第二章 兄妹 25話
食後は私の部屋でお茶を飲むことになった。
どうやら、リビングよりこちらのほうが落ち着くらしい。
リビングは二階までの吹き抜けで、開放感はたっぷりだけど、慣れない人には落ち着かない空間なのかもしれない。
もしくは、蒼兄デザインの仕事部屋に馴染んでいる秋斗さんと藤宮先輩にとっては、私の部屋のほうが落ち着くのかも。
「ねぇ、このクッキーどこのお店の?」
昨日作ったフロランタンをつまんだ桃華さんに訊かれる。
「昨日焼いたクッキーだから、売り物じゃないよ?」
「え!? 翠葉の手作りだったの?」
「うん。そうだけど……どうかした?」
「甘さ控え目で美味しいから、帰りに買って帰ろうかと思ったの」
そう言ってもらえるのはとても嬉しい。
桃華さんにつられるようにして、秋斗さんと藤宮先輩の手も伸びてくる。
「本当だ。アーモンドが香ばしくてコーヒーにも合いそうだな……。翠葉ちゃんはお菓子作りも上手なんだね」
褒める秋斗さんの傍らで、藤宮先輩がぼそりと零した。「これなら食べられる」と。
「先輩は甘いものが苦手なんですか?」
先輩は言葉なく頷いた。
そういえば、以前一緒にアンダンテのケーキを食べたとき、藤宮先輩はチーズタルトだったことを思い出す。
アンダンテのケーキはどれも甘さ控え目だけれど、甘いものが苦手な人はチーズタルトのセレクト率が高い。
何を隠そう、蒼兄がそうなのだ。
「ちょっと待っててくださいね」
私は席を外してキッチンへ向かうと、冷凍庫から挽いてあるコーヒーを取り出しコーヒーメーカーにセットする。
しばらくするとコーヒーのいい香りが漂い始めた。
その香りを堪能しながら、少し残念な気持ちになる。
香りも味も好きだけど、コーヒーを飲むと間違いなく胃が荒れて、そのあとご飯が食べられなくなる。ひどいときは戻してしまうため、香りだけしか楽しめない。
コーヒーをカップに注いでいると、秋斗さんが頃合いを見計らったようにキッチンへやってきた。
「いい香りだね。持っていくよ」
またしてもトレイを取り上げられる。
親切を無下にすることはできなくてお願いしたけれど、本当は最後までおもてなしされてほしかった。
自室でコーヒーを先輩に差し出すと、先輩はすぐに手を伸ばし、コーヒーを口に含むと表情をわずかに和らげる。
コーヒー、好きなのかな?
じっと見ていると、
「何?」
「……いえ。甘いものが苦手でコーヒーが好きなんだな、と思って」
「……食べなくていいなら甘いものは極力食べない。コーヒーは好き」
端的な答え方が先輩らしく思えた。
「翠葉ちゃん、それ、聴きたいな」
秋斗さんがハープを指差した。
「……最近は練習する時間が取れてないので、間違わずに弾けるかはかなり怪しいですよ?」
言い訳じみた言葉を漏らしても、「ぜひ」と言われたのでハープの調弦を始めた。
「ハープって自分で調律するのね?」
すぐ側までやってきた桃華さんにたずねられる。
「うん。ピアノが特殊なだけで、弦楽器は基本自分で調弦するものなの。ものによっては一曲弾くごとに調弦が必要なものもあるみたい」
昨日の夕方に調弦していたため、音を整えるのにはさほど時間がかからなかった。
アルペジオをいくつか弾いて響きを確認すると、文句ない音色が室内に満ちる。
さて、準備は整ったけれど、何を弾こう?
