光のもとでT

第三章 恋の入り口



第三章 恋の入り口 29話


 あまりテストに集中できなかった二日目。
 中間考査を受けたあと、午後の未履修分野の試験を受けた。
 ぎりぎりだったのは古典の九十一点。ほかは物理が満点で英語と世界史が九十七点だった。
 とりあえず全部パスできたことにほっとしたし、肩の荷が下りた気もする。
 今日は先生に無理をお願いし、お昼休みを入れず、十二時四十分からテストを始めさせてもらった。
 お弁当にスープは持ってきていたけれど、どうしても飲めそうになかったのだ。
 先生は、「私は食べさせてもらうね」と言いながら、愛妻弁当らしきものをカウンター内で広げていた。

 すべてが終わり、私はグラウンドを見下ろすことのできる観覧席に座っていた。
 さすがに持たせてもらったスープを手付かずで持って帰るわけにはいかない。
 時間をかけて少しずつ少しずつスープを飲んでいた。
 すでに生徒は皆下校していて人影はない。
 あと少しで三時半。
「……一時間経っても飲み終わらないなんて」
 思わず自分の胃に文句を言いたくなる。
 生徒がいない校内にチャイムの音が響くことはなく、まるで世界から切り離されてしまった空間のような気がする。
 雲にぽっかりと穴が開いた空を見ながら途方に暮れていると、ポケットの中でスマホが存在を主張し始めた。
 スマホを手に取ると、ストラップがさりげなく揺れる。
 ディスプレイには、秋斗さんからメールが届いたことを知らせる文字が並ぶ。
「秋斗、さん……?」
 今日も図書室でのテストだったけれど、会ってはいない。
 気にはなっていたけれど、昨日の今日でインターホンを押す勇気はなかった。
 のろのろとメールを表示させると、


件名 :昨日はごめんね
本文 :冷たい言い方をして……。
   あとで湊ちゃんに怒られました。

   風邪、翠葉ちゃんにうつらなかったかな?
   それだけが心配です。
   僕はもう治ったから安心して?
   心配かけてごめんね。
   それから、ありがとう。


「これに返信……。どうしよう――」
 まだ半分は残っていそうなトールサイズのサーモスステンレスを脇に置くと、メール作成画面を起動させた。
「うーん……。風邪はひいてないよね?」


件名 :風邪はうつっていないので大丈夫です
本文 :早く治ってよかったです。


「……かな」
 出来上がったメールは読み返すまでもない。
 タイトルと合わせて二行しかないうえに、なんとも味気ない文章だ。
 そうは思っても、これ以上の文章が出てくるとも思えず、そのまま返信することにした。
「……よかった、かな」
 ディスプレイに「送信完了」の文字を見て首を傾げてしまう。と、背後からカーペンターズの「Close to you」が流れ出した。
 びっくりして振り返ると、秋斗さんが立っていた。
 驚きに声をあげることもできずにいると、秋斗さんがしゃがみこみ、私の脇に置いてあったタンブラーを手に取る。
「もしかして、これが飲み終わるまでここにいるつもりだったとか?」
「……はい」
「でも、もうテストが終わってから一時間は経ってるよね?」
 何も言えずにいると、
「僕が飲もうか?」
 訊かれてびっくりしていると、秋斗さんがタンブラーを傾けゴクゴクと飲み干してしまった。
「ご馳走様」
 言って、タンブラーの蓋を閉めて渡される。
 熱、本当に下がったんだ……。昨日はあんなにつらそうだったのに……。
 すごいな。羨ましいくらいの回復力……。
 その回復力が少しでも私にあればいいのに。
「ね? 元気になったでしょ? もう熱もないよ」
 急に秋斗さんに手を掴まれ、額へとくっつけられる。
 私はびっくりして手を引いてしまった。
「あれ? 昨日は自分から触れてくれたのに」
 少し首を傾げて意地悪く笑う。
「昨日はっ、具合悪そうだったからでっ――」
「うん、ごめん。翠葉ちゃんとこうやって普通に話すこと自体が久しぶりで、少々意地悪が入りました」
 秋斗さんは笑いながら自分の非を認めた。
「昨日は、ハーブティーをありがとうございました。おかげで落ち着いてテストが受けられました」
「さっき刈谷先生に聞いたよ。全科目パスしたってね? おめでとう」
「古典はぎりぎりでしたけどね」
 そう言って立ち上がる。
 タンブラーの中身がなくなったということは、もうここにいる必要もない。
「それじゃ、私、帰ります」
「テストあと一日、がんばってね」
「はい」
 秋斗さんとはそこで別れた。
 熱が下がってよかった……。
 今日は元気そうで、よかった。
 それだけを思いながら歩いて帰ると、あっという間に栞さんの家に着いていた。
 制服を着替えながら思う。
 夕飯もまともに食べられる気はしない。
 早いうちに栞さんに話そう。今ならまだ間に合うかもしれない……。
 できればこの部屋で、ひとりで食べたいな……。
 どうしても、あの賑やかな食卓に自分が不釣合いな気がしてしまうのだ。
 普通に食べられたときは、とても楽しいと感じていたのに。

