第二章 兄妹 22話
待ちに待った四日――熱は平熱まで下がり、天気は快晴。
蒼兄の話だと、今日は最高気温が二十五度ということだったから、少し暑くなりそう。
「今日は上着いらないかも……?」
クローゼットを開き、端から順にワンピースを見ていく。
「これ、かな」
手に取ったのは、先日着ていた白いワンピースとは別の白いワンピース。
柔らかなシフォン生地で身体に沿うAライン。ふわっとしたベルスリーブの袖に、膝丈スカートの裾が花びらのようにジグザグしている。
とくにこれといった装飾がしてあるわけじゃないけれど、そのシンプルさが好き。
淡いグリーンのガラス玉がついたチェーンベルトを腰につけ、それとおそろいのネックレスとブレスレットをすれば準備完了。
普段はめったにアクセサリーを着けることはないけれど、この三点セットはお気に入り。
高校に合格したとき、蒼兄がお祝いとしてプレゼントしてくれたのだ。
今日は栞さんがお休みの日。蒼兄は、昨夜私と話している途中にお母さんからメールがあって、今日は朝から呼び出されている。どうやら、片道二時間半もかかるところへ必要な資料を届けに行くらしい。
それから、パソコンのメンテナンスも頼まれてるという話だった。
夕方には帰るから、夕飯は何か食べに出かけようという話になっている。
時計を見れば、あと五分で八時。
少し余裕をもって出たなら、藤棚を堪能する時間がとれる。
私はお庭の植物たちに水を撒いてから家を出た。
五〇メートルほど歩けば運動公園の敷地内。
日向は暑く感じたけれど、辺りには心地よい風が吹いている。
芝生の緑が青々としており、空も真っ青。木に生える若葉の合間から、差し込む木漏れ日がキラキラと光って見えた。
そんな様を見ながら歩いていれば、あっという間に弓道場裏にある藤棚にたどり着く。
時刻は八時半過ぎ。あと十分もすれば桃華さんと秋斗さんが来るだろう。
ベンチに座って満開の藤棚を見上げる。
「かわいい、きれい!」
ずっと見ていても飽きることはないだろう。
そういえば、七五三で使った簪も、どれだけ眺めていても飽きることはなかった。
あの簪は、ゆらゆらと揺れる藤がかわいくて、見ているだけでも幸せな気分になれるのだ。
風に揺れる藤を眺めていると、
「御園生じゃね……?」
藤棚の脇を通り過ぎようとした人に声をかけられた。
そちらに目をやると、なんとなく見覚えのある顔がこちらを向いていた。
誰だっけ……?
現時点で私のことを「御園生」と呼び捨てで呼ぶのは佐野くんくらいなのだけど……。
その男子を見ていてとあることに気づく。
部活動ジャージの左胸に藤宮の校章ワッペンが付いていない――つまり、うちの生徒ではない……?
動揺を感じたそのとき、
「何、覚えてねぇの? 俺、
そこまで言われて思い出す。そうだ、この人は私が一番苦手だった男子と仲良くしていた人。
思い出したら思い出したで、身体が硬直するだけだった。
かなり明るい髪色で、ところどころにメッシュが入っている。
藤宮にもそういう髪型をしている人は稀にいるけど、放つ雰囲気がまるで違う。
「何? 高校辞めちゃって今何してんの?」
話しながら近付いてくるその人が、恐怖でしかない。
いや……それ以上こっちに来ないで。
「相変わらずかわいいよねー? 今ひとり?」
隣に座られて、咄嗟に席を立つ。
反射的に立ち上がったこともあり、不意に眩暈が襲う。平衡感覚が持っていかれ、身体のバランスが崩れた。
「何よろけてんだよ」
腕を掴まれてゾクリと粟立つ。
支えてくれてるという感じではなく、捕まえられたと思った。
掴まれたれた右腕が痛い。
やだ、どうしよう――
振り払いたいのに力は入らないし、視界も回復しない。それどころか、こめかみのあたりからす、と血の気が引いて肩のあたりまで冷たくなる。
どうしようっ――
「翠……?」
この声……。
「藤宮、先輩……?」
視界が戻らない今は声だけが判断材料。けれども、私を「スイ」と呼ぶのは藤宮先輩しかいない。
「翠、こっちに」
言われても、一歩も動けなかった。
視界はまだモザイクがかっているし、今にも膝から力抜けてしまいそうなのだ。それに、腕も未だ強く掴まれたまま。
カク、と膝の力が抜けたそのとき、誰かの胸の中に落ちた。それが、さっきの加賀屋という人でないことはわかる。だって、まだ後ろから右腕を掴まれたままだから。
