声だけで曲が紡がれる。無伴奏というよりは、歌声自体が伴奏を担っている曲だった。
「涙、拭こうか?」
聞き慣れた声に振り返ると、翠がボロボロと涙を零した状態でモニターを見上げていた。
翠自身は朝陽に言われたことで自分が泣いていることに気づいたようだ。
「人目憚らず、まぁ、そんなにボロボロと……」
朝陽が翠の頭に手を乗せる。
やめろ……。
途端に腹立たしさを感じ、この感情をコントロールできないものかと考える。
朝陽に下心があるわけじゃない。
わかっていても、ほかの男が翠に触れることを許容できそうにない。
「翠、お茶」
朝陽の反対側に立つと、翠はペットボトルを受け取りまた涙を零した。
ちょっと待て……。
翠の涙スイッチはどの辺についているっ!?
翠はハンカチで涙を拭いては朝陽の方を向く。
「朝陽先輩……ハンカチ、洗って返しますね」
「気にしなくていいよ」
朝陽は早々にその場を立ち去った。
「ほかの男の前で泣くなよな……」
その発言に自分が驚く。
翠は、「何か言った?」とでも言うかのように顔を覗き込むが……。
ばかやろう……。素直に言いなおしてたまるか――
少し自分を立て直したいと思った。
あまりに心も思考も乱れていて、このままでは自分が自分の足を掬いかねない。それだけはごめん被る。
結果、翠のメイク直しを口実に側を離れた。
離れる直前、視界の端に警備員藤守武明を捉える。
視線を送ると、「承知」の意味で一度頷いた。
別に側を離れるからといって完全に目を離すつもりはない。が、自分以外に誰かがついていてくれるのは正直助かる。
この中ですべてをパーフェクトにこなすのは至難の業だ。
しかも、警備員というのはクラスメイトや実行委員とは違い、一定の距離を保った場所にいる。
今の俺にはその距離がありがたく思えた。
翠に、自分以外の男が必要以上に近づくのを許せそうにはない――
放送委員からの確認事項に目を通し終わり、翠に視線を戻すと意外な人物がいた。
飛翔に飛竜。それから、飛翔の後ろにいる女は
三人は中等部の生徒会メンバーだ。
移動しようと思った矢先、スクエアステージにいる優太から通信が入った。
それに対応してまた少し時間がかかった。
何もかも自分の目の届くところに、と思う。
紅葉祭の進行にしても把握できていないものがあるのは気持ち悪い。それが翠に関わるものとなると、気持ち悪いどころかたまらなく苛立たしくなる始末だ。
この気持ちが恋愛感情の一部というのなら、俺は相当厄介な感情を知ったことになる。
休憩時間の終わりを告げるブザーが鳴ると、翠の身体がビクリ、と動いた。
そして瞬時に飛翔が動く。
どうやら、ペットボトルを落としそうになったのを間一髪で飛翔が受け止めたようだ。
「……あんた、マジで生徒会役員?」
飛翔は翠を年上として扱うつもりがないのだろう。
こいつは学年や年に関わらず、能力のみで自分の上と下をきっかりと分ける性質で、性格に多少癖がある。
「飛翔、あまりいびるなよ」
「つ、ツカサっ」
飛翔と翠が驚いた顔を俺に向ける。
翠の頭に手を置くと、自分の中に渦巻いていた黒い感情が一瞬にしてなくなった。
翠に触れて自分が落ち着くって何――
たかだかこんな動作で「自分のもの」と誇示しているつもりなのか?