 栞さんの家に来てから、帰宅後にすぐお風呂に入るのが日課になっていた。
 お風呂に入る前に、栞さんに夕飯に対する要望を話すと、ひとりで食べることは問答無用で却下された。
「果物を一緒に出してあげるから、スープと果物を食べなさい」
 こればかりは従うしかないので、おとなしく引き下がる。
「みんなで食べるの、少し憂鬱だな……」
 湯船に浸かりながらバングルに触れる。
 バングルは、お風呂に入るときもつけたままなのだ。
 明日のテスト後、桃華さんに時間をもらっている。
 約束どおり、このバングルのことを話すために。
 司先輩が言うように、それほど恐れるような反応はされないのかもしれない。
 でも、話すことに勇気がいることには変わりない。
 お湯の中に腕を沈めては浮かせる。
 浮力を何度か感じたあと、お風呂を出ることにした。
 いつものように冷水を手足に浴びせ、開ききった血管を締める。
 これをやらずに上がると、眩暈で倒れてしまうから。
 こんな私が将来できる仕事など、あるのだろうか……。
 デスクワークですら、長時間椅子に座っている必要がある。
 私が就ける仕事などないのではないか、という不安が頭をよぎる。
 夕方六時を回ると、徐々に人が集まりだす神崎家。
 蒼兄が来ると、無事全教科パスしたことを伝えた。
「よかったな」
 と、笑顔で言ってくれたのは蒼兄だけで、ほかの面々は大笑いする人もいれば、顔を引きつらせる人もいる。
 前者は湊先生と静さん、栞さん。後者は海斗くん。
 なんとなく司先輩の表情をうかがい見ると、いつもと変わらない無表情だった。

 今回のテスト期間に楓先生と会うことはなかった。
 どうやら、術後が不安定な患者さんがいたらしい。
 楓先生が麻酔科医として勤務することになったのは、湊先生から聞いた。
 麻酔科、か……。
 今年もお世話になるのかな……。
 そんなことを考えつつ、その場の会話に耳を傾ける。
 静さんは夕飯を食べたらまたホテルへ戻るそう。
 この会食が今日で終わりということもあり、静さんはアンダンテのケーキを携えてやってきた。
 それを栞さんが喜び、
「はい、翠葉ちゃん。苺タルト」
 と、ご飯の席で私に出した。
 私は栞さんの顔を見て唖然とする。
「いいのよ。食べられるものを食べれば」
 周りの人の反応が気になって、ちら、と見る。
 静さんは不思議そうにしているものの何を訊いてくるでもない。そして、今の私の状況を知っている海斗くんたちもノーリアクション。
 ありがたいというよりも、ここまでくると誰かに突っ込んでほしい気がしてくる。
 居心地の悪さを感じながらタルトを口に入れると、程よい甘さと香ばしいタルト生地に自然と頬が緩む。
「今度から、うちのホテルにもアンダンテのケーキを仕入れることになったんだ」
「え? そうなんですか?」
「お、釣れたかな?」
 言われて恥ずかしくなる。
 でも、私はアンダンテのケーキで十分釣れます……。
「いつでも食べにおいで」
 静さんはにっこりと笑った。

