ピアノのレッスンが終わり、さあ楽典の復習をするぞ、というときになって、
「高校最後の夏休み、旅行に行かないか」
ツカサの提案に頭がフリーズした。
ツカサを見ると、ツカサは手に持っていたコーヒーカップをソーサーへ戻しながら、「どう?」と訊いてくる。
その仕草や口ぶりから察するに、「ちょっとそこまで散歩へ行かないか」的なニュアンスなのだけど、そのニュアンスとはかけ離れたフレーズ――むしろ聞きなれない単語が含まれてはいなかっただろうか。
ツカサが口にしたのは「リョコウ」。
リョコウ……? リョコウって……りょこう……旅行……?
えっ……旅行っ!? でも、旅行って――
混乱を極める頭を両手で抱えずに済んだのは、手に教材を持っていたからだ。
突如湧いた「旅行」という言葉に真っ白にされた頭は、まだ当分使い物になりそうにない。
そんな私は、ただただツカサを見つめ返すことしかできなかった。すると、
「何、その顔。異存があるの? それとも、語句の意味がわからないとか言う?」
ツカサは若干呆れているふうだ。
けれども、少し考えてみてもらいたい。唐突に「旅行」という単語を出された相手の心境を。
そんなことをまじまじと考えていた私ははっと我に返り、
「あの、旅行ってっ!?」
「語句の意味?」
「違うっ!」
「なら何……」
「旅行」と言われて想像するのは泊りがけの旅行だけれど、ツカサとの場合は日帰りだろうか。
「旅行って……日帰り?」
確認のためにたずねると、
「まさか。それならわざわざ『旅行』なんて言葉は使わない」
「そ、そうよねっ?」
そうだそうだ、それなら今まで使っていた「デート」という言葉で会話は成り立つ。
「旅行……旅行、か……」
日帰りじゃないということは、時間を気にせずツカサと一緒にいられるということで、当然ながら夜も一緒で「おやすみ」が言えて、朝起きたら一番にツカサに会えて、「おはよう」が言えるわけで――どうしよう……。
少し考えただけでも幸せすぎて、うっかり顔の筋肉が締まりなく緩んでしまう。
でもさすがに、日帰りではない旅行は両親の承諾、または兄たちの承諾なしには行けないだろう。
現実が眼前に立ちはだかった瞬間、
「翠の保護者陣の承諾が必要なのはわかってる。俺も一緒にお願いしに行くから」
「えっ? 一緒にお願いしてくれるの?」
「婚約したとはいえ、大事な娘であり妹である翠を連れ出すわけだから、必要最低限のことはする心づもり」
でも――
「うちはともかく、ツカサのおうちは大丈夫なの?」
「うちの場合、俺がどうというよりは、『よそ様のお嬢さんを連れて行く』ってところに問題があるわけで、翠の両親、兄ふたりの承諾を得られない限り、許可は下りない」
「なるほど……」
つまるところ、私の家族がネックということか。
「説得するにしても、プランも何もなかったらだめよね……? どこに行くとか、候補があったりする?」
「翠、星を見たいって言ってただろ?」
星……?
