光のもとで

第14章 三叉路 38話

 図書棟を出ると雨が降っていた。
 雨というよりも、薄っすらと霧がかかっているような感じ。
 傘を差しても差さなくても髪が濡れてしまいそうな、そんな雨だった。
「微妙な降り方だね」
「はい」
「一、二年棟の方に車を回すから、昇降口で待ってて?」
「え? マンションまで歩いて帰ります」
「どうして?」
 どうして……?
「はい、言葉に詰まった翠葉ちゃんの負け。じゃ、昇降口でね」
 秋斗さんは私の言葉を待たずに駐車場へ向かった。
 私は馴染みあるテラスではなく一階へ下り外周廊下を歩いて一、二年棟へ向かう。
 その歩調は速くも遅くもない。
 ところどころ開け放たれている桜林館のドアからは、中の様子がうかがえる。
 その中にサザナミくんの姿を見つけ、すぐに理美ちゃんと美乃里ちゃんの姿も見つけることができた。
 突如聞こえてきた言い合いに耳を傾ける。
「んの猿っ! 待ちやがれっ」
「やーだよー! ボール返して欲しかったらここまでおいでー! おーにさんこーちら、手の鳴ーるほーへ!」
「っつか、先輩受験勉強いいんすかっ!?」
「受験生にはストレス発散が必要なんですー」
 桜林館の隅で、ストレスなどまったく溜まっていなさそうな久先輩と数人の男子がボール争奪線を繰り広げていた。
 部活荒しで有名ではあったけれど、実際にそれを目にしたのは初めてのこと。
 うっかり足を止めてその光景を見ていると、
「あ、翠葉ちゃん」
 私に気づいた久先輩は動きをピタリと止め、その拍子に取り押さえられる。それはもう、「捕獲」という言葉がぴったりな状況。
 なのに、ボールはまだその手にある。
「今帰り?」
「はい」
「そっか、気をつけてね」
「はい……先輩も」
「うん、ボールは必ず死守ってことで――」
 完全に捕まっていたはずなのに、久先輩はするりと三人の腕から逃れ走り去っていった。
 ……あれは猿と言われても珍獣と言われても仕方がない気がする。
 そんなことを思いながら、私は再び足を踏み出した。

 図書棟へ行くときほど足取りは重くない。
 昇降口で靴に履き替え外へ出ると、見慣れた車が停まっていた。
 傘は差さず車まで小走りで近づくと、ドアは中から開けられた。
「お邪魔します……」
「どうぞ」
 乗ってすぐにシートベルトを締めると、車は緩やかに発進する。
 桜並木を通り高校門から公道へ向かう途中、下校中の生徒がポツポツといた。
 女の子は傘を差している人が多いけれど、男子は差していない人のほうが多い。
 車のフロントウィンドウには、霧吹きをかけられたような細かな水滴が張り付く。
 視界が悪くなる前にワイパーがそれらを集め両脇へと寄せると、寄せられた雨水はツー、と筋になって流れた。
 その雨水の通り道に粒子は残らない。
「何を見ているの?」
「あ……ワイパーに寄せられた雨水を見ていました」
「雨水?」
「はい。……車、とてもきれいにされてるんですね」
「え?」
「だって、雨水が流れたところに砂埃が残らないから……」
 今はマンションの立体駐車場に置いてあるからそんなこともないけれど、通常、外に車が置いてあると砂や埃などが付着する。
 それらは雨が降るとザラザラとした粒子となり存在を誇示するのだ。
「相変わらず観察するのが好きなんだね」
 言われて少し恥ずかしくなる。
「恥ずかしいことなんだけど、車の手入れは自分がやってるわけじゃないんだよね。乗って帰ってくると、コンシェルジュが手入れをしてくれる。それだけなんだ」
 珍しく、秋斗さんが肩を竦めて見せた。
「あの、コンシェルジュの方たちはマンションの車全部お手入れされるんですか?」
 秋斗さんは笑いながら、
「さすがにそれはないよ。藤宮の人間の車だけ。ま、洗車代行は予約すればやってもらえるけどね」
 改めてウィステリアヴィレッジの至れり尽くせりなサービスに感嘆する。
 マンション敷地内に車が入ったとき、携帯電話が震えた。
 秋斗さんに断わりをいれてから通話に応じると、
『リィー? 今どこ?』
「今、秋斗さんと一緒にマンションへ帰ってきたところ」
『あぁ、話に行ったの?』
「うん。でも、まだもう少し時間がかかるの」
『それっていうのはうちで話すってこと?』
「ううん、秋斗さんのおうちにお邪魔することになった。お母さんは帰ってきてる?」
『うん、帰ってきた。で、リィの帰りが遅いって心配してるから電話したんだけどさ』
「代わってもらってもいい?」
『了解、ちょっと待って』
 お母さんが電話に出るまで少し時間があった。
『もしもし?』
「あ、お母さん? 連絡してなくてごめんね。今秋斗さんと一緒にいるの」
『唯から聞いたわ。夕飯の時間は気にせず、ちゃんと話していらっしゃい』
「……お母さん?」
『ん?』
 まだ記憶が戻ったことは話していない。でも、なんだか知っているような気がする。
『あぁ、そうだわ。話が終わったあと、秋斗くんに予定がないようなら一緒に下りてらっしゃい。夕飯は多めに作っておくからあとでふたりで食べるといいわ』
「ありがとう。そう伝えるね」
『しっかりね』
「はい」
 携帯を切ったあともなんだか不思議な感じがした。
「どうかした?」
「いえ……。あの、お母さんにはまだ記憶が戻ったことを話していないんですけど……でも、なんだか気づいているような気がして……。ちゃんと話していらっしゃいって、しっかりね、って言われちゃいました」
 秋斗さんはクスクスと笑う。
「翠葉ちゃんは必死に隠していたつもりなんだろうね」
「え……?」
「でも、意外と周りにはばれていたりするものなんじゃないかな? ほら、俺も気づいていたし」
 秋斗さんはいたずらっぽく笑みを浮かべると、言葉を付け足した。
「ほかに誰が気づいていたかね?」
 言われてドキリとする。
 ほかに、誰……。
 唯兄は気づいているような気がしていた。秋斗さんが気づいていたのなら、もしかしたらツカサも……?