 そのまま談笑が続き、八時になると静さんは仕事に戻り、司先輩と海斗くんは勉強のために湊先生の家へ移動した。
 蒼兄と湊先生はまだここにいる。
「翠葉、診察するから部屋に行ってなさい」
 湊先生に言われて、与えられた客間に戻る。と、少し遅れて湊先生がやってきた。
「ま、診察も何も、随時バイタルチェックしてるからそんなにやることはないんだけど」
 言いながらも、聴診器を使っての診察が始まった。
 二分くらい吸って吐いてを繰り返すと、
「何か抱えてる悩みは?」
「……将来について少々」
「将来?」
 湊先生は素っ頓狂な声をあげた。
「将来です……」
「……将来って、将来、よね?」
「そうですね……。進学とか、職業とか夢? ……あれ、それは何か違うかな? 職業かな?」
「……あんた、テスト期間中に何考えてんのよ」
 湊先生の口元が引きつる。
 今日の湊先生は黒のハイネックノースリーブと、黒の細身のジーパン。
 デスクの椅子に越しかけ、長い脚を組んでいる。
 身長があるので脚も長く、スタイルが良くて格好いい。
 胸元で鈍い光を放つ大ぶりのクロスのネックレスがアクセント。
「確かに……テスト期間に考えることでもないですよね」
 言われて気づいた。
 気づいたけれど、気づいたからそこで終わり、とはできないのが悩ましい……。
「先生は? 先生はどうしてお医者様になろうと思ったんですか?」
「うーん……お父様が医者だからっていうのが一番大きいかしら? でも、人体に興味があったからだと思うわ」
 人体に興味、か。
 私も多分に漏れず、自分の身体には色々疑問を抱いてはいるけれど、そういうのとはまた別なのだろう。
「でも、栞は別よ。栞はもともと世話好きなの。紫さんは医者の白衣が格好良く見えたからだって。意外とみんなそんなものよ?」
 そうなのね……。
 でも、それでお医者さんになれるのだからすごいと思うし、何よりもいいな、と思う。
「何をそんなに考えることがあるのよ。翠葉は?」
「……今使えそうな頭総動員で考えているんですけど、見つかりそうになくて……。デスクワークもきつそうだし、これならできるかも、と思えるものがひとつも思い浮かばないんです」
「その時点で何か違うでしょ? 夢ってのはなれそうなものを探すんじゃなくて、なりたいものを見つけるもの」
 ……そっか。そういう考え方もあるのか。でも――
「まずはやりたいことを見つけるのが先じゃないかしら?」
 考えるより先、湊先生に遮られた。
「でも――」
「それをやるにあたって何が障害になるのかはあとから考えればいい。最初から入り口を狭めるから見つかるものも見つからないのよ」
「……そう、なのかな」
「そうよ」
 湊先生に断言されるとなんでもそんな気がしてくるから不思議だ。
「ほらほら、そんなこと考えてる余裕があるならテスト勉強して一点でも多く採るっ! そのほうが選択肢も広がるわよ」
 言いながら、先生は部屋を出ていってしまった。
 そのすぐあとに蒼兄が来て、幸倉に帰ることを告げられる。
「あと一日がんばれ。荷物もあるし、明日はここで夕飯を食べることになったから。学校で待っててもいいし、先にここへ帰ってきててもいいから」
「うん。どっちにするかはまたメールするね」
 そう言うと、栞さんと湊先生に挨拶をして蒼兄は帰っていった。



Update:2009/06/22  改稿:2020/05/27



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