。会場からホテルへ帰ってくる間中、ずっと口にしていたにも関わらず。
「かまわない。来れば?」
『じゃ、今から行くね』
携帯を切ると、頭を抱えたい衝動に駆られる。
翠がこういうことをするのは自分だけだと思いたい。ほかの男の前でこんな無防備なことを言わないでほしいし、仮にもベッドがある部屋へのこのこと出向くなんてことはしてもらいたくない。
唯さんが途中で帰らなければこんな事態にはならなかっただろう。けれども、訪れるチャンスを逃すまいと思う自分もいて――コンコンコンコン。
部屋がノックされ、途端に緊張が襲ってきた。ドアを開けると、にこにこと笑っている翠が立っていた。
翠は部屋に入ると、俺の前を楽しそうに歩いては自然な動作でベッドへ腰掛ける。
……すぐにでも説教したい。いや、あとで絶対にする……。
そんな決心をする俺に、
「優勝おめでとう!」
翠は何度目かわからない言葉をかけてきた。
俺は翠の正面に立ち、
「翠、約束覚えてる?」
「え?」
「優勝したら願いごと、っていうの」
「あ、うん。覚えてるよ。願いごとって何?」
変わらず笑顔で問われると、多少の罪悪感や後ろめたさを感じる。「願いごと」が何かも聞かずに了承したのは翠で、俺が悪いわけではないはずなのに。
俺は小さく唾を飲み込み、
「翠を抱きたい」
翠は何を思ったのか立ち上がり、
「いいよ。でも、そんなことでいいの?」
見事に頭を右へ傾げる。
たぶん、翠はただ抱きしめられるだけだと思っているのだろう。
こんな抽象的な言葉を使って要求したところで、翠が違わず理解するわけがない。そんなことはわかっていた。それでも直接的な言葉を使えなかったのは、罪悪感が強かったからかもしれない。
さすがにこの状態で期待を裏切るようなことはできず、翠の背に手を回し抱きしめながら、
「こういう抱くじゃなくて、翠が欲しい、って意味なんだけど……」
「え?」
翠は腕の中で俺を見上げた。
「性行為……の意味」
今度はしっかりと意味を理解してもらえたようで、翠はきれいにフリーズした。
このままショーケースにだって入れられそうだ。
「願いごとはきいてもらえるの?」
尋ねると、翠は腕の中でうろたえ始める。
腕の中から出ていこうとはしないが、明らかに動揺していた。
「ツカサ……ごめん。この願いごとは――きけない。まだ、怖いの……」
翠は俯き、小さな声でそう言った。
きっとこれが本音で翠の本心。そんなことはわかっていて口にした。
翠に言ってほしいと言われたから――自分の気持を伝えずにはいられなかったから、だから口にしただけ。
「抱きしめることとキスは?」
「……ドキドキはするけど、大丈夫。でも性行為は――」
わかってる……。ならば、その代わりになるものが欲しい。
翠は怯えた目で俺を見上げると、
「……怖いから、嫌なんだけど、でも、そしたらツカサは――私のこと嫌いになる? 愛想を尽かす? また、距離を置く……?」
翠の目から涙が零れた。
俺が執拗に求め始めてから、翠は拒絶するたびに不安そうな顔をしていた。もしかしたら、今口にしたことをずっと懸念していたのかもしれない。そう思うと、少し申し訳ない気もした。その反面、こんなことで嫌いになるような男だと思われているのだとしたら、それはちょっと心外だ。軽視はしてほしくないけれど、そんなふうに思う必要はない。
俺は翠に回した腕に少し力をこめ、
「嫌いにはならないし愛想を尽かすこともない。でも、距離を置くことはあるかもしれない。自分を抑えることができないなら、そういった関係を翠が望んでいないのなら、距離を置きでもしないと翠を守ることができないから」
翠の肩がビクリと震えた。
たぶん、「距離を置く」の部分に反応した。それには抵抗があるという意味なのだろう。
俺だって置きたくて距離を置くわけじゃない。そうならないための予防策を自分なりに考えた。
翠が許容できるもので、俺がもう少し踏み込めるもの。そんなものは数多くあるわけじゃない。だから、これだけは呑んでほしい。
「翠……距離を置かないための予防策」
「予防、策……?」
胸から離れ顔を上げた翠の頬は、涙に濡れていた。そんな顔を見ながら、
「キス、したいだけさせて。……キスだけは、俺の好きにさせてほしい」
翠は空ろな目でコクリと頷いた。
「翠、携帯貸して」
翠ははっとした様子ですぐに携帯を渡してくれた。
俺はバイタルの設定を変えるとテーブルに携帯を置き、翠の元へ戻る。
不安そうに見上げてくる翠の額にキスを落とし、次は涙に濡れる目の縁、瞼、自分の指先に触れた耳たぶ、首筋――息を止めているふうの唇に移動してからは、本能のままに口付ける。すると、何を意識するでもなく、自身の舌を翠の口腔へと割り込ませていた。
初めて、翠の内側に触れた。
柔らかくてあたたかくて――翠の内側に触れたいと思っていた自分に気づくには十分だった。
気づいたときには自分の息も上がっており、翠をベッドに押し倒していた。
これ以上のことはしない。翠を裏切るようなことはしない。
それだけは何がなんでも守る心づもりで口にした願いごと。
翠は何を言うでもなく、上がった息と共に漏れる吐息を抑えようとしていた。
そんな様にも欲情はする。
