リップクリームを塗られたばかりの艶やかな唇と共にこちらを向く。
一瞬目が合ったものの、すぐに視線は逸らされた。
……故意的?
「何」
「なんでもない」
「なんでもないっていうのは、そう見える顔と声を出せるようになってから言え」
「……じゃ、何かあるけど言わないだけ」
「ふーん……じゃ、あとで容赦なく問い詰めようか?」
「知りたい」という気持ちを抑えられそうにない。
「訊かれても答えられないものっ」
「なんで……」
思わぬ答えに内心驚く。
「自分が何を考えているのかよくわからないことだってあるでしょうっ!? 説明しようにも言葉が見つからないのっ」
なんだ、そんなこと……。
俺は少しの余裕を取り戻した。
「安心しろ。翠の支離滅裂な思考回路には耐性がある」
あまり焦らせるな。悩み自体を話してもらえないのかと思った。
平行線をたどりそうになると高崎が間に入る。
「じゃ、翠葉ちゃんは昇降機に上がろうか」
翠は昇降機に乗り、用意された椅子に座った。
安全確認が済むと昇降機は徐々に上がり始める。
昇降機が上がりきる寸前、「ツカサっ」と翠の声がインカムから聞こえてきた。
声から切羽詰まった感じが伝わる。
「翠?」
『お願いっ、十、数えて欲しい』
モニターを見れば、不安そうな顔をしている翠の姿が映る。
ステージにひとりというのはこれが初めてか?
本人も途中でそのことに気づき心細くなったのだろう。
「わかった」
これで感情の切り替えができるのならお安いご用だ。
数を数え終わり翠に声をかけると、
『……大丈夫。ありがとう』
通信はそこで途絶えた。
今、翠のインカムにはモニター音が流れているだろう。
前奏が始まると、表情が少しずつ穏やかなものへと変化していく。
ステージに上がったときの不安そうな表情が徐々に薄れていった。
それを見て思う。翠にとって音楽は心の支えにもなるものなんだな、と。
俺にとっての弓道とは違う気がする。
まず第一に、弓道では感情を解放することはない。どちらかというならば、感情のコントロールをする側の要素が強い。
己を律するものであり、表現する、という行為からは逸脱している。
その点からして、翠の音楽とは違う気がした。
翠の歌う「小さな星」。この歌はちょっとした毒だ。
これだってしょせんは人が作った歌で、翠には縁遠い恋愛の歌詞。
翠の想いが重なる部分など微塵もないだろう。
そうとわかっていても、こんなふうに想われたいと思う自分がいる。
おまえは誰に側にいてほしいんだ、と問い詰めたくなる。
独占欲というのは相当厄介だ。
電源を根源から遮断して、会場に流れる歌も映像も、照明すらをも落としてしまいたい。
ほかの男に聞かせたくない、見せたくない。
こんなことを思う俺はかなり危険な域にいる――
昇降機が下りてくると翠が泣いていた。
咽るくらいに泣いてるって何……。
完全に静止するのを待たずに翠に近寄る。
「何、泣いて――」
「違……飲んで、咽――」
翠は目の前でゲホゲホと咳き込む。
手にしていたペットボトルを見て意味を解する。
「ドジ……」
真面目にそう思った。
真剣に心配した俺がバカみたいだ。
背中を軽く叩きさすっていると、翠は何度か激しく咳き込み涙を浮かべつつも少し落ち着いたようだった。
そこへ茜先輩が来て翠の顔を覗き込む。
「感情移入しちゃった?」
翠の身体がピタリと止まる。
「感情……移入?」
「あれ? 違った? なんだか、歌を聴いていてそんな気がしたの。翠葉ちゃん、誰か特定の人に側にいてほしいのかな、って」
誰か、特定の、人……? そんな人間が翠に?
……秋兄か? それとも違う誰か……?
「さ、涙拭いてステージに上がろう?」
一度はおさまったはずの黒い感情が再度心に湧き返す。
間違いなく、扱いに困る「嫉妬」という感情の類――
茜先輩が離れたことを確認してから「大丈夫か?」と声をかけたものの、本当は自分に「大丈夫か?」と言いたかった。
けど、そんなことをしたところで「大丈夫」にはなり得ない。だから、翠の目に映る自分を見ることで落ち着こうとした。
今、翠の目の前にいるのは自分で、俺以外の男は映っていない。
そんなことで自分をごまかそうとしていただなんて、今思えば安易な考えにもほどがある。
「……大丈夫じゃないけど、大丈夫なふりをさせてほしい」
俺は嘘を含まない答えに安堵した。
「……なら、笑え」
ほかの男を想って歌ったなんて、俺が錯覚しなくて済むように。今すぐ、笑え――
「俺の歌い出しの歌詞は知ってるよな? 泣いていた人間が笑ってないと困る」
翠はきょとんとした顔で俺を見上げ、数拍おいたあと、クスクスと笑いだした。
そこまで笑うようなことを言った覚えはないが、笑っているほうがいい。
「笑えよ……」
「ん、努力する……」
俺たちのやり取りを見ていたかのようなタイミングで前奏が始まり、俺が歌い始めると翠は目を閉じた。
きっと、今こいつは何を考えるでもなく、音だけに集中しているだろう。
その顔は、ほんの少し笑みを浮かべた穏やかなもので、ずっと見ていたくなるような表情だった。
歌にまで嫉妬する自分をどうにかしてほしい。
本当の「想い」をこめるかのように歌う翠を見るのは途中から苦痛でしかなかった。
その胸に誰を想っているのか、と問いただしたくなる。
翠が側にいたいと願うのは誰なのか――
歌い終えた俺は心のままに尋ねていた。まるで問い詰めるような訊き方で。
「何を考えていた?」
翠はその言葉に驚き、
「っ!? 私、何かミスしたっ!?」
どうしていつも会話の方向がずれるのだろう。
普通の意味に取れ、普通の意味に……。
「そうじゃない――ただ……」
――俺、今何を言おうとした?
はっと我に返り、「なんでもない」と補足する。
「……ツカサらしくないね?」
「翠こそ……」
「私は――私はただ、この歌のとおりならいいのに、ってそう思っただけ。理想だな、って……。ただ、それだけだよ」
「あぁ、そう。じゃ、次もがんばって」
俺はそんな言葉しか口にできず、ステージ中央に翠を残し、ひとり左昇降機から奈落へ降りた。
なんとなく得た確信……。
翠には好きな男がいるのかもしれない。
そうじゃなかったら、あんな言葉は出てこないだろう。
もう遅いのか……? 今からでは遅いのか?
翠の好きな男って誰だ……。
少し前までなら限られた男しか周りにいなかった。
でも、紅葉祭の準備が始まってから、吹奏楽部の人間や軽音部、フォークソング部、各委員会と関わる人間が異様に増えた。
その中の誰かなのか、それとも秋兄なのか――
自分という選択肢がないだけにイラつきは増すばかりだ。
もう少し距離を取っていれば良かったのか……。それとも、とっとと「好きだ」と伝えていれば良かったのか。
なんにせよ、「保険屋」になんてなるんじゃなかった……。
一番近くにいられるポジションだったらなんでもかまわなかったわけだが、今はそれが障害になっていることも事実。
翠……安心するな。無防備になるな。
少しは男として俺を警戒しろ。ひとりの男として意識しろ。
今までとは正反対の感情に自分が支配され、さらにはその感情を持て余し、どう対処したらいいのかがまるでわからなかった――
Update:2011/10/17 改稿:2017/07/15
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