「翠、そろそろ……」
「はい」
私たちのやり取りに気づいた桃華さんが、
「もう帰るの? もしかして、具合悪い……?」
「ううん、そういうわけじゃないのだけど、少し熱があるの」
「疲れかしら?」
「どうかな? でも、競技に出ていたみんなは私よりも疲れてると思う」
「……もしかして、怪我のせい?」
「それはちょっとわからなくて……。でも、このあとマンションでツカサのお兄さんに診てもらう予定だから大丈夫」
「そう……?」
「うん。だから、途中だけど帰るね」
「わかったわ。気をつけて帰ってね」
「ありがとう」
近くにいる人たちと挨拶を交わし、最後に風間先輩と静音先輩のもとへ向かう。
「色々考えてワルツに誘っていただけたこと、本当に嬉しかったです。ありがとうございました」
「私たちも楽しかったわ。御園生さんをワルツに誘って大正解だった。でも、その足で踊っただなんて……」
静音先輩が麗しい眉をひそめる。
「痛いは痛いんですけど、谷崎さんがテーピングしてくれたので助かりました」
「「え? 谷崎さん?」」
「はい。ワルツ競技の前に謝罪に来てくれました。なので、和解済みです。その節はお世話になりました」
重ねて頭を下げると、
「やだ、やめてっ? もともと御園生さんは悪くないのだから」
上体を起こすと、風間先輩が携帯を操作していた。
「番号とアドレス、交換しよう?」
「え?」
「あ〜……別に他意はないよ? でも、俺大学でも藤宮と一緒になる予定だし、何かと藤宮ガイドラインが必要になると思うんだよね。だからホットライン的な連絡先交換だと思って……だめ?」
「ガイドライン」や「ホットライン」って……。
思わず笑みが零れる。
「そんな頼りになるとは思えませんが、それでよろしければ……」
そんなふうに返すと、「私も便乗させて?」と静音先輩も携帯を取り出した。
そこへ谷崎さんが走ってきて、
「あのっ、私もっ、私も連絡先交換してもらえませんかっ!?」
必死に懇願をされた。
「谷崎サン、必死すぎ」
風間先輩の突っ込みに谷崎さんは顔を赤らめつつ、「だめですか?」と尋ねてくる。
「いいえ、喜んで」
また、新しい人たちとつながりを得ることができた。
「翠」
少し離れたところで待っていてくれたツカサに呼ばれ、
「おーおー、怖いナイトの仏頂面」
風間先輩は相変わらずツカサをからかおうと全力で立ち向かう。けれど、それにツカサが応じることはないのだ。そして、それもわかっていて仕掛けるのだから物好きだな、と思う。
ある意味唯兄といい勝負かもしれない。そんなことを思いつつ、
「途中ですけど、お先に失礼します」
そう言って桜林館をあとにした。
桜林館を出た途端にツカサに抱っこされ、
「つ、ツカサっ!? 大丈夫だよ? 私、歩けるっ。荷物もいっぱいだし重いでしょうっ!?」
実際、大荷物を運んでいるような状態で、「抱っこされている」と見えるのかすら疑わしい。
どれだけ大丈夫だと言ってもツカサは取り合ってくれない。
でも、昇降口へ行けば靴に履き替えるときに下ろしてもらえるだろう。そしたら、次は抱えられないように注意しよう……。
昇降口で下ろしてもらい靴に履き替えていると、私よりも先に靴を履き替えたツカサはスタスタと外へ出て行った。
「あ、れ……?」
警戒していただけに、想像とまるきり違う行動に思考が一時停止する。
バンッ――
外から聞こえてきた音は聞き覚えがあるけれど、咄嗟に「なんの音」と答えるのは難しい。
ゆっくりと出口へ向かうと、戻ってきたツカサに問答無用で抱き上げられた。
「ツカサ、荷物は……?」
「車」
え? 車……? ――っ、もしかして楓先生っ!?
前方に視線をやると、そこには黒塗りの車が停まっていた。
こういう車は以前見たことがあるけれど、後部座席の前でドアを開けて立っている人は見たことのない人だ。
疑問を向けるようにツカサを見ると、
「まさか、この足で歩いて帰るつもりだったとは言わないよな?」
「えぇと……取り立てて何も考えていませんでした」
「そんなことだろうと思った。でも、次からはせめて御園生さんに連絡入れるとかそのくらいのことは算段に入れてもらいたいんだけど。もし反論するなら御園生さんに状況話して御園生さんからも説得してもらう」
「……いえ、反論など」
そんな余地はないじゃないか、と心の中で文句を言うにとどめる。
「司様、女性に対し、そのように攻め立てるものではございませんよ」
車の脇に立つ人はクスクスと笑い、司に臆することなく諌めるような言葉を発す。
「高遠さんは知らないでしょうけど、翠は同じことを何度言って聞かせても、たったひとつのことすら習得できない頭の持ち主なので」
あちこちに重きを置かれた文章が耳に痛い。
耳を押さえたい心境に駆られつつ、「高遠さん」という名前を過去の記憶から漁る。
この名前はどこかで聞いたことがある気がするのだけど……。あ――
「ツカサの警護班の方ですか?」
「申し遅れました。私、司様の護衛を務める
名刺を差し出され受け取ると、
「そういうの、車に乗ってからにしてくれない?」
文句を言われ、高遠さんと声を揃えて謝った。
車だと五分とかからずにマンションへ着いてしまう。
さすがにツカサに抱えられて帰ってきたら家族がびっくりするだろう。だから、お願いにお願いを重ね、ゲストルームまでは自力で歩かせてもらうことにした。
九階で降りてはたと思う。
「先に楓先生のおうちだよね?」
「いや、ゲストルームでかまわない」
「どうして……?」
「兄さんに来てもらうから」
「そんなっ、申し訳ないよっ」
「人の好意はおとなしく受け取ってくれないか?」
「でも……」
だってそれは、楓先生の好意? それともツカサ……?
