ふたりは前足で軽く私の肩を押さえ、心行くまで顔を舐めるのだ。
私は、いつかの運動公園でのことを思い出していた。
前回とは違い、ここは人の住まう家の床。
髪に芝生が付く心配をする必要はない――が、しかし、何事も行き過ぎはいけない。
れーちゃんに助けてもらったときには、二頭のよだれで髪がじっとりと湿っていた。
「これは拭いてどうこうってレベルじゃないわ」
髪を指で摘んだれーちゃんに言われる。
芝生のときとは違い、早々に諦めたようだ。
「柊、こっち。もう、アレだからシャワー浴びてって? 服は無事みたいね……。フェイスタオルはそこ。バスタオルは……あぁ、柊には届かないわね」
れーちゃんはバスルームの脱衣所でテキパキとタオルの用意をしてくれ、ドアをパタンと閉めた。
*****
シャワーを浴びて出てくると、先ほどの廊下に出た。
バスルームはルイ君の部屋の斜向かいにあったことから、廊下の先にある空間は未知の世界だ。
廊下と向こうの部屋を隔てるドアはきちんと閉まっておらず、ドアノブに手をかけずとも扉を押せば開く状態。
ゆっくりとドアを押し、のぞきこむように向こうをうかがい見ると、そこはLDKとなっていた。
ドアの右側にL字型キッチンがあり、その並びにダイニングテーブルがある。
ドアの目の前にはリビングのソファーがあり、手前のソファーにはルイ君の後ろ姿。
ダイニングとリビングを隔てるように置いてあるソファーには、聖とれーちゃんが座っていた。
私はノートパソコンに向かうルイ君をスルーしてれーちゃんのもとへと向い、
「れ、れーちゃん、お風呂ありがとう」
お風呂上りのホカホカの状態で言う。
友達の家に遊びに行くことはあっても、そうそうバスルームを借りることはない。
だからか、私は変な緊張をまとっていた。
「あら……柊って髪の毛濡れるとストレートなのね?」
「うん」
「なんか新鮮だわ」
れーちゃんにじっと見つめられると、ちょっと困る。
二卵性と言えど、パーツの共通項が多すぎる。目が、ルイ君と同じなのだ。
さっきのことを思い出すだけで頭からシュワシュワと湯気がたちそうだ。
「柊」って――初めて名前を呼ばれた。
シャワーを浴びている間中、ルイ君の自分を呼ぶ声が頭から離れなくて、気がついたら二度もシャンプーしていた。
今、顔が赤くてもお風呂上りだから、という立派な口実がある。
そう思いながら、首にかけたバスタオルで髪を、ポンポン、と叩きながら拭いていた。
単調な動作は気持ちを落ち着けるのに有効らしい。
ほっと息をついたとき――。
突如、後ろからバスタオルを引張られた。
体のバランスを崩すと、大きな手に背中を支えられる。
びっくりしていると、顔の上に影が差した。
「こっちに来い」
ルイ君は私の両脇に手を入れ、一歩で自分の座っていた場所まで私を運んだ。
わけがわからないままに、ひょいっ、と移動させられたのだ。
後ろから、ゴォォォ、と音が鳴り出し、驚き振り返ると、ルイ君がドライヤーを持っていた。
目で前を向くように促され、私が前を向くと、ルイ君は慣れた手つきで髪を乾かし始めた。
呆気にとられていると、れーちゃんがケタケタと笑い出す。
「ルイ、完全にシャンプーモードね」
「似たようなもんだろ?」
「ふたりとも……。柊は一応人間なんだけど」
私以外の三人の会話はぞんがいひどい。
ルイ君はビリーやキャリーをシャンプーして乾かすのとなんら変わらないと言ってるわけで……。
「あのですね、私、一応じゃなくてれっきとした人間なんですけど……」
声は聞こえたはずだけど、耳を貸してはもらえない。
ただひとり、ルイ君が答えてくれた。
これが、答えてくれたと言っていいのなら――。
「何か聞こえたか?」
ルイ君は私にではなく、少し離れた場所にいるれーちゃんと聖に訊いた。
ふたりはにこりと笑い、
「ドライヤーの音がうるさくて」
と、声を揃える。
本当にひどい……。
髪を乾かし終わると、時刻は六時を回っていた。
聖の、そろそろ帰るか、という仕切りでれーちゃんちをあとにした。
エレベーターを降りると、ルイ君とれーちゃんはエプロンに手を伸ばし、これからカフェを手伝うと言う。
私たちはそこで別れた。
カウンターの前を歩きながら店内の様子を見ると、昼間とはまた違った雰囲気でほどよくお客さんが入っていた。
「おや、帰るのかい?」
