第二章 兄妹 23話
弓道場の観覧席に腰を下ろしても私の震えは治まらず、しばらく桃華さんが背中をさすってくれていて、ようやく落ち着きを取り戻し始めた。
我ながら情けない……。
でも、怖いものは怖いのだ。
「翠葉ちゃん、せっかく一番前の席に座れたんだ。少し視線を上げてごらん?」
秋斗さんに促され、視線を上げる。と、強化ガラスの向こう――左側に競技関係者がたくさんいる場所があった。
「あそこ、人がたくさんいるところが射場といって、弓を射る場所になる。で、あっち――」
秋斗さんが指差したのは、射場から数十メートル離れた場所、的が設置されているところ。
「射場から二十八メートル離れたあそこが的場」
「あそこに向かって矢を射るんですね……」
「そう。あ、ほら、司が射場に入るよ」
射場に視線を戻し藤宮先輩を見つけると、先輩は弓と矢を持ち、ひとつひとつの動作を丁寧に行っていく。
「弓道はね、射の基本動作を八つの節に分ける射法八節というものがあるんだ」
藤宮先輩が射場に立つと、秋斗さんはその動作のひとつひとつを教えてくれる。
「足踏み、的に向かって両足を踏み開く動作。胴造り、足踏みを基礎として両脚の上に状態を安静にかまえる。弓構え、矢を番えて弓を引く前の動作。打起こし、弓矢を持った両拳を上に持ち上げる動作。引分け、打起こした位置から弓を押し、弦を弾いて両拳を左右に開きながら弾き下ろす動作」
一連の動作がとてもきれいだった。
「会、弓を引ききった状態で的を狙う」
弓を構え、その先の的を見据える様が、少しだけ短距離走と似ている。ただひたすら、遠くの一点を見つめる様が……。
「離れ、で矢を放ち――最後が残心」
「……余韻」
ふとそんな言葉が口をつく。
「そうだね。残心の状態は余韻とも取れるね。矢を放って終わりじゃない。放った状態でしばらくは緊張を維持する。残心のあとも弓倒し、物見返し、で最後に足を閉じて終わる」
「すごいっ! 的に当たっちゃいましたよっ!?」
はしゃぐ私に、
「あと三射残ってる。四射中三中以上が決勝に進める。まぁ、きっと外さないんだろうけどね」
秋斗さんがクスクスと笑いながら話す傍ら、桃華さんが「ムカつくくらいきれいよね」と零した。
でも、その気持ちはわかる気がする。
動作のひとつひとつがとてもきれいで、神聖なものを見た気がした。
藤宮先輩の射が終わっても、私は射場から目を離せずにいた。
「翠葉ちゃーん、戻っておいでー」
秋斗さんの声にはっとする。
「翠葉、見入ってたわね」
桃華さんに言われ、
「うん……だって、すごくきれいだったから……。弓道がこんなにきれいなものだとは思わなかったの」
「弓道を見るのは初めて?」
秋斗さんに訊かれ、
「はい、スポーツ観戦自体ほとんどしたことがなくて……。蒼兄のテニスの試合と短距離の大会を何度か見に行ったことがある程度です」
「そういえば、蒼樹は中学のときはテニスしてたんだっけ」
「はい」
答えつつも、まだ頭の中には弓を引く藤宮先輩の残像が残っていて、私はぼーっとしたままだった。
全試合が終わり、藤宮先輩のインターハイ行きが決まった。
「司も着替えたら合流するって言ってたから、少し待ってよう。その間に飲み物を買ってくるよ」
秋斗さんが席を立つと桃華さんも席を立ち、
「私もお手洗いに行ってくるわ」
数歩歩いた桃華さんが振り返り、
「変な輩に声かけられたらスマホ鳴らしなさいよ?」
「うん、ありがとう」
見送ってから、また射場に目をやる。
強化ガラスの向こう側には矢を回収している人がいたり、射場の拭き掃除をする人がいた。
それらを見ながら思い出す。藤宮先輩が弓を構える姿を。
まるで作法か何かみたいにきれいな所作だった。
やっぱり、袴姿の先輩は格好いいな。加えて弓道なんてやらせたらピカイチだ。
学校で人気があるのも頷ける。でも、先輩は女の子に冷たい。
少しは海斗くんみたいに愛想良くすればいいのに……。
女の子が苦手なのかな?
