光のもとでT

第二章 兄妹



第二章 兄妹 21話


 湊先生の家がマンションの一室であることは、部屋のつくりを見て気づいてはいたけれど、何階にいるのかまでは家を出るまではわからなかった。
 玄関ポーチを出て廊下を歩いていると、
「ちなみにここが私の家」
 栞さんが指差したのは湊先生の隣の家だった。
 今は旦那様が海外赴任されているそうで、栞さんは幸倉にある実家からうちへと通ってきているらしい。
 さらにエレベーターホールの前まで来ると、
「ここは秋斗くんの家よ」
 栞さんがにこにこしながら教えてくれる。
「えぇと……藤宮の人しか住んでいないんですか?」
「そんなことはないのだけど、十階は藤宮の人間しか住んでいないわね」
 そうなんだ……。
「海斗や司もテスト前になるとこっちに帰ってきて、毎回ふたりで勉強会をしているわ」
 そんな話を聞きながら、私と蒼兄はエレベーターホールで見送られ、栞さんたちと別れた。
 エレベーターは思っていたよりも広いつくりで、壁面や照明に洗練された印象を受ける。
「なんか、ずいぶんとお洒落なマンションね? デザイナーズマンション?」
 私の感想に蒼兄は、「まあ、そんなところかな……」と言葉を濁す。
 蒼兄が歯切れ悪く答える理由がわからなかったけれど、一階に着き、エレベーターを出てから絶句することとなる。
 エレベーターホールと間続きになっているエントランスは、開放感溢れる吹き抜けになっていて、立派な花器には器に見合った花が生けられていた。そのスペースの一角には、ラグジュアリー感漂うソファが置かれている。
 印象としては、マンションのエントランスというよりホテルのロビーのよう。
 その向かいには、シンプルなカウンターにスーツを着た男性がふたり立っていた。
 きっと、コンシェルジュが常駐するマンションなのだろう。
 そのカウンターの向こうには、雰囲気のいいお洒落なカフェまで併設されている。
 カフェの入り口には、「明日はコミュニティータワーの点検日です。スポーツジムは夕方六時から使用可」という貼紙があった。
「……高級マンション?」
 隣の蒼兄にたずねると、
「ウィステリアヴィレッジだよ」
 蒼兄はエントランスを出ると、「ほら」と入り口にかけられているアンティックゴールドのプレートを指差した。
 そこには「Wisteria Village」と流麗な文字がバランス良く並んでいた。
 藤宮高校が藤宮の傘下であることを知らなかった私でも、ウィステリアヴィレッジが藤宮の経営するマンションであることくらいは知っている。そしてそれが、高級マンションと呼ばれる類であることも。
 そんなマンションに湊先生たちが住んでいることに驚きつつ歩いていると、背後から強烈な光が近づいてきた。
 振り向いてその光の正体がわかる。車だ。
 住人が帰宅したのだろうと前方に視線を戻すと、その車は私たちの少し先で停車した。
 運転席の窓がゆっくりと開き、
「こんばんは。ふたりとも、どうしたの?」
 窓から顔を出したのは秋斗さんだった。
「今まで湊さんの家にお邪魔してたんです」
「ふーん……。僕が本社で出たくもない会議に出てる間、蒼樹は楽しいひと時を過ごしてたんだ?」
「いや、なんていうか――初の兄妹喧嘩のようなものの仲裁をしてもらった感じです」
「は……? 『ハツ』って初めての『ハツ』?」
 蒼兄が苦笑しながら頷くと、
「蒼樹と翠葉ちゃんって、この年までケンカ知らずだったの!?」
 声量が上がるほどに驚かれたわけだけど、ケンカしたことがない兄妹とは、そんなにも珍しいものなのだろうか。
「ま、うちも年が離れているからあまりケンカにはならなかったけど……。それで? 解決できた?」
 その質問にはふたり揃って「はい」と答えた。
「うん……ふたりは一緒にいるほうがしっくりくるかも。これで翠葉ちゃんに彼氏でもできようものなら、蒼樹は困っちゃうね」
「そうですね……。任せられる相手ならいいんですけど」
 黙って会話を聞いていると、秋斗さんの視線がこちらを向いた。
「体調はもう大丈夫なの?」
「はい、今は微熱くらいには下っているので」
「四日は大丈夫そう?」
「明日明後日ゆっくり過ごすので、大丈夫だと思います」
「じゃ、四日にね。蒼樹は運転に気をつけて」
 そう言うと、秋斗さんはゆっくりと車を発進させた。
 来客者用駐車場に停めてあった車に乗ると、そこにはいつもと変わらない空気があった。
 何を話していなくても、居心地がいいと思える空間。なんだかほっとする。
「翠葉……これからはケンカもしようか」
「ケンカ、かぁ……いまいち想像できないな。でも……うん。ケンカもしよう。それから、お話もいっぱいしよう?」
 蒼兄は運転席で満足そうに微笑んでいた。
 きっとこの先、何があっても蒼兄は私の味方で、私は何があっても蒼兄の味方なのだろう。
 それがとても、幸せなことに思えた。



