「ツカサ、聞いてええええっっっ」
文字通り、翠が叫びながら飛び込んできた。
今まで、翠がこんな騒々しく入ってきたことはない。
何が起きたのかと思えば、昨夜俺が帰ったあと、あれこれと追加条件を出されたらしい。
「私の受験が一発で合格するのが前提条件なのは仕方がないとして、旅行の日までに夏休みの宿題が終わってなくちゃだめとか、熱中症にならないとか、慢性疲労症の症状が出ないこととか、あれこれ後出し条件出されたっっっ」
確かに後出し条件ではあるものの、体調に関して言うなら、すべて気をつけてクリアして欲しいというのが俺の本音でもある。それに
「……多少の障害があったほうがクリアし甲斐がある。条件を出されたなら、すべてクリアするまでだ」
それに際し何に気をつけるべきか、ピアノの練習前の翠に懇々と話して聞かせた。
「ここは常に空調管理されてるからいいとして、家では室温が二十七度を超えたらすぐエアコン。一時間にコップ一杯の水分摂取。身体が熱を持ったらすかさず冷水シャワー。これを徹底するだけでも熱中症はかなりの確率で回避できる。それから慢性疲労症だけど、今日から俺の立てたスケジュールで生活してもらう。……こうなったら、何がなんでも旅行に行くからそのつもりで」
言い終わったあとには翠がわずかに後ずさっていた。
結果として、翠は一度も熱中症にならなかったし、慢性疲労症の症状が出ることなく旅行当日を迎えることができた。
もちろん、受験も一発合格。
あまりの緊張度合いに一時はどうなることかと思ったが、仙波さんとじっくり話し合い対策を練ることで徐々に緊張は解れ、受験に対する根本的な考え方まで矯正され、翠らしい演奏ができるまでに復活した。
そういうのを見ていると、翠がものすごく素直に人の言うことを受け入れる人間なのだと改めて思い知る――
「ツカサツカサっ! 晴れたね!」
マンションのロータリーで翠に話しかけられ、ずいぶん浮かれているな、と思う。
それも、受験が終わったあとの旅行ならひとしおなのかもしれない。
ウキウキした調子の翠は荷物を積み終わると、ロータリーに停まる車たちを見渡しては「うわぁ……」と口にする。
ロータリーには俺たちの車三台のほかに、警護の車が六台停まっているからだろう。
「翠、そろそろ出発」
「あ、はいっ」
翠はごく自然な動作で俺たちが乗る車の助手席に収まった。そして、バッグの中から端末を取り出しては接続の準備を進めている。
「ミュージックプレーヤー?」
「そう。ドライブでずっと無音なのはちょっと苦手で……」
それは知らなかった。
ということは、今までずっと苦手だと思いながら車に乗っていたことになる。
もっと早くに言ってくれればよかったものを……。
そんなことを考えていると、知っている曲が流れてきた。
「『DIMENSION』……?」
「知ってるのっ!?」
「……秋兄が好きで、車や職場でよくかけてたから」
もとは秋兄じゃなくて御園生さんだけど……。
翠は俺の顔色をうかがうように、
「ツカサは、嫌い……?」
そんな恐る恐る訊かなくてもいいものを……。
俺はため息をつき、俺が「DIMENSION」を知った経緯を話すことにした。
「もともとは、秋兄が好きだったわけじゃないんだ」
「え……?」
「御園生さんが垂れ流す翠情報のひとつに『DIMENSION』があって、三人徹夜で仕事を片付けることになったとき、御園生さんがテンポよく作業できる曲としてそれをチョイスした。そのあと、気づいたときには秋兄のミュージックプレイヤーにもそれらの曲が追加されていて、仕事場でよくかけるようになった。そういう経緯」
すべてを話したというのに、翠はまだビクビクしている。そして、プレイリストを物色し始めたから、それを物理的に制した。
「ドライブでこの曲かけるの、好きなんだろ?」
「うん……でも――」
「翠が好きならかければいい。俺も嫌いじゃない」
もうこの話は終わり――そんな意味をこめ、俺は車を発進させた。
すると翠は、手にミュージックプレーヤーを持ったままこちらを向き、
「ツカサはどんな曲が好き? 普段、どんな曲を聴くの?」
興味津々――そんな目を向けられていた。
でも、どんな曲が好き……? 好きな音楽……?