少し首を傾げると、顔を覗き込まれた。
「わっ……」
「そこまで驚くことはしていない」
「そんなことないですっ。誰かのことを考えていて、その本人が急に目の前に現れたらびっくりしますっ」
「俺のこと……?」
「はい。先輩は女の子が苦手なのかな、と思って」
「は……?」
先輩は意味がわからない、といった顔で私をまじまじと見た。
「……一度でいいから翠の頭の中を見てみたいんだけど……」
「どうしてですか?」
「何をどうしたらそういう考えに至るのかが知りたい」
「……思考回路?」
「そんなようなもの」
「……先輩が格好いいなぁと思って、女の子に人気あるのもわかるなぁと思って、でも先輩は女の子になんとなく冷たい気がしたから……?」
「なんだ、そんなこと……」
とてもつまらなそうに先輩はそっぽを向いた。
そこへ飲み物を抱えた秋斗さんが戻ってくる。
藤宮先輩にスポーツドリンクを渡しながら、
「司はさ、女の子に騒がれるのが面倒なんだよ」
そんなふうに教えてくれたけれど、
「騒がれるの、ですか?」
訊くと、今度は藤宮先輩が口を開いた。
「騒がれるのは迷惑だし、よく知りもしない人間に好きだって言われるのも迷惑」
前者後者共に、藤宮先輩に好意を持ってる人がいる、ということだと思うのだけど、それすらだめなの……?
なんだかとても容赦のない人だ。
「あ、桃華さんは?」
「簾条? なんでそこに簾条が出てくるわけ?」
「……共通の知り合いで、藤宮先輩に話しかけるのって桃華さんくらいしかいないな、と思って……」
「……簾条と俺のやりとりが会話に聞こえるなら、その耳一度オーバーホールしたほうがいいと思うけど?」
「そうよ、翠葉。私とこの男が普通に会話するわけがないじゃない。皮肉の応酬がせいぜいよ」
いつの間にか戻ってきた桃華さんが会話に加わった。
むすっとしたふたりを目の前にたじろぐと、
「これは同族嫌悪に近いものがあるから放っておいて大丈夫」
秋斗さんの助言になるほど、と納得したのは私ひとり。
桃華さんと藤宮先輩は、「いい迷惑」と声を揃えた。
直後、秋斗さんがおかしそうにくつくつと笑いだしたのは言うまでもない。
機嫌が悪そうなふたりを前に、私も思わずクスリと笑ってしまう。すると、
「翠まで笑うな」
「翠葉まで笑わないっ」
またしてもふたりの言葉が重なり、どうしても笑いを堪えることはできなかった。
弓道場に入ってきたとき、震えていたのが嘘みたいだった。
弓道場から出ると、「さて、どうしようか?」という話になる。
「あの、桃華さんはこれからうちに来ることになっているんですけど、もし良かったら秋斗さんと藤宮先輩もいらっしゃいませんか? 夕方には蒼兄も帰ってくるって言ってましたし……」
提案すると、
「じゃあ、お邪魔させてもらおうかな?」
秋斗さんはすぐに応じてくれた。
「これも持って行くことになるけど……」
藤宮先輩は弓の置き場を気にしているよう。
「大丈夫です。うち、玄関は少し広いつくりなので」
そのまま自宅へ向かって運動公園を歩いていると、またもや声をかけられた。今度はフルネームで……。
今度は誰……?
恐る恐る声の主に視線をやると、ユニフォームを着た女の子が数人立っていた。
この派手な顔立ちの人たちも、中三のときのクラスメイト。
少し前に違う人物に会ったことから、記憶の取り出しは悔しいほどスムーズだった。
ただ、思い出したところで「すごく苦手な人たち」という印象しかない。
「こんなところで奇遇ね?」
相変わらず意地悪そうな笑みを浮かべる。
でも、先輩たちが目に入った途端、態度が一変した。
「元気だったー? 高校、一度も出てこないで辞めちゃったから心配してたんだ。で、後ろの人たちは?」
藤宮先輩と秋斗さんを見ながら訊かれる。
「先輩と、その従兄さん……」
詳しく話す気にはなれなくて、端的に答える。
ものすごく不思議なのは、麗しい桃華さんがまったく目に入っていないところ。
今日の桃華さんは濃紺のサンドレスに白いカーディガンを羽織っている。誰が見ても清楚なお嬢さんだ。
目に入らないはずはないのだけど……。
彼女たちは私の前をずい、と横切り、
「私、御園生さんと同じ中学で高校も一緒だった綾瀬美香子っていいます! その制服、藤宮高校ですよね!」
極上の笑顔を作り、私を呼んだときよりも高い声で自己紹介を始める。
綾瀬さんは少しギャルっぽい感じの人。髪の毛は茶色く、パーマをかけているのかヘアアイロンで巻いているのか、毛先はクルクルとかわいらしくカールがかかっている。目が大きくてちょっとつりあがって見えるのは、メイクのせいだろうか。
綾瀬さんを皮切りに、一緒にいた女の子たちが次々と自己紹介を始めた。私はというと、綾瀬さん以外の人はかろうじて顔を覚えている程度で、名前の記憶は一切なかった。