鎖骨より下にはキスをしない。そう決めていたのに、俺はその境界線を越え、胸元にキスを落した。
突如、パチリ、と翠が目を開ける。
「嫌?」
頷けばやめるつもりだった。でも、翠は首を左右に振った。
「……すごく恥ずかしくて、ドキドキしているのだけど……ツカサは?」
小さすぎる声に、
「確認したければどうぞ」
俺は自分の左手首を差し出した。
翠はそっと脈に触れ、目を見開く。
「満足?」
尋ねると、翠は照れくさそうに笑った。
泣き顔じゃなくて良かった。
「嫌じゃない?」
首筋にキスをしながら訊くと、
「キスなら大丈夫……」
「でも」と続きそうな余韻に言葉を待つ。と、
「ツカサは……? ツカサはこれで満足できる……?」
不安そうな顔が俺を見上げていた。
本音を言うなら、「満足」には至らない。できることならこのまま行為に及びたい。でも、翠に無理をさせたいわけではない。なら、ラインすれすれのところまでは進んでもいいだろうか――
「……デリカシーの欠片もないことを訊く」
「え……?」
「秋兄と……秋兄とはどこまでの関係?」
「……どこまでの関係って……何?」
「……つまり、キス――それ以上の関係なのか、ってこと」
ずっと知りたかったこと。知ってどうするのか、とは思うけど、気になって悶々とするくらいなら聞いてしまったほうがいい。
「どこまで?」
再度尋ねると、
「キス……キスマークつけられただけ……」
「キスって……今日、俺が初めてしたようなキスのこと?」
翠はぎこちなく頷いた。しかし、すぐに必死な様子で、
「でもっ、本当にそれだけっ」
まるで、「信じてほしい」――そんな言葉が続きそうだった。
「本当に? ……身体に触れられたことは?」
翠を信じていないわけじゃない。ただ、秋兄に限ってそんなわけはない、と思う自分がいるだけ。
「あ――あの、……お仕置きって、今のツカサみたいにキスをたくさんされたことがあって、そのときのバイタルをみんなに知られるのが恥ずかしくて泣いちゃったことがあるの。そしたら、秋斗さんが私の隣に横になって抱きしめてくれた。そのときに、頭や背中をずっとさすってくれていたのだけど……でもっ、本当にそれだけっ」
「なら、俺にもさせて」
「えっ?」
俺は翠の隣に横になり、力任せに翠を抱き寄せた。
華奢な身体が腕に収まり、柔らかく艶やかな髪に手を埋める。
後頭部から首、背中、腰、と順に撫でていくと、翠の身体がひどく強張り始めた。
若干震えているようにも感じ、背中をさする手を止める。
「……怖い?」
「怖くは、ない……。でも、心臓が潰れそう……。さっきよりも心臓がドクドクいってて、どうしよう……」
翠の表情を確認すると、唇が震え、目からは涙を流していた。
怖くないと言うのなら、その言葉は信じよう。けど、言葉にできない戸惑いは表情で察する。
「……大丈夫。これ以上のことはしないし落ち着くまでは何もしない……。抱いてるだけだから」
十分ほど、抱きあったままベッドの上で過ごした。すると、
「本当だ……少し落ち着いてきた」
まだ涙の名残のある目の縁にキスをすると、止めていた手をゆっくりと動かす。
確認するように触れると、全身の緊張は解けていた。
優しく背をなぞり、何度となく頭を撫でる。普段触れることのない髪の毛は、ひどく手触りが良かった。滑らかな髪を堪能しつつ、
「秋兄とは本当にこれだけ?」
翠はコクリと頷く。そんな翠を抱き寄せ、
「ツカサ……?」
「……俺、独占欲強いのかも」
「え……?」
「俺の知らない翠を秋兄が知っているのは許せそうにない。でも――これ以上の翠を秋兄も知らないのなら、もう少し待てる気がする」
この状況にいつまで満足していられるのかはわからない。でも、今は少し前へ進めたことに満足しているし、どんなキスをしても拒まれなかったことにも満たされている。
「ごめん……。いつも訊かれるたびに拒んでて、ごめん……。でもっ――」
「わかってる……。翠が怖いって言うなら待てる限りは待つ。それで嫌いになったり愛想を尽かしたりはしないから心配しなくていい。でも、何かしら交換条件をもらわないと俺も我慢はできないから」
「……それが、これ……?」
「そう」
翠が段階を踏まないと前へ進めないのなら、その段階を作り提示しよう。そうして前へ進めるのなら無理強いはしない。
「きっとこれからもこんなふうにキスをすることがあると思う。でも、これだけは拒まないで」
翠はコクリと頷いた。
「それから……少しずつでいいから、翠にも心の準備をしてもらいたい」
翠は口を真一文字に引き結び、ひどく慎重に頷いた。
「ありがとう……今はそれで十分だから」
たぶん、少しずつではあるけど前へは進めている。それなら、翠のペースを守るのも悪くはない。
何もかもが今さらだ。翠を好きになって想いが通じるまでにだってひどく時間を要したのだから、同じくらいの時間を要したとしても、いつか求める場所へ到達できるのなら、回り道だって惜しみはしない――
END
Update:2015/01/12(改稿:2017/08/25)
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