『どう? 大丈夫?』
久先輩の声が聞こえてきた。
携帯を持っているのは翠だけど、あまりにも近くにいるせいで、ふたりの会話は意識せずともすべて聞き取れた。
「久先輩、今はどこに……?」
『ん? マンションの下。っていうか、若槻さんたちと一緒にいるよ。車ん中』
「あの、教えていただきたいことがあって……」
『うん、俺に答えられることならなんでも訊いて?』
「……あの、仲直りってどうしたらいいんですか?」
翠の質問はストレートだった。
この直球具合が翠クオリティだと思う。
携帯からは、
『……はい? もう一度お願い』
との要求。
訊きなおしたところで翠の質問は質も球種も変わらない。
「あの、仲直りってどうしたらいいんですか?」
『……若槻さん、聞こえました? そちらのお兄さんも』
『聞こえた聞こえた。わが妹、リィらしい質問が……。あんちゃん、どうよ』
『どうも何も……。翠葉、話は済んだのか?』
結局のところ、こちら側だけではなく、久先輩側にもしっかりと会話が筒抜けなわけで……。
俺は頭を抱えたい衝動に駆られる。
そんな俺には気づかず、翠は話を続ける。
「……たぶん? 私は言いたいことを怒鳴ったらすっきりしちゃったけど……」
言いながら、視線は俺に向けられた。
「ツカサは?」と目で訊かれ、俺は翠の睫に残る涙を見ながら、半ば強がりの返事をした。
『じゃぁさ、握手して仲直りってことにすればいいと思うよ』
……それが一般的なのか? それが正しい答えなのか?
疑問に思ったのは俺だけらしい。
翠はあっさりと納得した。
「ツカサ、握手したら仲直りみたい」
目が「仲直りしよう」と言っている。
訴えかけ方がハナと酷似していた。
こんなことで済むのなら、と俺は右手を翠の前に差し出す。
翠は携帯を左手に持ち直して右手を重ねた。
互いの力が作用し、手が重なるだけではなく「つながる」という形に変化する。
「仲直り完了?」
「……そうなんじゃないの?」
ぶっきらぼうにしか答えられないくらい、心中は複雑だった。
俺はこんなにも恥ずかしいと感じているのに、翠の手がいつもどおり冷たいのとか、手をつなぐとほっとした表情を見せるのとか、目の前にいる翠があまりにもいつもと変わらなくて、変わらなさすぎて――
『無事仲直りおめでとう』
携帯から先輩の声が割り込んだ。
翠は「ありがとうございます」と答えたくせに首を傾げてどこか疑問形。
明らかに語尾が上がっていたにも関わらず、先輩は気にせず話を続ける。
『今ちょうど六時回ったところ。司、学校行くでしょ?』
「……行きます」
学校を休むつもりはなかった。
『じゃぁさ、もう少しゆっくりしていけば? 駅からならバスの始発にも乗れるし、七時四十分までに出れば間に合うから。あぁ、俺のかばんだけ今持ってきてくれる?』
「わかりました」
スピーカーホンにしてもいないのに、三人の会話が成り立つ状況。
そのくらい、翠が俺の近くにいた。
「それなら、私が持って下ります」
『そう? じゃ、お願い』
通話を切ると、
「久先輩のかばんってどれ?」
「ダイニングの脇に置いてある」
翠は首をめぐらせダイニングに目をやる。
廊下近くにあるかばんを確認すると、次の行動へ移した。
俺の方を向き足を崩して座っていた翠は膝立ちになる。
あぁ、このまま立ったら翠はここからいなくなる。
ほぼ反射的に手を伸ばし、細い手首を捕らえる。
まだ、ここにいてほしくて。
そんな思いだって口にはできないし、察してももらえない。
「急に立ち上がってないよ?」
抗議を受けて、「違う」と返す。
そこまで言ったくせに、それ以上の本心を口にすることはできなくて、俺は自分のかばんを引き寄せ中から財布を取り出した。
「シャワー浴びてくるから朝食買って来てほしい」
それはここへ戻ってきてほしいという意思表示。
けれど、俺の思惑は翠に伝わらない。
「え? あ、うん」
なんとも覚束ない、ふわふわとした声が返される。
疑問を持たれる前に行動に移そうと思った。
先に立ち上がって翠を引き上げ、手首を掴んだまま先輩のかばんまで連れて行く。
「先輩のかばんはこれ」
翠は並んで置いてある自分のかばんも当然のように手に持つ。
「当然」であることが面白くない。
自然と眉間に力が入る。
「なんで翠のかばんも?」
理由など知っていて訊く。
「当然」のように答えられるのが嫌で、先手を打つために。
「朝食買ったら戻ってくるだろ?」
翠はやっと意味を解したようだ。
戸惑っているのは一目瞭然。
けど俺は、なぜ戸惑うのか、とでもいうように、こっちが「当然」だと言わんばかりに尋ねる。
「……何?」
「な、なんでもない……あ、私もっ、何か飲み物を買おうと思って……」
引っ掛けておいてなんだけど、翠は騙されやすいと思う。
