そんなことにほっとしながら、弓弦いわく「お子様コーヒー」に口を付ける。
「翠葉さ、人前での演奏が苦手ならAO入試にしろよ。そしたら、三回まで再受験可能だし、さすがに三回目には慣れてるだろ?」
翠葉はどうしてか難しい顔をしている。
俺、何か間違ったこと言った?
疑問に思っていると、
「あの……実はまだ、芸大一本に決めたわけではなくて……」
「はっ!?」
「そうなんですか?」
おいおい、弓弦も知らなかったのかよ……。
呆れた目で弓弦を見ると、弓弦は心底驚いた顔をしていた。そして、隣の翠葉は場を紛らわすように愛想笑いを浮かべている。
ま、藤宮の生徒じゃ進路はより取り見取りだよな……。
今まで、自分の周りには音大を目指す人間しかいなかったから、なんか新鮮だ。
俺の視線に気づいた翠葉は、言いづらそうに口を開く。
「今はまだ決められなくて、でも、行きたいと思ったときに技術が伴わなくて行けないのはいやなので……」
声は尻すぼみに小さくなり、言い終えるころには目線がテーブルに落ちていた。
「御園生さん、後ろめたく思うことなどありませんよ。僕はオーダーどおり、あなたがこの大学に合格できるレベルに仕上げるのが仕事ですから。来年の夏までにはある程度のレベルへ引き上げます」
弓弦は有言実行を地で行くタイプだし、可能性のないことに時間や労力を費やす人間ではない。だとしたら、勝算があっての言葉だろう。
翠葉は翠葉で何を感じたのか、えらく気を引き締めた様子で「よろしくお願いします」と頭を下げた。
「で? ほかに考えてる進路って何? 医療系とか?」
だとしたら、成績を落とせない理由も頷けるというもの。
しかし、翠葉は首を傾げて不思議そうな表情でこちらを見ている。
「どうして医療系?」
「や、ほら、入院してたりするから……」
「するから……?」
「ほらっ、近くで見たことのある職業って憧れたりするだろっ!?」
この反応は何っ!? えっ? なんないっ!? 俺だけっ!?
あまりにも単純すぎる発想だっただろうか。
不安になって弓弦に視線を向けようとしたとき、翠葉が口を開いた。
「看護師さんとかお医者さんとかすごいな、とは思うけど、私には無理かな」
「なんで? 藤宮行くくらい頭いいなら十分選択肢にできるだろ? 藤宮大学って医学部もあるしさ」
「んー……根本的な部分でちょっと無理というか」
根本的な部分って……?
「なんだよそれ」
「重く受け止めないでね……?」
「ん?」
「持病があって、たまに意識失っちゃったりするの。そんな状態で人様の命は預かれないでしょう?」
これは想定外。
重く受け取るなと言われても無理があるっていうか、俺、さっきから地雷踏んでばかりじゃね……?
ごめんって思ったけれど、謝ることを拒否されている気がして、謝るに謝れないでいた。すると、
「もう……だから、重く受け止めないでって言ったのに」
そうは言われても……。
もし翠葉が俺と同じ立場だったらどう思うんだよ――と言いたい気分。
でも、さっきから怯えさせたり泣かせたりしてるから、ちょっと躊躇する。と、
「あ、だからバイタルがわかるようになっているんですか?」
弓弦のカラッとした問いかけに、翠葉はコクリと頷いた。
「失神というと、脳……? それとも――」
「循環器系です」
「心臓? となると、不整脈か何か?」
「不整脈もなのですが、自律神経の働きが悪いみたいで……」
「それは大変ですね……」
「いえ、お医者様に言われたことさえ守っていれば、生活は普通にできるので」
俺にはまるで馴染みのない会話をふたりは淡々と続ける。俺は会話に混ざることもできず、じっとその会話を聞いていた。
循環器で不整脈って言ったら心臓に問題があることくらいは俺にもわかる。そして、「生活は普通にできる」ってことは、激しい運動はできないのかもしれない。
もう少し詳しく知りたい気はするけれど、また地雷踏むのは避けたいし……。
悶々としていると、
「倉敷く……さん? 先輩……?」
翠葉は首を傾げながら口にする。
「慧でいい」
「でも年上だし……」
「苗字はやなんだ」
「じゃ、慧くん……」
普段「くん」付けで呼ばれることが少ないだけに、なんだかくすぐったい。
思わず照れ隠しが必要になるほどに。
「呼び捨てでいいのに」
「それはさすがに抵抗があるので……」
それじゃ、仕方がない。
ひとまず、苗字で呼ばれなければなんでもいいや。
翠葉はおずおずとこちらに身体を向け、
「申し訳なく思うのなら、何か弾いて? お詫びに演奏を聴かせて?」
え……? それでいいの? それで帳消しになんの?