少し考えて、楽器にちなんだ曲を弾くことにした。
「この楽器、アイリッシュハープっていうんです。アイルランド生まれの楽器なので、アイルランドの民謡を弾きますね」
オ・カロランの曲、「Sheebeg and sheemore」――「大きい人と小さい人」という曲をチョイス。
短いけれど、とてもかわいらしい曲で好き。
弾き終わったあと、
「本当に弾けるんだ」
と言ったのは藤宮先輩だった。
「先輩、それはちょっと失礼……」
苦笑を向けると、
「いつも失礼なことを言っているのは翠のほうだと思う」
涼しい顔でさらりと言ってはコーヒーカップを口に運ぶ。
私、そこまで失礼なことは口にしていないと思うのだけど……。
「あのさ、蒼樹からオリジナル曲を作ってるって聞いたんだけど、それは?」
秋斗さんに言われて愕然とする。
「あの……蒼兄はそんなに私のことを話しているんでしょうか……」
「俺たち、半強制的に反復学習させられてると思う」
藤宮先輩の言葉に耳を疑う。
半強制的に反復学習って、何……。
「オリジナルって……作曲をしているということ?」
桃華さんが目を見開きたずねてくる。
「うん……つまりはそういうこと、かな……」
答えると、「聴きたいな」と秋斗さんに再度リクエストされた。
短い曲をセレクトして弾くと、弾き終わったあとに三人から拍手をしてもらえた。すると、違う方向からも拍手が聞こえてくる。
不思議に思って部屋の入り口を振り返ると、「ただいま」と蒼兄が立っていた。
「蒼兄っ! おかえりなさいっ! 早かったのね?」
時刻はまだ三時前だ。帰りは夕方になると言っていたのにずいぶんと早い。
「うん。あっちに着いて頼まれた作業を一通りやったらとっとと帰れって言われた。ほら、今日は栞さんがお休みだから、翠葉が心配だったんだと思う」
「それは災難だったね?」
「そうでもないよ。今弾いてたのは新曲だろ? それ聴けたし」
「本当に仲がいいよねぇ……」
少し呆れたように言ったのは秋斗さんだった。
お茶とコーヒーを淹れなおし、蒼兄も加わって五人で色んな話をした。
藤宮先輩が弓道を始めたきっかけが秋斗さんだったことや、桃華さんのおうちが華道の家元であること。そして、加納先輩と桃華さんが従妹関係にあるということも。
一番驚いたのは、あの加納先輩の家が合気道の道場を開いていて、加納先輩自身も師範代を務めているということ。
玲子先輩は護身術として嗜む程度で、いつもは桃華さんのおうちに通って、本格的に華道を極めていらっしゃるのだとか。桃華さんと玲子先輩は免状として看板をいただいているほどの腕前だというのだからすごい。
そういう話を聞いてしまうと、私は何においても中途半端な気がした。
やっぱり、手広く趣味を増やしすぎただろうか……。
「蒼樹、僕らこれで失礼するよ」
秋斗さんが切り出したのは夕方五時を回ったころだった。
なんだか名残惜しい……。
楽しい時間を過ごすと、「じゃあね、バイバイ」と言うのがとても寂しくなる。
「翠葉、そんな顔しなくても明後日にはまた学校で会えるんだから」
桃華さんに宥められ、
「そうだよね。そうなんだけどね……」
やっぱり名残惜しいものは名残惜しいのだ。
そんな自分が小さい子みたいでいやになる。
「翠葉ちゃん、今日は朝からずっと動きっぱなしでしょ?」
秋斗さんに言われ、さらには秋斗さんのスマホを見せられた。
目にしたものは一通のメール。そこに記されていたのは私のバイタル数値だった。
「湊ちゃんからのメール。今のところ、異変があると湊ちゃんからメールが届く。あと少しで改良が終わる。そしたら、僕らのスマホからもチェックできるようになるよ」
「……忙しいのにすみません」
「それはなし。言ったでしょう? 僕がやりたくてやってることだって」
秋斗さんは少し寂しそうに笑った。でも、とても優しい眼差しだった。
そんな表情が蒼兄とかぶる。
「なんの話?」
「なんの話ですか?」
藤宮先輩と桃華さんに訊かれたけれど、バイタルチェックされていることは言いづらい。
何よりも、バイタルチェックをされることになったいきさつがいきさつなだけに、困ってしまう。すると、
「それは内緒」
秋斗さんが代わりに答えてくれた。
それを聞いた桃華さんが、「蒼樹さんも知ってるんですか?」と蒼兄を仰ぎ見る。
「うん、知ってる」
蒼兄は私を見ながら、
「きっと、そのうち翠葉が自分から話すと思う。だから、できればそれまで待ってもらえると嬉しいかな」
桃華さんは大きなため息をつき、
「また隠しごとなのね?」
その言葉にチクリと胸が痛む。でも、桃華さんの目は「仕方のない子ね」といった感じで、剣を含むものではない。
「待つわ。いつか、話してくれるんでしょ?」
「……うん。いつか、ちゃんと話す。でも、自分にとっても衝撃的なことだったから、話せるようになるまで少し時間がかかるかも……」
自分が自分の命を放棄しようとしていたなんて、湊先生に言われるまで自覚はなかった。
それがゆえに、作られたようなこの装置。
今はお守りと思えるけれど、それだけを答えるのは何か違うような気がするのだ。