「なら、財布だけ持っていけば? そのほうが荷物が少なくて合理的だと思うけど」
合理的な意見を正論のように突きつけると、ほぼ俺の思惑どおりになった。
俺は自分の財布を翠に持たせ、かばんを人質に翠をこの部屋から出した。
翠が一階に着いたころを見計らって電話をかけると、三コール目で通話状態になる。
『な、何?』
「俺、その財布がないとバスに乗る金ないから」
『……うん、わかった』
「じゃ……」
一方的に通話を切り、その場にしゃがみこむ。
「……脅迫してまで戻ってきてほしいか?」
答えは、是。
わかっていてもやめられない。
どんな手を使ってでも自分のもとに引き止めておきたい。
このまま、目に見えてどんどん強欲になっていくのだろうか。
欲が深まれば苦しくなるだけだというのに――
「翠が戻ってくるまでにシャワーを済ませよう……」
頭を冷やすつもりだった。
少し冷たいシャワーを浴びたのはそのためのはずだった。
けど実際には、冷たいものが肌に触れると、池で感じた闇に呑まれそうになる。
布石は打った。が、ここに翠が戻ってくる確証はない。
下には御園生さんと唯さんがいるわけで、先輩から部屋の鍵を受け取れば俺が出なくても部屋に入ることができる。
そうして、かばんを持っていかれたら――
計り知れない不安に駆られ、すぐにコックを捻ってシャワーを止めた。
バスタオルで雑に身体を拭き、着ていたものを身に纏って洗面所を出た。
ダイニングに置いてある翠のかばんはそのままだった。
俺はその足で廊下を戻り玄関へ向かう。
そこにあるのは普通のドアで、どこにでもある玄関のドアなのに――単なるドアが大きく重い扉に見えた。
俺は、ドアレバーに手をかけるどころか伸ばすこともできなかった。
次にこのドアを開けるのは誰か――
考えただけでも身震いを起こす。
俺は壁に寄りかかり、自分の身体を抱きしめるようにその場に立ちつくした。
一分が何百秒にも感じられる中、ドアの向こうに人の気配を感じた。
インターホンが鳴ることを期待したけれど、聞こえたのは鍵を回す音。
俺は一気に落胆した。
「ツカサ、風邪ひくっ」
ドアが開き、耳に飛び込んできたのは翠の声だった。
ドアはすぐに閉まり、ほかの誰が入ってくるでもない。
翠は俺の首にかけてあったタオルに手を伸ばすと、それを俺の頭にかぶせた。
一瞬だけ耳に触れたコートがあたたかかった。
外から来た人間なのに、それを包む空気がとてもあたたかく感じた。
シャワーより、部屋の空気より、ほかの何よりも――
気づけば俺は翠を抱きしめていた。
「つ、ツカサっ!?」
驚いた、というように声を発するが、そのあとにはなんのリアクションもない。
なんで――どうして翠は抵抗しない?
抵抗されない理由を自分に都合よく捉えてしまいそうになる。
翠は俺の頭を両手で押さえ、俺の胸に額をくっつけてゆっくりと口にした。
「ツカサ……何度選択させられても私の答えが変わることはないよ。それだけは信じて?」
俺は腕に力をこめ、翠の首元に顔をうずめる。
「……翠はバカだ。なんで戻ってきた……?」
そんな言い方をするくせに、俺は翠を放そうなどと微塵も思ってはいない。
「……なんでって、ツカサがお財布がなかったらバスに乗れないって言ったんでしょう?」
返ってきた答えは「当然」なもので、「特別」ではない。
どれだけ勘違いしたくても、そこだけは勘違いさせてもらえない。
「……嘘はついてない。バスには乗れない。でも、携帯さえあれば警護に付いている人間を呼びつけることも、コンシェルジュに迎えに来させることもできる。ここから藤山に戻る術が全くないわけじゃない」
俺は翠が戻ってこなくても藤山へ戻る手段はほかにいくつか持っていた。
それらを使うか使わないかは別として……。
翠の手が頭から離れる。
今度こそ呆れられたかもしれない。
翠から発せられる言葉を身構えていると、
「ツカサ、唯兄お勧めのコーヒーとサンドイッチを買ってきたから、ちゃんと髪の毛乾かしてから食べよう? 私も朝ご飯食べなくちゃ」
予想だにしない言葉をかけられ戸惑う。
翠の頭は正常に動いているのだろうか。
翠の手は、俺の両腕を掴んでいた。
俺がこの腕を解いたら、力を緩めたらどうする……?
すぐにでもここから逃げていなくなるだろうか。
ほんの少し力を緩めると、腕を掴んでいた手は俺の手をぎゅ、と握り直した。
「ちゃんと乾かさないと風邪ひいちゃうよ」
俺は手を引かれて洗面所へ連れて行かれ、有無を言わさず洗面所へ押し込まれた。
Update:2012/06/19 改稿:2017/07/19
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