「お久しぶりです」
飛翔に言われて適当に頷く。
飛翔が翠に絡まなければそれでいい。
まだ飛翔の手にあるペットボトルに手を伸ばし、それを翠の手に戻した。
なんていうか、ただ、飛翔の手から翠の手に戻るのが嫌だっただけ。
俺、どれだけ独占欲強いんだか……。
ほとほと先が思いやられる。
「ありがとう。……ひ、飛翔くんも、あり、がと……」
翠のその対応にほっとする自分はどうかしていると思う。
翠の中で飛翔は「苦手」と認識されたのだろう。
声が上ずりまともに対応できていない。
さらには若干の後ずさりが加わり、今は俺の胸に翠の肩甲骨が当たっている。
「おっ! 飛翔じゃん! 竜も
海斗、無駄にテンション高すぎ……。
そう思っていると、海斗は飛翔と翠の間に割り込んだ。
「翠葉、これ、今は生徒会長なんてやってるけど、うちに入ってきたら会計部隊決定要員。司のミニチュアくらいに思っとけばいいよ」
そう言われてみれば、来年は嫌でも生徒会で一緒に作業する羽目になるのか。
――そのとき、翠の隣には誰がいる?
「海斗くん……。ツカサのほうが小さいからミニチュアには見えないよ」
翠の一言で現実に引き戻される。
っていうか、そこ……真面目に答えるところじゃないだろ。
「背が低くて悪かったな……」
「っ……!? ツカサ、ごめんっ。そういう意味じゃなくて、飛翔くんの背が高いって話だからねっ!? だって、ほらっ、ツカサは私よりも二十センチも高いっ」
「……そこまで必死になるな阿呆」
背の高さなんて別に気にしてない。一七八もあれば十分だ。
「……先輩、これ、本当に使えるんですか?」
飛翔は心底訝しげな目で翠を見る。
きっと、翠が飛翔の恋愛対象になることはないだろう。そして、翠の恋愛対象に飛翔が挙がることもない。
そんな勝手な判断をすれば警戒が少し緩み、喉の奥から笑いが零れる。
「飛翔、この紅葉祭の会計総元締めを誰だと思ってる?」
「……藤宮先輩以外にいるわけないでしょう」
なんの疑いも抱かないその答えに、早く違うということを教えてやりたくなる。
「今回のこれは翠が総元締めだ。しかも、プラマイゼロを狙ってる」
飛翔が目を剥けば、翠はますますもって苦手意識を強めたようで、背中がぴたりと自分にくっついた。
そんなことすらおかしく、俺は翠の頭を二度軽く叩く。
周りには海斗も佐野もいるから翠を任せて大丈夫だろう。
そんな確認を済ませてから、自分は歌の待機に入ることにした。
「じゃ、俺は待機に入るから」
昇降機にたどり着き翠のいる場所を振り向いたとき、目を剥くのは俺の番だった。
飛翔何やってっ――!?
翠が飛翔に腕を引かれる瞬間だった。
すぐに海斗が翠を回収したものの、翠の状態が気になって仕方ない。
待機中のため、通信を使うこともできない。
読唇できないかと試みたが、人の行き交いが多い奈落では無理だった。
飛翔を苦手だと思っていることを喜んでいる場合ではなかった。
少しして視界が開けると、翠は飛翔をじっと見ていた。
フルスキャン中……? ……まだ余裕はあるのか?
少なくとも、男性恐怖症が出ているようには見えない。
それなら、いい……。
「昇降機上げますっ」
実行委員から声がかかり、昇降機が上昇を始めた。
今歌っている曲――音速ラインの「半分花」。
俺はこの曲が少し好きだ。
自分にも当てはまるものがあるし、翠に当てはまるものもある。
秋兄や兄さん、姉さんを羨む前に自分にできることがあるだろう。
翠だって、ほかの人間を羨まずとも自分にしかできないことがあるはずだ。
翠の歩く道は平坦とはいいがたく、俺が歩く道は舗装されていて石ころすら落ちていない。
そんなふたつの道が重なれば、少なくとも互いにメリットがあるんじゃないかと思えた。
でこぼこ道の翠は少し歩きやすくなり、俺は知らなかった障害物を知ることができる。
そんな少しの変化を楽しみながら歩けるような――そんな気がしたんだ。
目指す場所がゴールとは限らない。
きっと、ゴールなどあってないようなもの。
だから、常に明日を目指して歩みを進められればそれでいいと思う。
そんな日常を重ねていけたなら、いつか、その日々を「宝物」と呼べる日がくるかもしれない。
Update:2011/10/16 改稿:2017/07/15
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