待ち遠しくて我慢しきれなくなった私は、三時を過ぎると一階へ下り、カフェラウンジで楽譜を見ながら過ごしていた。
一時間ほどそうしていると、ロータリーに白いセダンが滑り込み、緩やかに停車した。
後部座席からツカサが降りるのを確認してエントランスへ出ると、そこにはすでにコンシェルジュが肩を並べて迎えに出ていた。
数々の「おかえりなさいませ」に「ただいま」と答えるツカサは私を視界に認めると、
「うちでいい?」
「うん」
ツカサはエレベーターに乗るなり、
「……一度しか言わないから」
「え……?」
ツカサを見上げると、ツカサはす、と息を吸い込んだ。
「秋兄のこと、不安っていうか――焦る。俺と秋兄の性格が違うのなんて端からわかっていることだし、年が違うわけだから、それだけできることの差も出てくる。さらには、俺が敵わないものを秋兄はたくさん持っているから――認めるのは癪だけど、俺が持っていない部分に翠が惹かれたら、と思うと不安にならなくはない。でも、そんなことを言ったって仕方ないだろ? 秋兄が翠のそばからいなくなるわけじゃないし、秋兄が翠を諦めるわけでもない。だから、その部分を翠が気にする必要は微塵もない」
一気に言われてびっくりしたけれど、ずっしりと重みのある内容だった。
「……本当に?」
「……翠は自分にできる範囲で俺を選んだって見せてくれただろ。だから――」
それはストラップのことだろうか……。
「翠は何を案じてる?」
「……私はツカサが好きだよ。秋斗さんのことは大切な人ではあるけれど、恋愛感情は持ってない。ストラップとかそういうのは、何を考えることなくツカサからいただいたものを選べる。でもね、秋斗さんの気持ちすべてを拒絶することはできないの。もし、自分がツカサに拒絶されたら、って考えると怖くて――とてもじゃないけど、自分がそれを人にすることはできないの。でも、それでツカサが不安に思っているのだとしたら、私はどうしたらいいのかな……」
エレベーターはすでに十階に着いている。ドアが開いて閉まって、そのまま十階に留まり続けていた。
「翠はそんなことまで気にしなくていい。たぶん、不安になるのは俺個人の問題だから」
そんなふうに言われるとは思っていなくてまじまじとツカサを見ていると、ものすごく居心地の悪そうな表情で、
「もし、翠が同じようなことで不安に思っていたとしても、俺だって翠と同じことしかできない。もっとも、俺の場合はどんな人間に言い寄られても冷たくあしらうことしかしないだろうから、そのうえで翠が不安になったとしても、それ以上にできることなんてないわけだけど」
私ができない部分にグサリと釘を刺すあたりが実にツカサらしい。
「いい加減、エレベーターから出たいんだけど」
言われて、私は慌てて「開」ボタンを押した。
家に入るとツカサは真っ直ぐ洗面所へ向かい、すぐに手洗いうがいを済ませた。洗面所から出てきたツカサにおいでおいでをされて近づくと、前からすっぽり抱きすくめられる。
「ただいま」
「おかえりなさい」
今更な挨拶に笑みが漏れる。もう一度「おかえりなさい」を言うと、「ただいま」のあとにキスをされた。
顔が離れ身体を解放される。と、思わずツカサの腕を掴んでしまう。
「何……?」
「えと……」
ツカサの黒いシャツを見ながら考える。
自分から抱きつくのもキスをするのも無理。でも――
「ツカサ……ぎゅってして?」
顔を見ては言えない。でも、要求することならできる。
ツカサは少し間を置いてからゆっくりと抱きしめてくれた。ふわり、と優しく包み込むように。
私はツカサの背に腕を回し、自分がされる以上の力をこめてツカサに抱きついた。
「翠……?」
「……キス、して?」
言ってツカサを見上げ、
「……私はツカサが好きだからね。ツカサだけが好きだからね」
「……ありがとう」
言われてすぐにキスが降ってきた。けれど、何度かのキスをしてツカサが、
「暑い……。さすがにエアコンが入ってない部屋は暑いんだけど」
慌ててツカサから離れると、ツカサはエアコンのリモコンに手を伸ばした。
インターハイ明けから、ツカサの勉強部屋には入っていない。通されるのはリビングになった。
そんな変化にもまだ慣れないけれど、これからも色んなことが少しずつ変わっていくのだろうか。
少しずつの変化ですらついていける気はしないけれど、それでもツカサと一緒にいたいと思う。これから見る、新しい景色をツカサと一緒に見ていかれたらいいな……。
そんな思いを抱きながら、ツカサの腕にぴたりとくっつく。