彼女たちの自己紹介を観察していると、藤宮先輩が衝撃の一言を放つ。
「自己紹介とか必要ないから」
彼女たちは顔を見合わせた。けれども何かの間違いとでも思ったのか、「お名前、なんて言うんですかぁ?」と猫なで声を発する。
それに対し、
「名乗る理由ないし……。何よりも、翠は君たちの高校じゃなくてうちの高校の生徒だから」
綾瀬さんは口もとを引きつらせながら私に視線を戻した。
私はその視線だけで萎縮してしまう。すると、
「そうね、あなたたち光陵? 翠葉は藤宮の生徒よ」
存在を無視されていた桃華さんがここぞとばかりに主張する。
秋斗さんは、「あーあ……」って感じの顔。
「御園生、あんたうちの学校辞めて藤宮に行ったの!? だって、あんた入院してたでしょっ!? 半年以上病院にいたって噂よ!? そんな人間がなんで藤宮の生徒なのよっ」
綾瀬さんじゃないほかの人が口を開いた。
その顔は自己紹介をしていたときとは雲泥の差で、口調もきつくなっていた。
これ……説明しなくちゃいいけないのかな。説明する必要があるのかな……。
逡巡していると、
「あ、わかった。留年したんでしょ」
ショートカットの人が嘲るように口にする。
留年したことはもうなんとも思っていないし、それを認めることも容易いのだけど……。
色々考えて、やっぱり留年して良かった、と思ってしまう。
私はきっと、光陵に行っても楽しい学校生活は送れなかっただろう。
今日、中学の同級生に会って痛感した。
「君たち、心に悪魔か何か飼ってない?」
にこりと笑った秋斗さんが私の前に立つ。
彼女たちは、「え?」と急に作り笑いをし始めた。
「どんなに笑顔を作ってもまったくかわいく見えないんだよね。もう一度、自分の顔を鏡で見てから出直してきたほうがいいよ」
結構ひどいことをさらりと口にし、「さ、行こうか」と私の背を押して歩き始めた。
「あの……」
「ん? 翠葉ちゃん、何?」
「いえ……ありがとうございました」
「なんのことかな」
秋斗さんは何もなかったかのように笑ってくれる。
前を歩く藤宮先輩と桃華さんは、「不快だ」という感情を隠しもしない。
美形に美人が怒ると、想像を絶するほどに恐ろしい空気が漂う。
秋斗さんは公園敷地内を出るまで、私の背を庇うようにして歩いてくれた。
公園を出る直前に爆発したのは桃華さん。
「話には聞いていたけどっ、何よあれっ。世の中にあんな人間がいるだなんて信じられないっ」
頭に角でも生えてきそうな勢いだ。
「今朝の藤棚での男といい、翠の中学にはまともな人間がひとりもいないのか?」
藤宮先輩は声を荒らげることはしないものの、いつも以上に低くドスの利いた声に後ずさりしそうになる。
中学全体はよくわからない。でも、私がいたクラスに、今のようにお弁当を一緒に食べられる友達はいなかったし、私が心を許せると思えた人はひとりもいなかった。
さっきの人たちも同じクラスだったというだけで、友達というわけではない。
もっと言うなら、卒業してから一年以上経っている今、まさか話しかけられるとは思ってもみなかったわけで……。
どうしよう……。
答えに困っていると、
「翠葉ちゃんが若干人間不信なのって、ああいうのの中にいたから?」
訊かれて、ぎゅ、と心臓が縮まった気がした。
人間不信――秋斗さんにはそう見えていたんだ……。
秋斗さんや桃華さんたちに気づかれないように、小さく息を吐き出す。
できれば会いたくない人たちに会ってしまうわ、大好きな人たちに見られたくない自分を見られてしまうわ……。
今日という日をとても楽しみにしていたのに、半分くらいは踏んだり蹴ったりだ。
「前にも言ったけど、あんなのこっちから願い下げよっ」
桃華さんが足元にあった石ころを蹴飛ばした。
「それには同感。だいたいにして、翠葉ちゃんはかわいいけど、身体なんて使う必要ないしね」
秋斗さんが大仰にため息をつく。と、
「秋兄、それ、なんの話?」
藤宮先輩の眉間にしわが寄る。
「藤棚で絡んできた最低男が吐いた言葉よ。『その顔と身体で男たぶらかすことでも覚えたか? 今度俺ともお相手願いたい』って」
桃華さんがぶっきらぼうに答えると、
「低俗……」
一言でバッサリと斬り捨てた。
「本当、低俗もいいところよっ。頭にきたから投げ飛ばしてきたわ」
「簾条、いい仕事したな」
「あんな男、翠葉に近寄らせてたまるものですかっ」
未だ怒り冷めやらぬ桃華さんを横目に、
「不快極まりなかったけど、司は決勝進出決まったし、あの子たちと今後関わることは一切ないだろうし、とりあえず、翠葉ちゃんちに案内してもらおう?」
秋斗さんが何気なくその場を仕切りなおしてくれた。


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