底をさらう勢いで考えてみたところで、何が好き、という確たるものは見つからない。
知っている曲と言ったら、一昨年歌わされた曲や翠が歌った曲くらいなもので、その中からならこれが、と言えるものもなくはないが――
「音楽番組とか、見たりする……?」
正直、音楽番組は見たことがないし、興味を持ってCDを聴くということもしない。
そこからすると、自ずと答えは決まってしまうわけで……。
「翠と付き合うようになるまでは、音楽を聴く習慣がなかった。ピアノを習ってたときは習ってる曲を聴くことはあったし、母さんがショパン好きで家でかけてることがあるからそのあたりは馴染みがあるけど、それ以外はとくには――」
「そっか……。音楽は嫌い?」
「嫌いというほど音楽を知らない。ただ、関心がなかったから聴く機会がなかっただけ」
「じゃ、私が好きな音楽をかけていてもいい?」
「問題ない。むしろ――翠が好むものは知りたいと思う」
翠は面倒くさがることなく教えてくれるだろうか。
そっと翠の顔を盗み見ると、顔が真っ赤になっていて驚く。
俺、そんな赤面させるようなこと言ったか……?
思い返しても心当たりがまるでない。
自分まで赤面してしまいそうな状況に、自ら情報提供することでそれを回避する。
「翠はオルゴールの曲も好きなんだろ? どんなの?」
糸口を差し出せば、翠は水を得た魚のように話し出す。
「あ、あのねっ、クラシックがオルゴールになっているのもあるし、ディズニーの曲がオルゴールになっているのもあるのっ。それから、J-POPがオルゴールアレンジしてあるのもあるのよ! でも一番好きなのはスケーターワルツとかサティのジムノペディ一番とか……あ、でも、美女と野獣のオルゴールバージョンもすてきなのよね……」
「それ全部――」
「え?」
「翠が好きな曲全部、かけて。聴くから」
「っ――うんっ!」
翠は自分の好きな曲リストを片っ端からかけ始めた。
そのどれも耳なじみのいい曲で、不快に感じることはない。
「これは俺も好き」
そう言うと、翠は別にリストを作り始めたようだった。
しばらく無言の状態が続くと、
「あっ、絵っ!?」
急な大声にびっくりする。
「は……? なんの話?」
「え」って「絵」のこと……? それとも「えっ!?」っていう何かに驚いた系?
ちらちらと翠を気にしていると、
「……ツカサが私の好きなものに興味持ってくれるの嬉しくて……だから、私もツカサが好きなものに興味を持ったらツカサも嬉しいのかなって……」
「あぁ、それで『絵』?」
「うん……ほかは弓道しかわからなくて……。あとはコーヒーが好きなことくらいしか知らない気がして……」
それで問題ないっていうか、それほど深みのある人間ではないから、とくに問題ない気がするけど……。
「俺は翠ほど多趣味じゃないから、好きなもの自体が少ない」
「でも、ないわけではないのでしょう?」
「……好きなもの、ね。……翠が知ってるとおり弓道と絵、そのほかにはとくにない」
今考えたところで本当に何も出てこないのだから仕方がない。ただひとつ、これなら話せるんじゃないか、と思うものがひとつ。
「ほかだと動物が好きなことくらいかな?」
翠は身体をこちらに向け、
「どの動物が一番好きとかある……?」
そんなの聞いてどうするつもりなんだか……。
「なくはないけど、それぞれ気に入っているポイントがあるから――」
「それ、全部聞きたいっ!」
あまりの食いつきように驚いたけれど、
「そんなに面白いことじゃないと思うけど?」
「でも、ツカサは好きなのでしょう? なら知りたいっ!」
「……たとえば鳥。種類によって求愛行動がまったく異なる。コウロコフウチョウやゴクラクチョウのオスはメスの前でダンスを見せる。キンカチョウは歌を歌ってメスを呼び寄せる。ニワシドリは立派な巣を作って求愛する。よく知られている鳥だとクジャク。クジャクは尾羽を広げて求愛するんだ」
「それ知ってるっ! 私、初等部のクジャクさんに求愛されたのっ! 最初は威嚇されてるのかと思ったのだけど、飼育小屋の前に掛けられてる説明に求愛行動って書かれていて、びっくりしちゃった」
確かに初等部にクジャクはいるけど……。
「クジャクに求愛されてどうしたの?」
笑いを堪えてたずねると、
「え? ごめんなさいって謝って次の飼育小屋を見に行ったよ?」
そんな話を挟みつつ、延々動物の話をしていた。
翠は実に興味深そうに聞いていたけれど、こんな話で本当に楽しいのだろうかと思いながら話していた。
でも翠は、ずっと俺の方を向いていて、始終楽しそうに話を聞いていた。
確かに、自分が好きだと思うものに興味を持ってもらえるのは嬉しいものかも……。
そんな気持ちを知って、また翠を愛おしく思う。
翠を好きになって、好きになってもらえて、俺はなんて幸せなのか――
俺は「幸せ」を噛み締めながら車を走らせた。
Update:2019/12/02(改稿:2020/06/11)
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