――あっ、紫苑祭の後夜祭のときにそんなことを話した記憶がある。
そんな些細な会話を覚えていてもらえたことが嬉しくて、「うん」と弾んだ調子で答えると、
「だから、星を見に緑山へ行こうと思う」
「緑山って……川に納涼床が作られるっていう……?」
「そう。幸倉から高速に乗って三時間ほどのところにある。広葉樹が多い山だから、翠は気に入ると思う。それに、山ひとつ藤宮の持ち物だから防犯面も問題ないし、俺たちが泊まる別荘のほかに管理棟もあるうえ、警護班の人間が泊まる施設もあるからそのあたりもクリアできる」
そこまで言われてようやく、現実味が帯びてくる。
「そっか……。私たちの旅行ということは、警護班の人たちも同行することになるのね?」
「そう。ほかにもブライトネスパレスのステラハウスも候補にはあったけど、翠は何度か行ったことがあるだろ? それなら、まだ行ったことのない場所でもいいのかと思って。……どっちがいい?」
「うーん……木田さんにもお会いしたいから白野も捨てがたいけれど、今回は緑山に行ってみたいな! 納涼床は初めてだから、とっても楽しみ! でも、私の受験が無事に終わらないことには行けないのよね……」
「そうだな。だから、できるだけ一発合格目指してがんばって」
「ううう〜……ただでさえプレッシャーに弱いのに、これ以上プレッシャーかけないでっ! がんばるけどっ、がんばるけどだめだったらごめんねっ?」
「そのときはそのとき。ひとまず、緑山に行く計画を立てよう。……とは言っても、夜に星を見ることが目的で、あとは山の散策やバーベキュー程度だけど……」
「十分! とっても楽しそう!」
そんな話し合いのもと、日々コツコツと行動計画表を製作し、週末、家族が揃うゲストルームにツカサはやってきた。
皆が席に着き、テーブルにコーヒーが用意されると、
「お盆明けに翠と緑山へ泊まりがけで旅行に行きたいのですが、お許しいただけますか?」
ツカサは一切の前置きを用いず、単刀直入に切り出した。
思わず息を止めてしまったのは私。お父さんとお母さんは顔を見合わせ、蒼兄は少し驚いた顔。唯兄だけが「だめだめだめーーーっっっ!」とひとり喚き散らす。するとお母さんが、
「蒼樹、ガムテープ取って来てくれる?」
「……母さん、参考までに用途を確認したいんだけど……」
「あらやだ、蒼樹ったら想像力のひとつも働かないの? ガムテープって言ったら唯の口を塞ぐ以外になんの用途もないじゃない」
真顔で返したお母さんに対し、蒼兄はあからさまに苦笑を浮かべる。
「母さん、俺の想像力以前にそれはちょっと……」
蒼兄は唯兄に向き直り、
「唯、気持ちはわかるけど、少し黙って話を聞こう? じゃないと、ガムテープで物理的に口を塞がれるか、席外せって話になっちゃうと思うけど?」
ガウガウ唸る唯兄は蒼兄に窘められ、渋々席に着いた。
その様子を実にのんびりとした様子で見守っていたお父さんが口を開く。
「ま、すでに婚約済みだしふたりが旅行に行くとなれば警護班だって動くわけで、完全にふたりってわけじゃないし、行き先が緑山なら事件に巻き込まれることもないかなぁ……」
「どうだい?」とでも言うようにお父さんがお母さんを見ると、
「そうねぇ……。ただ、ふたりともまだ未成年だから、そのあたりを考慮する必要はあると思うの」
お母さんも、「どう?」といったふうにお父さんへ返す。
「そうだなぁ……。いやね、ふたりを信用してないってわけじゃないんだよ? ただ未成年の旅行だからね。ごくごく一般的な体裁を整えるためにも、成人した監督者がいるに越したことはないよね、って話でしょ? 碧さん」
お母さんは「そうそう」と同意を示した。
「緑山といえば、管理棟前の広場向こうに大きめの別荘が建っていて、そこから少し離れた場所に一軒と、ほかには藤宮グループが研修に使う施設もあったわよね?」
「はい。管理棟近くの陽だまり荘は二階建てのつくりで、二階にリビングダイニング、キッチン、一階にはツインルームが六部屋の構造です」
「そう……じゃ、蒼樹に唯、秋斗くんを連れて行くなら許可しましょう?」
にこりと笑ったお母さんに、ツカサは一拍遅れて「わかりました」と了承した。
「六部屋あるならまだ泊まれるね? 桃華さんや海斗くんたちにも声かける?」
なんとなしに口にすると、ツカサはものすごくいやそうな顔をする。それに対して唯兄は、
「いいねいいね! 大勢ばんざーい!」
まるで猿轡や足枷を外してもらえた動物のように、大きなリアクションをしてみせた。
「唯さん、行くのはお盆明けですが、仕事休めるんですか?」
唯兄は人差し指を立てて「ちっちっちっ」とポーズを取ってから、
「司っちわかってないなぁ〜! 秋斗さんがリィと一緒に旅行へ行く機会をみすみす逃すわけがないじゃん。俺たちきっと、お盆休み返上で仕事して、そのあとの休みをもぎ取る形になると思うけど?」
唯兄は得意げに話してみせる。するとツカサは私の方を向いて、
「佐野や海斗、立花は部活で忙しいんじゃないの?」
あ、れ……? 同伴者をザクザクと削ろうとしていらっしゃる……?