「はい、長らくお邪魔しました」
聖がそつなく答える。
私はカフェで寝てしまったこともあり、少々肩身の狭いことになっていた。
「す、スミマセン。お店で寝てしまって……」
「気にしなくていいよ」
マスターは人好きのする顔で穏やかに笑う。
「お客さんはなんだか喜んでたし、僕も珍しいものを見れたからね」
「珍しいもの、ですか?」
「うん。柊ちゃんは魔法のキャンディか何か持ってそうだね?」
マスターが何を言ってるのかわからず、尋ねようとしたら、
「すみませーん」
と、お客さんから声がかかった。
「はい、ただいま。……じゃ、またいつでも遊びに来てね」
そう言われ、私たちはカフェを出た。
*****
梅は満開、桃が咲き始めたとはいえど三月頭。
陽がかげればまだ寒い。
ビル風が吹きすさぶ路地を歩きながら聖に話しかける。
「私、幻聴を聞いたみたい」
「は……? 夢、じゃなくて?」
あぁ、と思う。
夢なのかもしれない。
「で、どんな幻聴?」
訊かれたから答えた。
「ルイ君に“柊”って呼ばれたんだけど、現実味がなくて」
「うん、それは幻聴と思っても仕方がないかな」
あのときの一度しか呼ばれなかった。
シャワーを浴びて出てきたらいつもと何も変わらなかった。
相変わらず視線で人を動かすし、「おい」とかそんなふうにしか声をかけられなかった。
「やっぱ、夢……かなぁ?」
「……添い寝してるところは見たけどね」
「あわ、あわわわわっっっ」
私は一瞬にして顔に熱を持ち、意味もなく聖をポカスカと殴った。
「痛いってばっ」
言いながら、聖は私の手を受け止める。
最終的には長いコンパスを駆使して、攻撃が及ばないところまで逃げてしまう。
「でもさ、やらしい感じじゃなくて、小さい子に添い寝してる人っぽかったよ」
それもどうかと思う。
何を言われても嬉しくない私は、聖を追いかけ走り出していた。
*****
休み明けの学校。
音楽室のある五階から下りてくると、人がごった返す階段にルイ君とれーちゃんを見つけた。
一瞬ためらい、次の瞬間にはふたりに駆け寄る。
「れーちゃん、ルイ君、おっはよー!」
私はいつもと同じ挨拶をし、いつもと同じようにルイ君の目の前に立つ。
「ルイ君、好きです!」
いつもと何も変わらないはずだった。
けれど、返されたのは呆れ顔ではなかった。
無表情が苦笑に変わる。
苦笑も微笑寄りの――。
固まってる間に私を追い抜き、ルイ君は歩みを進める。
れーちゃんはその場にいてくれたけど、いつもの調子で私を促した。
「ほら、立ち止まってると人の邪魔よ」
「あ、うん」
くるりと進行方向を変え歩き出す。
れーちゃんの後ろ姿を追いかけ訊いてみた。
「ねぇ、今、ルイ君笑ってた?」
「さぁ、どうだったかしらね」
教室に入り席に着くと、れーちゃんはどこかご機嫌な様子でかばんの中身を机に移し始めた。
*****
校内は、バレンタインからこちら、常に浮き足立った状態。
そんな中行われた期末試験の平均点はどれも低く、私はちょっと得をした人になっていた。
いつも通りに勉強していて、全科目平均点以上だったのだ。
パパもママも成績に関してうるさいほうじゃない。
だからこそ、自分の中でここより下はダメ……という基準が必要になる。
基準を設けなければ、私は堕落する一方だっただろう。
その基準が“平均点”だった。
人は“自由”を欲するけれど、その中で自分が自分を律するのは意外と難しいものだ。
両親は、私たちに音楽を強要したことがなければ、練習時間を強要したこともない。
上手になりたければ練習するしかないのよ、と。
それしか言わなかった。
勉強もそれと同じ。
やらなくても構わない。
ただ、やらないと点数はとれないし、成績にも響くわよ? とその程度。
きっと、ひとりだったら“現状”は違ったと思う。
聖と一緒だったから“今”がある。
何を基準にするかは聖と決めた。
歌やピアノの練習をいつやるのかも聖と決めた。
いつだってふたりで相談しながら決めてきたのだ。
でも、分岐点は近い。
そろそろ、ひとりであれこれ決めていかなくちゃいけなくなる。
そんな日が近づいてくるのをひしひしと感じていた。
Update:2011/12(改稿:2013/08/18)
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