すべてを話す必要はないのかもしれない。でも、話すなら包み隠さず話したい。だから――
「それ、俺も聞けるの?」
藤宮先輩に訊かれた。
こういうとき、この人はどうしてこんなにも冷ややかな視線を向けてくるのだろう。
「……そうですね。桃華さんに話すときは一緒に話します」
「わかった。今日はご馳走様」
それだけ口にして、先輩はひとりさっさと玄関を出ていってしまった。
「あー……拗ねちゃったかな?」
秋斗さんが蒼兄を見て言うと、
「どうでしょう……? 司が同じ年頃の子たちと話してるのってあまり見たことないんで、自分にはちょっとわかりかねますが」
一方、桃華さんは「ガキね」と容赦なく吐き捨てる。
「あっ! 桃華さん、秋斗さんもちょっと待っててくださいっ」
私はふたりを引き止めキッチンへと向かった。
さっき、クッキーがおいしいと言ってもらえたのが嬉しくて、コーヒーを淹れている間に残っていたクッキーを三等分に分けて包んでいたのだ。
それを持って玄関へ戻る。
「さっきのクッキーです。もしよかったら、帰ってから食べてください。……秋斗さん、申し訳ないのですがこれ……」
「司に、かな?」
「はい」
「嬉しいけど、いいの?」
「今日はたくさん助けていただいたので……」
そのやり取りに蒼兄が口を挟む。
「翠葉、今日何かあったのか?」
蒼兄の視線をかわせるわけもなく、どうしようかとうろたえていると、
「蒼樹さん、知ってました? 翠葉の中学の同級生、最悪なのが勢揃い」
辟易とした顔をした桃華さんの言葉にドキリとする。
「……同級生? とくに親しい友達はいなかったと思うんだけど」
蒼兄の反応は正しい。
中学のときは、家族に話したくなるほどの出来事も、人との交流もなかった。
「あれは本当に最悪だったな」
秋斗さんがため息をつくと、蒼兄から痛いまでの視線を注がれた。
「なんでもないよ……? 少しいやなことがあっただけ」
ごまかせるものならごまかしたかった。けれど、桃華さんに額をペシリと叩かれる。
「そうやって何もなかったことにしないの」
「翠葉ちゃんは知られたくなかったのかもしれないけど、僕は今日一緒にいられてよかったと思ったよ。それと、中学の同級生は今後一切翠葉ちゃんに近づけたくないかな」
「だから、なんなんですかっ!?」
蒼兄が秋斗さんに詰め寄ると、
「蒼樹が翠葉ちゃんの側にべったりくっついていたことにはちゃんと意味があったってことだよ」
それだけを言うと、「じゃあね」と玄関を出ていってしまった。
「秋斗先生の言うことはもっともだと思います。蒼樹さん、かなりぐっじょぶだったと思いますよ? じゃ、また明後日ね」
桃華さんも手を上げて玄関を出てしまった。
その場に残されたのは私と蒼兄なわけで……。
「翠葉ちゃん、ちょっとおいで? お兄ちゃんとお話ししようか?」
満面の笑みで手を掴まれ、リビングへ連行された。
「さて、何があったのかな?」
私の真正面を陣取り、今までにないくらいの笑顔で訊かれる。
こうなってしまったらもう逃げられない。蒼兄が笑顔のゴリ押しを始めると、私の手には負えないのだ。
「中学のときのクラスメイトに話しかけられただけ」
「……それだけなら秋斗先輩や簾条さんがあんなふうには言わないと思うんだけど?」
「…………」
「補足する説明はないの? もしくは言葉を間違えたとか」
きれいな笑みはどこまで深まるのだろうか。そんなことを考えていると、
「翠葉っ」
問い詰めるように訊かれた。
「……少し、絡まれただけ……」
「それは男? 女?」
「……一度目は男子。二度目は女の子五人だった」
これ以上は話さなくてもいいだろうか……。
上目勝ちに蒼兄を見ると、
「秋斗先輩と簾条さんが憤慨していた理由は?」
どうやっても見逃してもらえそうにはない。
にっこりと笑っているにも関わらず、あり得ないほど声が低い。
仕方なく、藤棚での出来事と、帰り際に女の子たちに投げられた言葉の数々を白状した。
「なぁ、翠葉……。今まで学校での話を家ですることがなかったのって、そういう理由からか?」
訊かれて少し困る。
「学校の話をしなかったのは、話したくなるほど楽しい出来事がなかったからだよ」
「そういう問題じゃなくて……。中学でいじめられてたのか?」
それもよくわからない。
机の落書きや物がなるなること、無視されること。それをいじめと言うのならそうなのかもしれない。でも、なんとなく「いじめ」という言葉を認めることができなかった。
「ごめんなさい」
何に対して謝っているのか、自分でもわかってはいない。
「翠葉……謝るようなことじゃないだろ? ただ、もう少し早くに知りたかったかな」
寂しそうに笑って頭を撫でられた。
「今は……? 今の学校は?」
「今の学校はびっくりするくらい楽しい。クラス全体が仲良くてね、毎日がキラキラの宝物みたいに思える」
「そっか……ならいい。今が幸せなら」
言うと、ぎゅっと抱きしめてくれた。
今は幸せ……。
この幸せがどこまで続いているのか、と先を考えると少し怖くなるけれど、終わりはないと思っていたい――


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