そこから導き出されるのは――あ……ふたりきりで行きたいってことだった……?
ツカサの思惑に気づくのに遅れた私は、ちょっといたたまれない状況に陥る。でも話は着々と進行していて、
「文化部の桃華ちゃんは予定さえ空いていれば行けるんじゃない?」
お母さんの言葉に蒼兄が待ったをかけた。
「さすがに俺がいる旅行じゃ桃華のご両親がいい顔をしないと思う」
「まぁ、そうねぇ……。翠葉が一緒だとしても、成人した女性が同行するわけじゃないし……。私が同行できればいいのだけど、お盆明けは予定が詰まってるのよねぇ……」
「あっ! いいこと思いついた! 雅さん呼び寄せようよ! あっちは盆休みとかないからさ、うまく休みを調整すればそのあたりに連休作るのは可能なんじゃないかな?」
唯兄の提案に、私は飛びつく。
「雅さんっ!? 雅さんに会えるの嬉しい!」
「でっしょー? よーしよし、とっとと雅嬢に連絡入れよう!」
唯兄が席を立って我に返る。
恐る恐るツカサの顔を見ると、無表情に拍車がかかっていた。その顔の口端がゆっくりと上がるのを目撃してしまった私は、このあとツカサが何を口にするのかとびくびくする羽目になる。
ツカサはすっと息を吸い込むと、抑揚をつけてゆっくりじっくり話し始めた。
「碧さん、零樹さん、翠と自分は管理棟から少し離れた建物に泊まろうと思っています。ご了承いただけますか?」
今まで見たこともないような笑顔を湛えているけれど、もうなんていうか、「これだけは譲れません」以前に、「絶対に呑んでください」――そんな気迫がひしひしと伝わってくる。
口をポカンと開けて呆然としたのは私と蒼兄、唯兄の三人。お父さんとお母さんはクスクスと笑いながら、頷いた。
「司くんは律儀だなぁ……。そんなの黙っておけば自分に都合よく状況を操作できるだろうに」
「そういうのは何か違うと思いますし、せっかく旅行へ行くのに後ろめたい思いは抱えて行きたくないので」
「私、司くんのそういうところ、好きよ。それに、もう婚約しているのだし、そのあたりは好きにしてかまわないわよね? 零樹?」
「うんうん。ただまあ、ふたりともまだ学生だから、色々と気をつけて。ね?」
「……はい。ご了承いただきありがとうございます」
その会話に含まれるあれこれを想像した私は顔に熱を持ち、逃げるようにキッチンへおかわり用のコーヒーを淹れに行った。
「もう……お父さんもツカサも、普通の顔してなんてこと話すのよ……」
冷蔵庫に向かって愚痴を零していると、私のあとを追ってきたらしい唯兄に、後ろからぎゅーっと抱きしめられた。
「ゆ、唯兄っ!?」
「ん〜……」
唯兄は私の首元に顔を埋めたまま、
「リィ、大丈夫……?」
「な、何がっ!?」
「色々と。……司っちのことは、怖くない?」
あ――
唯兄が何を気にしてくれているのかはすぐにわかった。
ツカサに身体を求められて怖くはないか、とかそういうことを心配してくれているのだろう。
「ん……大丈夫。ツカサのことは怖くないよ」
「行為自体は?」
「……最初は怖かった。でも、相手がツカサだからかな? 大丈夫だった」
「そっか……。ならよかった」
「……でも秋斗さんが――まだそのあたりのことを気にしてくれていて、ちょっと申し訳ない気がする」
「あー……あの人うざいよねぇ……。でもさ、もうそこはリィが気にする必要はないから、これからは司っちのことだけ考えてあげなよ」
「ん……。そうする」
「じゃ、コーヒー淹れよっか?」
「うん! ツカサがカフェインレスのコーヒー豆を持ってきてくれたのよ! だから、こっちのを淹れよう? そしたら、私も飲める!」
「了解!」
唯兄は私からパッと離れてキッチンの片隅に置いてある電動ミルサーに手を伸ばした。
Update:2019/10/01(改稿:2020/04/30)
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