 私たちは車を降りるとすぐに秋斗さんの家へと移動した。
 秋斗さんの家は湊先生のおうちと同じ間取り。
 廊下を真っ直ぐ行くと右側にキッチンとリビングダイニングがあり、左側はゲストルームとは違い、壁で部屋が区切られていて寝室になっている。
 前に来たときと何も変わらない部屋がそこにはあった。
 かばんを置くとキッチンへ案内され、
「ティーポットと電気ケトル、それからハーブティーはパックのものなら各種取り揃えてあります」
 秋斗さんはにこりと笑って必要なものを目の前に並べてくれた。
 私はそれらを使って図書棟で淹れ損ねたお茶を淹れる。
 カップにお茶を注ぎ終わるとタイミングよく秋斗さんが現れ、
「俺が持っていくよ」
 秋斗さんは有無を言わさずトレイを手に持ちキッチンを出て行った。
 リビングのローテブルにトレイを置くと、話をする準備が整う。
 さっきと違うことといえば、スツールではなくラグに座っていること。
 それから、秋斗さんが正面ではなく私の右側に座っていること。
「前にもこうやって隣に並んで話したことがあったよね」
「はい」
 記憶の取り出しはとてもスムーズだ。
 秋斗さんが言う「前」は、幸倉のおうちでのことだと思う。
 あのときは秋斗さんの女性遍歴を聞いたのだ。
 話す内容は違う。それでも、あのときと同じようにどこか緊張した空気があり、話す内容はあまり明るい話題ではない。
「俺、今少し動揺してるんだけど、聞いてもらえる?」
「え……?」
 隣を見ると、秋斗さんは困った顔をしていた。
「キッチンは良かったんだけどな……。ここ、暗い、よね?」
 最後は一言一言区切って訊かれた。
 言われてみれば、キッチンは明かりが点いたままで明るい。そして、その前にあるダイニングにはダクトレールに吊るされたペンダントライトが点いている。
 けれど、私たちのいるリビングには明かりというものが付いていない。
 窓からの採光を望める時間帯はもう過ぎてしまった。
「暗い、ですね?」
 答えたあとに天井を見上げてみたけれど、通常あるべきものがそこにはなかった。
 つまり、シーリングライトやシャンデリア、照明と呼べるものが付いていないのだ。
 でも、私は知っている。
 大きな照明がついていない代わりに、この部屋にはところどころに間接照明が備わっていることを。
「まったくもってやましい気持ちがあるわけじゃないんだけど、夜気が気になるからカーテン閉めていいかな? それと、雰囲気作りとかそういうわけではなく、照明、点けてもいい?」
 私は思いもよらない言葉たちに一瞬唖然とし、次の瞬間には声を立てて笑った。
「翠葉ちゃん、それはひどい……。俺、かなり真面目に悩んでたんだけど?」
 苦笑いを浮かべる秋斗さんには申し訳ないけれど、本当に真面目に悩んでいたのがわかるだけに、どうしても笑いが止まらなかった。
 秋斗さんは優しい……。とてもとても優しい人だ。
 今まであったことをすべて考慮しての行動と言葉だった。
 今、ここにいるのは私が好きになった秋斗さんだと思えた。



Update:2012/03/13  改稿:2017/07/17



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