「あのさ、怪我をしてる翠を極力動かしたくないって俺の気持ちくらい汲めないの?」
あ、ツカサだ……。
……えぇと、これはツカサ流の感情表現とか愛情表現とか心配の仕方なのかな……。
蒼兄や唯兄、両親のそれとは違った形の心配だったり過保護のような気がしなくもないけれど
――
「じゃ、お言葉に甘えさせていただきます」
私が折れてゲストルームへ足を向けると、「それに」という接続詞が後ろから聞こえてきた。
振り返るとツカサはそっぽを向いていて、
「もし煌が寝てたら起こすの悪いし、寝てて起きても最初から起きてても、翠が来たって興奮したら寝付かなくなりそうだし……」
らしくなく、ポロポロと零す言い訳がかわいく思えて仕方がなかった。だから、
「うん、そうだね」
と、ツカサの腕にそっと手を添えた。
どうしてかな……。
身体の一部に触れているだけなのに、それだけで自分の気持ちもツカサの気持ちも落ち着く気がしたのだ。
人と関わるうえで、「相手に触れる」という行為はとても大切なことなのかもしれない。そんなこと、当たり前なのかもしれないけれど、「触れる」というハードルが高すぎて、自然に思えるには至らなかった。でも、今の気持ちなら、徐々に触れられるようになる気がする。
きっと、そう思えるようになったことがひとつの進歩なのだろう。
玄関を入ると唯兄とお母さんに出迎えられる。
「ただいま」
「「おかえりなさい」」
言った直後、お母さんと唯兄の目線が私の足元へ落ちた。
それは何かに気づいて視線を移したというよりも、目にする前から目的があって移した、という感じ。
「それ、剥がしたらどんなことになってるのかしらね……」
「知ってたの……?」
「生徒が怪我をすれば学校から連絡が入るのが普通よ。さらには学校で湊先生の診察を受けなかったことも聞いてるわ」
「ったくさー、朝あれだけ言ったのに連絡してこないしっ」
そういえば……。
「唯兄、ごめんなさい……。ちょっと、目の前のことにいっぱいいっぱいで家族に連絡するの、すっかり忘れていたの。でもね、最後には湊先生に診てもらおうと思ってたんだよ?」
上目遣いで唯兄を見ると、
「それも聞いてる。ほかにも怪我した生徒がいるとかで、湊先生病院に行っちゃったあとだったんでしょ? でもって、リィが事を大ごとにしたくないから湊先生のところに出向かなかったっていうところまで知ってるよ」
「えぇと……ずいぶん詳しく知っているのね」
苦笑を貼り付けながら感想を述べると、
「まぁね。ツカサっちから密告電話あったし」
密告……。
そうでしたかそうでしたか……。それなら詳細を知っていて当然ですよね……。
「唯、翠葉をいびるのはそのくらいにしたら? 翠葉と司くんは手洗いうがいしてリビングへいらっしゃい。湊先生の代わりに栞ちゃんと昇先生がいらしてるわ」
「えっ?」
びっくりしてリビングの先に視線を向ける。と、
「お邪魔してまーす!」
廊下の先で栞さんと昇さんが手を振っていた。次の瞬間、背後でインターホンが鳴る。
ツカサがドアを開けると、
「あ、帰ってきてた。そろそろ帰ってくるころかと思って来てみたんだけど……って、なんで秋斗がいんの? えっ、何? 昇さんと栞ちゃんもいるの?」
楓先生は廊下の奥とツカサの顔を交互に見て、
「俺、必要なかった?」
「っていうか、昇さんがここにいるって俺も知らなかったし……。秋兄は、今年の春から毎晩御園生家で夕飯を食べているらしい」
「うわぁ……迷惑なやつ。身内として恥ずかしいよ」
「あら、そんなことないわよ? 秋斗くん、ちゃんと食費入れてくれてるし、アンダンテのケーキやタルト、美味しいクッキーを持ってきてくれたりするし」
お母さんが人差し指を立てて軽快に話すと、
「ぅお〜い。そんなところで喋ってないで上がったら?」
リビングからやってきたお父さんの提案にみんなが頷いた。
「外から入ってきた人は手洗いうがいを忘れずに。司くんはここにいること、ご両親知ってらっしゃるの?」
「今日はこっちに帰ると話してきたので」
「それならうちでご飯食べて行きなさい」
「いえ――」
「じゃ、今日の夕飯はどうするの?」
「コンシェ――」
「はい、却下。今日は栞ちゃん特製のビーフシチューなの。人がひとり増えるくらい問題ないわ」
お母さんはマイペースに話を進めると、ツカサの返事を聞くでもなくスタスタとキッチンへ入っていった。
Update:2016/07/30(改稿:2017/09/25)
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