 二日、三日は無理のない範囲で課題をして過ごした。
 それは四日の試合に応援に行くため。
 課題も残すところあと二冊。
 今月半ばまでにはなんとかなりそう。
 そんなことを思いながら、日々参考書や単語帳、教科書との睨めっこ。
 何せ、残っているのが英語と世界史なのだから仕方がない。
 やっぱり、苦手な教科が最後に残ってしまった。
 明日は八時五十分に弓道場の前で桃華さんと秋斗さんと待ち合わせ予定。
 弓道場までは家から十五分ほどかかるから、少し早めに出て藤棚を堪能しよう。
 課題をやりながら明日のことを考えていると、聞き慣れない着信音が鳴った。
 誰……?
 電話ではなくメールだったようで、すぐに音が鳴り止む。
 ディスプレイを見ると、「藤宮司」と表示されていた。
「あ、れ……? 私、藤宮先輩のアドレスなんて知ってたっけ……?」
 数少ない心当たりを頭にめぐらせ、深く考えるのはやめにした。
 以前秋斗さんにスマホを預けたとき、「お役立ち情報」として登録されたものなのだろう。


件名 :体調は?
本文 :高熱出して数日入院してたって姉さんから聞いたけど
   平気なの?
   明日は無理して来る必要ないから。
   お大事に。


 ……そっか。一緒に暮らしているわけじゃないから、その日のうちに話が伝わることはないのね。
 なんて返信しようか考えながら、メール作成画面を起動する。


件名 :大丈夫です
本文 :二日間入院して湊先生に治してもらいました。
   それに昨日今日はおとなしくしていたので、
   明日は桃華さんと秋斗さんと一緒に見に行く予定です。
   試合、がんばってくださいね。

    追記)
    弓道場裏の藤棚がとてもきれいです。


 送信すると、一分と経たない内に返信がくる。


件名 :あてにならない
本文 :翠の大丈夫ほどあてにならないものはない。
   来るなら気をつけて来るように。
   それじゃ、おやすみ。


 返信を読みながら唸る。
「先輩にもそう思われているの?」
 私の「大丈夫」はそれほどまでにあてにならないのだろうか。
 ふと入学してからの自分を振り返り、仕方ないかも……と項垂れる。
 これからもきっと、大丈夫でも大丈夫じゃなくても「大丈夫」と答えてしまうことがあるだろう。
 すぐに直せるわけじゃない。でも、いつかは直したい。
「少しずつ変われたらいいな……」
 湊先生と蒼兄に、無理に変わる必要はない、と言われた。だから気負わず、少しずつ変わっていきたい。
 そのきっかけをくれたバングルに視線を移す。
 これは第二の私のお守りと思おう。明日、秋斗さんに会ったらもう一度お礼を言おう。
 課題を終わらせお風呂に入ろうかな、と思っていたらまたスマホが鳴りだした。
 今日、私のスマホはよく活躍していると思う。


件名:課題どのぐらい進んだ?
本文:俺死にそう……。


 佐野くんからのメールだった。
 すぐに返信をする。


件名 :なんとかなりそう(たぶん)
本文 :英語と世界史が残ってて泣きそう。
   でも、終わる見通しはたったかも。


 送信が終わるとすぐに返信されてくる。


件名 :なんだとー!?
本文 :俺なんてあと四冊も残ってんのに!
   御園生は今日から俺の敵だ!


「えっ……そんなこと言われても」
 そうはぼやくけれど、部活をしながらこの課題をこなすのはかなりきついだろう。
 これ以外に授業で出される宿題もあるのだから。
「佐野くん、それだけで私はすごいと思うよ」


件名 :敵はやだな
本文 :あと四冊なら今月中になんとかなるよ!
   大丈夫、がんばって!
   私、あと二週間の補講で終わると思うから、
   そしたら、わからないところ見ようか?