視界が戻ると、目に映ったものは白い生地だった。
「翠に何か用でも?」
頭のすぐ上で、藤宮先輩の声がした。
「あ゛? おまえ誰だよ……。俺はただ御園生と話をしてただけだけど?」
どこか挑発するように話す中学の同級生に、
「人に名前をたずねるときは自分から名乗る、って礼儀を知らないのか?」
文句を言いつつも、先輩は高校名と学年、名前を口にした。
「因みに、彼女も藤宮の生徒だ。気分が優れないようだから、用件なら自分が代わりに聞くけど?」
「はっ!? 藤宮なんて嘘だろ? だってそいつ、光陵中退してるぜ?」
「それが何か?」
先輩は淡々と答える。
もう視界は回復しているけれど、後ろにいる人が怖くて先輩から離れられずにいた。わずかに震えているのが自分でもわかる。
……先輩にも伝わってしまっているだろうか。
知られたくないと思いつつ、それでも離れることができなかった。
「確か、入院してて留年決定したから中退したって聞いたけど、あんた、そういうの知ってんの?」
笑いを含んだ声で愉快そうに話す。
「それが何? 一年留年してうちに受かるって、ある意味すごいことだと思うけど?」
先輩の声音がしだいに低く冷たくなっていく。そこに新たな足音が近づいてきた。
「司、おまえ戻っていいよ。あとはこっちで引き受けるから」
秋斗さんの声だった。
「秋兄、遅い……。翠、視界が戻ってるならゆっくり立って」
私はコクリと頷き、先輩の手を借りて立ち上がった。
「先輩、ごめんなさい……。試合前なのに」
「いいから……。このあとは秋兄といて」
言うと、私の身柄を秋斗さんに預けた。
「翠葉ちゃん、大丈夫?」
秋斗さんに顔を覗きこまれて返事をしようとした。
ただ一言、「大丈夫です」と言いたかっただけなのに、震えて声がうまく出せない。切れ切れに声を発すると、秋斗さんの腕が背中に回され、そのまますっぽりと胸の中に収まってしまった。
まだ、後ろに加賀屋という人がいるのかはわからない。けど、秋斗さんの様子からするとまだいるのだろう。
「で? 君は翠葉ちゃんに何か用だったの? 僕たちのお姫様に手を出そうものなら、容赦なく撃退させていただくけど」
余裕のある声音で秋斗さんがたずねると、
「んだよっ、お前っ」
「ん? 僕? 僕は藤宮秋斗。藤宮警備の人間で翠葉ちゃんのボディーガードかな?」
「ボディーガードだぁ? ……ホントは違うんじゃねーの? 御園生、お前清純そうに見えるけど、その顔と身体で男たぶらかすことでも覚えたか? 今度俺ともお相手願いたいもんだな」
秋斗さんの腕の中にいても、言葉や視線はザクザクと刺さる。
怖い……早くいなくなってっ――
「あら……何この害虫」
冷ややかな桃華さんの声が耳に飛び込んできた。
「あ゛? んだよ、このアマっ」
「……あなた、『あま』って言葉の意味はご存知? 仏門に入った女性や修道女、もしくは海に潜って漁をする女性のことをいうのよ? 私は修道女でなければ漁師でもないのだけど……。言葉は正しく使っていただけないかしら? これだから低俗な男っていやよね……」
「てっめぇっ……」
怖いと思うより先、桃華さんが心配になって振り返る。と、そこには投げ飛ばされた男子が転がっていた。
現況から考えて、それを投げたのは桃華さんなのだけど……。桃華さんしかいないのだけど
――
「ったく……女だからって甘く見ないでほしいものだわ」
桃華さんは汚いものを触ったような素振りで手を払う。
私が秋斗さんの腕の中で呆然としていると、いつもと変らない笑顔でにこりと笑いながらこちらにやってきた。
「私、合気道を習っていたことがあるの」
にこりと微笑む桃華さんは、一仕事終えたかのような顔で手を払っている。
「簾条さん、有段者ってケンカとかしちゃいけないんじゃ……」
秋斗さんが苦笑しながら訊くと、
「あら、今のは自己防衛でしょう?」
笑顔で受け流すと、
「さ、あのムカつく男の試合が始まっちゃうから行きましょ?」
桃華さんに手をつながれ、建物の中へと足を踏み入れた。
蒼兄、どうしよう……。
桃華さんが格好良すぎて、私、桃華さんに惚れてしまいそう……。
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