俺の頑固な婚約者 Side 藤宮司 01話
いつもと同じルーティン――
朝起きて洗面を済ませ、軽食を摂ってからトレーニングルームへ。一時間半ほど汗を流したら帰宅してシャワー。軽くカロリー補給をしてコーヒーを飲みながらその日の予定をタスク管理。そうこうしているうちに八時を回り、支度を済ませて別棟にあるミュージックルームへと向かう。
それがこの夏休みの過ごし方だった。
いつものように渡り廊下を渡ると、いつもとは違う光景が待っていた。
警護の人間がいない……?
いつもなら、八時過ぎには警護班のふたりが入り口に待機しているのに、今日はどうして――
もしかしたら、部屋のチェックが終わってないだけかもしれない。
そう思ってミュージックルームのドアを開けたが、そこは無人だった。
俺は真っ直ぐ窓際へ向かい、ピアノに一番近い窓を開け放つ。そして、翠の動向を気にすべくバイタルに視線を落とすと、ひどく低い数値が表示されていた。
今にも七十切りそうなんだけど、なんなのこれ……。
でも、脈が速くなることはなく、脈拍は六十から七十という数値を保っている。
俺はすぐにノートパソコンを起動し、スマホからはチェックできない過去のデータにアクセスした。するとこの一時間の間に、翠の血圧は数回に渡ってアプリのアラートが鳴る直前まで下っていた。
その数は三回。
おそらく一度目は、朝起きて身体を起こしたとき。すぐに眩暈を感じて身体を横にし、再度状況把握のために身体を起こす。
間を置かずに血圧が下降しているのはそんな理由からだろう。なら、時間を置いた今、血圧が低くなっているのは――
「病院へ行くために身体を起こしたから?」
だからミュージックルームに翠がいないのであり、警護班の人間がいないのだろう。
警護班に連絡を入れたのなら俺にも教えてくれれば――否、違うな。今の翠はそこまで頭が回っていない。だとしたら、警護班に連絡を入れたのは唯さんあたりだろう。
翠のバイタルを見ていると、数値はしだいに八十台に安定し始める。
「車で横になったか……」
さて、こういう場合はなんといって連絡をするのが適当なのか。
具合が悪いことはすでにわかっているわけだが、こちらから言ってやるほど自分は優しくない。
電話して、すぐに白状するなら許容範囲内。だが、隠そうとした暁にはどんな言葉を見舞ってやろうかと考える。
「ひとまずは連絡かな……」
翠の番号を呼び出しコールするも、通話はなかなかつながらない。
この間が俺を不安にさせ、不快にさせる。
翠が今、何を考えているのか――それを少し考えるだけで地味に落ち込める。
まずは俺に連絡を入れ忘れたことを後悔するだろう。それだけなら、すぐに応答したはずだ。
応答までに時間がかかるのは、俺にどうやって体調が悪いことを隠そうかと考えるから。
最近は、体調が悪いこともだいぶ話してくれるようになったと思う。ただ、何かスイッチが入ると話してくれなくなる。
そのスイッチがどこら辺についているのか、と考えていると、ようやく通話がつながった。
さて、俺の頑固な婚約者はなんと話し出すのだろう。
『ツカサ……?』
声が、すでに怯えている人間のそれだった。
俺、まだ何も言ってないんだけど……。
「今日は練習しないの?」
自分が今、ミュージックルームにいることを示すように話すと、
『あー……えぇとね、少し疲れちゃったみたいなの。だから、今日は練習をお休みして、ゆっくり過ごそうかな」
「ふーん……」
またずいぶんとグレーゾーンな回答をしてくれる。
疲れていて、練習は休む――嘘はつかれていない。でも、正直に話してくれているわけでもない。
翠は忘れていやしないだろうか。俺がバイタルを見れるようになったことを。
翠が時間になってもミュージックルームに訪れなければ、俺はまず、バイタルを確認する。そんなことも想像できないというのか。
だいたいにして、なんで隠す必要がある? 俺が心配するから、というのが妥当なところだけれど、婚約者なのだから、彼氏なのだから、心配くらいして当然だと思う。……もしくは、怒られるとでも思われているのか?