そんなのお安い御用でしょ。
「何がいいっ? 何、弾いてほしいっ?」
露骨なまでの態度の変化がおかしかったのか、翠葉はクスリと笑みを零した。そして、
「あのコンクールの日に弾いた曲。私、聴けなかったから」
「っ……」
あの日弾いたのは、モーツァルトのきらきら星変奏曲だ。
響子に聴いてほしくて、響子に聴かせたくて、早く響子の病気が治りますように、と天に祈る気持ちで弾いた。
けど、祈りなんて届かなかった。響子は元気になるどころか死んでしまった。
あの日以来、この曲は弾いていない。でも、そろそろこういうのは精算すべきなのかも。そのきっかけが「今」だというなら受け入れるべきだ。
「いいよ」
俺は答えてピアノへ向かった。
最後に弾いたあの日とはまるで違う気持ち。翠葉を笑顔にできますように――そんな想いで弾いたけど、翠葉は笑顔になっただろうか。
ドキドキしながら翠葉に尋ねる。
「どうよっ!」
「すっごくすっごく楽しかった!」
翠葉は満面の笑みで拍手をくれた。
「いいな、私もこんなふうに弾けるようになりたい!」
「まぁね! 俺、二ヶ月もさぼったりしないし」
チクリといやみを返しても翠葉の拍手はやまないし、笑顔が途切れることもない。
今日の神様はちゃんと願い事を聞いてくれたようだ。
「そうだ、御園生さん。左手のみで結構ですのでちょっと弾いてもらっていいですか?」
弓弦の奇妙な申し出に、翠葉は首を傾げながら応える。
一通りスケールを弾くも、弾き方には変な癖が見られた。
これが原因か……。だから音が不安定に聞こえたんだ。
「緊張しているから、というわけではないみたいですね」
「え……?」
「いえ、鍵盤を押すとき、少し力を入れすぎている節があるので……。そんなに力を入れなくとも、音は鳴りますよ?」
翠葉ははっとした表情で、
「あの……今、自宅で弾いているピアノの鍵盤が重くて、それでつい――」
「それ、よくねーよ」
俺の言葉に、翠葉は緊張の面持ちで口元を引き結ぶ。
「そうですね。鍵盤が重過ぎるのはよくない。今みたいに変な癖がつきますから。自宅のピアノメーカーは?」
翠葉は一度口を開けたものの、何を答えることなく口を噤んだ。
「そこでなんで黙り込むんだよ」
「えぇと、私の持っているピアノはシュベスターで、とても鍵盤の軽い子なのですが、今練習に使っているのはスタインウェイで……」
「なんでそんないいピアノ使ってんだよっ!」
もはや脊髄反射で答えてた。
苦笑を浮かべる翠葉に説明を求めると、
「あの、今、知り合いのゲストルームに間借りさせていただいているのですが、そこに置いてあるピアノがスタインウェイなんです……。ピアニストの間宮静香さんをご存知ですか?」
俺と弓弦は当然といわんばかりに頷く。と、
「生前、間宮さんが使っていらしたピアノで、鍵盤が少し重めで……」
鍵盤の重さには好みがあり、稀にそこまでオーダーしてくるピアニストがいるという話は弓弦から聞いたことがある。
つまりは、間宮静香もそういったピアニストだったのだろう。
「それ、今は間宮さんの息子さんが管理所有されているピアノでは……?」
「あ、そうです。ご存知なんですか?」
「そのピアノはうちが調律を担当していますから。そうでしたか、あのピアノを……。御園生さん、あのピアノを弾き続けたら身体を壊します。できることなら、御園生さんにあった調整をしたほうがいいのですが……」
翠葉は困った人の顔になる。
「あくまでもお借りしているピアノなので、静さんの了承を得ないことにはちょっと……」
「ご相談はできるのですか?」
「はい。とてもよくしてくださる方なので。ただ、形見ともいえるピアノなので、手を入れることを許してもらえるかまではわからないです。無理なら、自分のピアノを搬入してもらいます」
「僕に連絡いただければ、調律師の手配はこちらでしますので」
「ありがとうございます」
弓弦が胸ポケットから名刺を取り出し差し出すそれを見て、自分もこの場に乗じて連絡先の交換をしてしまおうと思った。
「んっ」
スマホの赤外線受信をオンにして翠葉に向ける。と、「ん?」と首を傾げられる。
この仕草たまらん……。
そんな感情をひた隠し、
「連絡先の交換くらいいいだろ?」
「あ、はい」
翠葉は自分のスマホを取り出し、その先の操作に困って首を傾げる。
「これって、どうしたら連絡先の交換できるんですか……?」
「おい……」
スマホの使い方わかんねぇとかどんだけ……。
でも、かわいいから許す。
俺はふたつのスマホを操作して、手早く連絡先の交換を済ませた。
「そうだ。あの日のベーゼンドルファー、今どこにあると思いますか?」
弓弦の問いかけに、翠葉はお手上げといった表情になる。
でも、弓弦の知るベーゼンドルファーと言えばうちにも一台あるわけで……。
「ベーゼンドルファーって、うちのピアノのこと?」
なんとなしに訪ねると、ゴト、とすごい音を立てて翠葉がタンブラーを落とした。
「おいおい、大丈夫かよ」
言いながら拾ってやるも、翠葉は表情を固まらせたまま。
これ、どうしちゃったわけ……?
弓弦を振り仰ぐと、
「慧くん、無理もないですよ。あれは彼女が初めて触れたピアノなんですから」
「え? そうなの?」
「あのピアノを一週間家具屋さんにレンタルしたのを覚えてませんか?」
「あぁ、じー様が贔屓にしてるアンティーク家具屋だかなんかだろ?」
小さかった俺は、ベーゼンドルファーが売られるのかと勘違いして大泣きした記憶がある。ぐずりにぐずった俺を見かねたじー様が、催事会場まで連れて行ってくれたという思い出付きだ。
「御園生さん、その家具屋さんのお孫さんなんです」
「はあっ!?」
「先生、知ってらしたんですかっ!?」
弓弦は満足げな表情で、室内に置かれた家具たちを見回した。
それはつまり、ここに置かれた家具がすべてその家具屋の品ということなのだろう。
あぁ……珍しく、弓弦が「してやったり」な顔してやがる。
今日はなんだかやられてばかりだ。
Update:2017/05/15(改稿:2017/10/23)
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