「帰らなくちゃだめ……?」
上目遣いの問いかけに、
「どいう意味?」
「もう少し、一緒にいたい……」
……たまらなくかわいいんだけど、なんなの今日……。
すぐにでも抱きしめたいのに間にある車椅子が邪魔だし、高低差がそうはさせてくれない。
でも、その物理的な距離が少しだけ自分を冷静にさせた。
翠の額に手を伸ばせば手のひらに熱が伝う。
昨日ほど熱くはないけれど、確認は怠れない。
「翠、携帯」
「…………」
翠は渋々携帯を差し出した。
ディスプレイには三十七度二分の文字。
微熱……。
慢性疲労症の症状なのか、足の怪我から来ている熱なのか。どちらにせよ平熱ではないわけで……。
「……うちに来て横になっててくれるなら考えなくもない」
「せっかく一緒にいられるのに寝てるの……?」
「別に熟睡しろとは言ってない」
翠は眉をハの字にして不服そうな表情を作る。
「申し訳なく思う必要はないし、横になってても話すことはできるだろ? それが聞けないならこのまま帰宅」
翠は慌てて俺の手を掴みなおした。
「寝てるっ。ソファ借りて横になるからっ、だから、もう少し一緒にいたいっ」
本日二度目のあまりにも必死な様子に負け、俺は行き先を十階へ変更した。
翠をリビングまで運び寝室から毛布を持ってくると、ソファに座らせたはずの翠が立っていた。
「何?」
「お茶の用意……」
「座ってていい。飲み物は俺が用意するから」
「お茶を淹れるくらいはできるよっ!?」
「ゲストルームに帰されたいの?」
翠は途端に口を噤んだ。
キッチンでお茶の用意をしていると、翠はソファの背もたれに顎を乗せ、こちらをじっと見ていた。
人の動きを注視しているところがハナっぽい。しかも、むくれた顔はおやつのお預けを食らったハナそのものだ。
そんな表情もかわいく思え、「愛しい」という感情が心の奥底から湧き上がるのを感じる。
あたたかな想いを感じれば感じるほどに、翠に手を伸ばしたくなるから困る。
さっきは屋外だったから抱きしめるだけでとどまれたけど、今度は屋内。しかも人目を気にする必要のない家なわけで、気持ちが高まったらそのまま押し倒しそうで自分が怖くもある。
わずかながらも前進しようとしてくれているのだから、もう少し翠のペースで、とは思う。
でも、衝動はいつだって突然やってくる。
こんなことをしてもなんの意味もない。わかっていつつも、冷凍庫から氷を取り出し口の中に放り込まずにはいられなかった。
カップを持ってリビングへ戻ると、翠は非常に申し訳なさそうな顔をしていた。
そんな顔が見たいわけじゃないし、そんな顔をしてほしいわけでもない。
いつもみたいに、ハーブティーの香りに笑みを浮かべてほしい。
でも、そんな顔を見たらやっぱりキスがしたくなるような気がしてちょっと困る。
まいったな……。
どうして今日はこんなにもかわいく見えるのか。
いつもと違うことなんて大してないはずなのに。
髪はストレートのまま下ろしてあるし、服装だって普段と大きく異なるわけではない。
こげ茶色のワンピースにオフホワイトのパーカを羽織っているだけで、とくだんめかしこんでいるという印象は受けない。
ただ、いつもは携帯についているストラップが、今日は手首についていて、そんな変化を嬉しく思う。
改めて考えてみても、外見に要因があるわけではない気がした。だとしたら、ほかに何が――
……あぁ、「今日が」というわけではないけれど、ここ数日で互いが思っていることを伝え合えるようになった、という変化はあった気がする。
それが要因……?
たぶん間違ってはいない。でも、それだけでは少しアバウトすぎる。
……思っていることを伝えて、それが受け入れられたから……?
心が柔らかいものに包まれたような感覚がひどく心地よくて、身を任されるような重量に幸福感を覚えた。
……あぁ俺、今幸せなんだ。
「幸せ」という言葉が妙にくすぐったい。けれど、腑に落ちる。
さらなる「幸福」を欲すれば、抱きしめてキスをしたくなるし、その先へだって進みたくなる。
まいったな……。自己分析をしたら己の欲求と対峙する羽目になった。
この先、翠を得ることができたなら、自分にどんな感情の変化が起こるのだろう。
未来に起こりうる変化が楽しみなようで少し怖くもあり、なんとも複雑な心境に陥る。すると、
「ツカサ……?」
気づけば翠に顔を覗き込まれていた。
あぁ、だめだ。我慢できない。
覗きこんだその顔に唇を寄せ、柔らかな唇を優しく食む。と、所在なさげに寄せられた翠の手が、胸元のシャツを力なく掴んだ。
そして、俺が翠の背中に腕を回せば翠も同様に腕を回してくれる。
「進歩」という名の変化は確かに感じられる。だから、焦るな――
欲求に呑まれそうな自身を落ち着けるため、翠を力いっぱい抱きしめる。それが余計に想いを加速させるとは知らずに。
これだけ力を入れていたら「痛い」と訴えられてもおかしくないはずなのに、翠は俺に応えるように抱きしめ返してくれた。
それが嬉しくも切なくて、俺はどうしようもなく腕に力をこめることしかできない。
「ツカサ……」
「悪い」
痛かったのだろうと腕の力を緩めると、
「違うのっ」
「え……?」
違う……?
「好き。……ツカサにぎゅってされるの、大好き……」
翠は恥ずかしそうに笑った。
「……あのさ、俺のなけなしの理性を葬るような言動は謹んでほしいんだけど……」
「え?」
無自覚だし……。
「性質悪……」
「えっ、あのっ……私、何かしたっ!?」
あー……もう、こいつは――
人にペースを乱されることほど苦手なものも不快なものもない。でも、翠に関しては不快には思わないから色恋眼鏡の威力はすごいと思う。
ただ翠を放したくなくて、
「……このまま寝ようか」
「え……?」
翠の反応はごく自然なものだろう。俺だって、何言ってんだ、くらいの自覚はある。でも、
「誓って何もしない。ただ、翠を抱きしめていたい。触れて、いたい」
堪えられずに本音を零し、胸元の翠にそっと視線を向ける。と、翠は頬を赤く染めたままコクリと小さく頷いた。
あぁ、くそ……かわいい。
俺は穏やかな体温を伝える愛しい存在を抱きしめたまま、ふたりで横になるには少々手狭なソファに転がった。
単なる添い寝。己の欲求と対峙する羽目になりそうな環境。
でも、腕に翠を抱きしめたままいられるなら、それでいいと思えたんだ。それに、慣れようと思っているのなら、このくらいはありだろ……?
END
Update:2017/01/15(改稿:2017/10/02)
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