無音から、翠の緊張だけがひしひしと伝わってくるわけだけど、この緊張は何に対してなのだろう。
このままいても疑問が解消されるわけじゃないし、ちょっと悔しいし、俺はストレートに切り込むことにした。
「体調は?」
さあ、どう答える?
『本当に少し疲れただけだから……。事前に連絡入れられなくてごめんね?』
どうあっても、「疲れた」で通すつもりか?
ただ、まあ嘘をつかなかったことだけは褒めてやる。
俺は湧き上がってくる笑いを殺すことなく、
「翠は本当に嘘がつけない性質なんだな」
翠ははじかれたように返答する。
『私、嘘なんてついてないよっ!?』
「だから、嘘がつけない性質だ、って言った」
グレーゾーンでかわそうだなんて甘い。そんなの俺が見逃すわけがないだろ?
「いつもならもう起きて行動している時間なのに、血圧の上が八十台後半から九十台。夏の今、この数値を維持できる体位は臥位しかない。つまり、身体は起こしていない。もしくは、起こせない状態なんじゃないの?」
翠は黙り込んでしまった。そのあと、息をつくような音が聞こえてきて、
『すごく体調が悪いというわけではないのよ……? でも、身体を起こすのはちょっときつくて……』
ようやく観念したか……。
今は車の中だろうとだいたいの予想はしているが、それでもあえて嘘をつくかつかないかを知りたくて訊く。
「今、家?」
『ううん。病院へ向かう車の中』
割とすぐに白状してくれたことにほっとした。
ここまできたら、もう隠しだてされることはないだろう。
「付き添いは碧さん? 唯さん?」
『唯兄だけど……?』
だと思った……。
仕事的に融通が利くのは唯さんだし、唯さんの上司は秋兄。秋兄に限って、翠の具合が悪いことを看過することはない。
「翠、スマホをスピーカーにして」
『え? うん……』
車内の音が聞こえてきたところで唯さんに声をかけた。
『お? 司っち、おはよう!』
「今から自分も病院へ向かうので、唯さんは翠を送り届けたら帰っていいですよ」
昨日まで連休だったわけだから、この人だって暇ではないはず。
すると、
『リィ、結局ばれちゃったの?』
『だって、すさまじく優秀な分析能力をお持ちなんだもの……』
こんなの普通だ、阿呆。
『なるほど……。でもさ、この子今ひとりで身体起こしてることもできないから、ひとまず司っちが来るまでは付き添ってるよ』
それもわかってる。血圧が七十を切らなかったのはアプリのアラートを鳴らさないためであり、おそらく今の翠は、身体を起こしていたら七十を切る状態なのだろう。その場合、病院へ行けばまず間違いなく点滴だし、待合室に座っていられるわけがないのだから、問答無用で処置室に収容だ。
「……実のところ、ここ一時間の翠のバイタルは履歴をチェックしているので、どんな状態かは粗方把握しています。その状態なら、今日は間違いなく点滴を受けることになるでしょう。それには自分が付き添います」
すぐに了承の返事が得られるものだと思っていた。なのに、聞こえてきたのはまるで想像もしない言葉。
『ちょっとリィ、どうなのよ。このストーカー並みの婚約者。婚約破棄するなら今じゃない? 今でしょ!』
この男――
「唯さんって、本当に余計なことしか言いませんよね。常々……」
『ははっ! 『常々』に情感篭ってんなー! ま、了解了解。司っちがすぐ来てくれんなら、俺も三十分くらいの遅刻で済みそうだし。じゃ、病院でね』
通話を切ってため息ひとつ。
「唯さんって俺の気分を逆撫でする能力だけは、特化して長けてる気がする……」
ま、算段は立った。パソコンをシャットダウンして、警護班に連絡を入れよう。
リダイヤルから高遠さんを呼び出すと、
『はい、高遠です。お車、ご入用ですか?』
その言葉に若干面食らったが、さすがは俺の警護班だ。
今となっては翠の警護班とも連携しているため、次に俺が取る行動を予測しての言葉だろう。
「病院までお願いします」
『かしこまりました。ロータリーにお車回します』
俺は窓を閉め、かばんを持ってミュージックルームをあとにした。
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