 そう、私はあと二週間ほど補講を受ければ未履修分野の試験を受けられる状態になる。
 なので、そのあとは補講に出ても出なくてもどちらでもかまわないのだ。


件名 :神に思えてきた
本文 :化学教えてくれたら助かる。
   じゃあ俺、勉強に戻るわ。


 そこでメールは途絶えた。
 佐野くんは毎日部活を終えて帰ってきてから課題をやっているのだろう。
 先日の大会はあくまでも予選であり、本番は八月に控えている。それまで、練習がきつくなることはあっても楽になることなどないはず。
 そんなことを考えながらお風呂に入って上がってくると、蒼兄が窓際のテーブルセットでコーヒーを飲んでいた。
 この時間にリビングでコーヒーブレイクとは珍しい。たいていなら、キッチンでコーヒーを作って部屋へ戻ってしまうのに。
「珍しいね? こんな時間にここでコーヒータイムなんて」
「あぁ、なんとなく……? 翠葉何してるかなと思って下りてきたら、風呂に入ってたから」
 蒼兄の向かいに座って濡れた髪の毛をポンポンとタオルで叩いていると、
「髪、久しぶりに乾かそうか?」
 訊かれてコクリと頷いた。
 小さいころから何度となく髪の毛を乾かしてもらってきた。でも最近はそんなに頻繁ではなくて、久しぶりの申し出にどうしたのかな、と思う。
 髪を乾かし終え、最後のブラッシングをしている際に声をかけられた。
「翠葉」
「ん?」
「好きな人ができたら教えて?」
「き、急に何っ!?」
「そんなに驚かなくても……」
 蒼兄はクスクス笑うけど、急にこんな話なのだ。誰でも驚くと思う。
「今まで、そういう話してこなかったなぁ、と思ってさ。この間、車でそんな話をしただろ? 思い出したらそっち方面の話を少し聞きたくなっただけ」
 あぁ、と思う。
「蒼兄、私、初恋もまだなのよ?」
 言うと、まじまじと見られた。
「それって冗談じゃなかったの?」
「……冗談じゃなくて。……おかしい、かな?」
「いや……おかしいとかそういうことじゃなくて」
 純粋に驚いているということ……?
 そういえば、飛鳥ちゃんにも驚かれたっけ……。
「だって、小学校中学校とあまり通えていなかったし、今ほど男子と話す環境にはいなかったから」
 補足説明をすると、「あぁ、そうか」と納得された。
「だからね、佐野くんや飛鳥ちゃんの好きな人を知ったとき、そういうのは本の中だけの話じゃないんだなぁ、って思った」
 蒼兄は意味がわからないという顔をする。
「私まだ、わからなくて……。どんなに情感のこもった文章や言葉を見ても、共感できるわけじゃないし、想像するのも難しい。だから、目の当たりにして、あぁ、こういうことってあるんだな、って思ったの。でもね、やっぱり自分が誰かを好きになるっていうのは想像できなくて……。だって、その『好き』は家族や友達を想う『好き』とは別の種類なのでしょう?」
「そうだなぁ……。別物なんだろうな」
 どうも座り悪い答えが返される。
「俺も、実のところはよくわからないんだ」
「え?」
「今まで彼女って存在がいたこともあるけれど、じゃあ、その相手を本当に好きだったかと訊かれたら、胸を張って『YES』とは言えない感じ」
「男の人はそういうものなの?」
「いや、違う……。ちゃんと相手が好きで付き合ってる人とそうでない人と、色々いるかな? 付き合うことをゲームのように捉えている人もいるし、真剣に付き合ってる人もいる」
「なんか、やだな……」
 視線を床に落とすと、ソファに座っていた蒼兄が私と同じラグの上に座り直した。
「そうだよな……。自分が真剣なのに、相手が違ったらいやだよな。……だから、本当に好きな人ができるまでは、彼女作らないことにしたんだ」
 そんな言葉にほっとしてしまう。
「俺はどうも、彼女と翠葉を比べる悪い癖があるらしい」
「……比べてどうするの?」
「……とくにどうするってわけじゃないんだ。ただ無意識に比べちゃうだけ。でも、相手はひどくいやがる。それが原因で長続きしたことがないっていうか……。一〇〇パー俺が悪いとは思うんだけど、本当に無意識なんだよな」
 蒼兄は苦笑を浮かべた。
「だから、翠葉と比べずにいられる女の子を好きになるまで待つことにした。翠葉と同じくらい大切にできる子が現れるまで」
 今度は穏やかで優しい笑みを向けられる。
「じゃあ私は、蒼兄と同じくらい好きになれる人じゃないとだめね」
 ふたりの笑い声がリビングに響く。
「その前に、俺以上に翠葉を大事にしてくれる相手じゃないと、俺が許せそうにない。……でもさ、恋はしようと思ってするものじゃないと思うから、きっと知らないうちに誰かを好きになっちゃうんだろうな」
 少し遠くを見ながら言う蒼兄に、
「それじゃまるで、トラップみたいだよ」
 笑いながら答えると、蒼兄もおかしそうに笑った。
「私もね、私と同じくらい蒼兄を大切に想ってくれる人が蒼兄の相手じゃないといやだな」
 ハーブティーを淹れ、寝る直前までそんな話をしていた。
 蒼兄は病的にシスコンかもしれない。私は筋金入りのブラコンだろう。
 でもそれは、とても仲がいいということで、何もおかしいことじゃないと思う。
 私は胸を張って蒼兄が大好きと言えるし、そう言える自分のことは、少しだけ誇らしく思えた。



Update:2009/06/04  改稿:2020/02/09



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