「まだ涼しくならないんだけど」
「……我慢して。二週間も会えなかったんだもの。少しくらいは我慢して」
ツカサは驚いた顔のまま身動きひとつしない。
「……でも、お茶くらいは用意しようかな。ツカサはコーヒー?」
「いや、ハーブティーでいい」
「じゃ、用意する。キッチン借りるね」
私は突っ立ったままのツカサをリビングに残してキッチンへ向かった。
電気ケトルをセットして、ハーブティーが入っている戸棚に手を伸ばして気づく。
戸棚を開くことはできても、ハーブティーの缶は、私の手が届く場所には置かれていないのだ。
手を伸ばしたまま爪先立ちになっていると、背後からツカサの手が伸びてきた。
「ありがとう……」
「どういたしまして」
缶を渡されてもツカサは私のそばから離れはしない。離れないどころか、再度腕に閉じ込められた。
「……暑いんじゃないの?」
「暑いけど……」
どうしたことか、さっきとは逆に歯切れ悪く答える。
「翠、秋兄のことでいくつか約束してほしいことがある」
「……約束?」
ツカサを振り返ると、真っ直ぐな目が私を見ていた。
「秋兄とふたりきりにはならないで」
その言葉に少し動揺する。海水浴へ行ったあの日、ふたりきりでいたことを言い当てられた気がして。
少しでも後ろめたい気持ちがあるということは、私はやっぱりいけないことをしていたのだろうか。
「秋兄を冷たくあしらうことができないのは仕方ないとしても、これだけは守ってほしい。秋兄の手癖の悪さはよく知っているし、翠の無防備っぷりも理解してる。だからこそ気をつけてほしい。うっかり抱きしめられたり、うっかりキスされたり、そういうのはなしにして。……もし、そういうことがあったら隠さず白状して」
私はコクリと頷き、海水浴の日のことを言おうかどうしようか悩んだ。
約束がこれからのことならば言わなくてもいい気はするけれど、やっぱり後ろめたいのだ。
私は小さく息を吸い込み、
「ツカサ、ごめん……。海水浴に行ったとき、唯兄も一緒だったけど、海に入るのが怖くて秋斗さんに抱っこされた……。それから、お昼食べたあと、秋斗さんとふたりきりになった。浮き輪を借りに行くだけだったのだけど、手、つないじゃった……」
懺悔するように告げると、司は小さくため息をついた。
もしかしたら予想されていた……?
そろそろとツカサを見上げると、
「力の関係上、手をつながれたら翠から振り解くのが難しいのは理解してる。でも、これからはそういうのもなしで」
「……はい」
これからどう気をつけたらいいだろうか、と考えていると、
「つないだ手ってどっち?」
「え……? こっち」
右手を上げると、ツカサに手首を掴まれた。
ツカサはそのまま手首を自分の口元へと持っていき、唇を押し当てる。
「つ、ツカサ?」
「消毒……」
ツカサは右手のありとあらゆる場所にキスを施し、それだけでは足りない、とでも言うかのように手首から肘にかけても唇を這わせていく。
ただ手にキスをされているだけなのに、身体中が沸騰しそうなほど熱くなるのはどうしてだろう。
「しかも、海の中で横抱きにされたって?」
ツカサの鋭い視線に見据えられ、
「で、でもっ、水着っていっても肌の露出はしてないよっ!?」
「……は?」
「だって、タンキニの上にラッシュガードって長袖のパーカを着て首元までファスナー閉めていたし、足はトレンカはいてたしっ――」
必死に補足説明をすると、
「それ、水着って言うの?」
真顔で尋ねられた。
唯兄にも同じようなことを言われたけれど――
「その格好じゃなかったら海水浴なんて行かなかったもの……」
ツカサの胸元に視線を落とす。と、ぎゅ、と抱きすくめられた。
ツカサは暑いと言うかもしれない。でも、エアコンが利き始めた部屋ではツカサの体温が気持ちよく感じる。
よりツカサの体温を感じたくて背中に腕を回す。と、カタン――と電気ケトルが沸騰したことを知らせた。
ツカサの腕がほんの少し緩められたけれど、解放されたわけではなく、
「ツカサ、お茶だけ淹れよう?」
「……お茶、淹れたら?」
「……くっついてたい」
言ってツカサの胸に額を預けると、背中に回されていた腕がはずされた。
リビングへ戻ると私たちにしては珍しく、ずっとくっついて過ごした。それが夏休み最後の思い出
――
END
Update:2015/04/03(改稿:2017/09/03)
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