光のもとでT

第三章 恋の入り口



第三章 恋の入り口 30話


 ここ二日、教室内の風景と空気は変わらなかった。それも、四限のテストが終わるとガラリと変わる。
 憑き物が取れたかのようにはしゃぐクラスメイトは、ところどころでスマホの電源を入れ、メールチェックをしている人の姿が目立つ。
 大半の人は、午後から部活動が待っているのだろう。クラスの半数は、ホームルームが終わった途端に教室から出ていった。
 テスト一週間前から部活動停止になっていたため、みんなは身体を動かしたくて仕方なかったのかもしれない。
 飛鳥ちゃんはテストの出来を憂いつつも、海斗くんや佐野くんと共に、先陣を切って教室を出ていった。
「飛鳥は元気ね」
 桃華さんは言いながらかばんに荷物を詰める。
「みんなは普段運動しているのが普通だから、ここ一週間は運動ができなくて禁断症状が出てたのかも?」
 そんなふうに答えると、
「まるで檻に入れられた猿ね」
 桃華さんは少し呆れたように口にした。
「桃華さん、このあと時間もらえる?」
「……えぇ」
「話す、からね」
 少し声が硬くなる。と、
「そこまで力まれるとこっちもかまえちゃうわね」
 肩を竦めて笑われた。
「ごめんね。やっぱり少し勇気がいることなの。だから、どこかに力を入れてないと挫けちゃいそうで……」
 無理やり笑顔を作って答えると、
「翠葉、今日はお弁当持ってきてないわよね?」
 桃華さんにしては珍しく、話が飛躍した。
「うん……?」
 不思議に思っていると、
「じゃ、桜香苑に移動しましょうか」
「え?」
「サンドイッチを作ってきたの」
 桃華さんはにっこりと笑い、私の手を引いて歩き出した。

 外は風もなければお日様も出ていない。遠くの空には雨雲らしき雲が立ち込めている。
「降ってこないといいけど」
 桃華さんも空を見上げていた。
 たどり着いたのはいつものベンチ。
「内緒話の前に食べましょう」
 昨夜は苺タルトを食べ、今朝は柔らかく煮込まれたポトフを食べた。だから多少の固物形は食べられると思うけど……。
 不安を抱えながらお弁当箱を覗き込むと、桃華さんが作ってきたのはクリームサンドだった。
 卵や野菜が挟まっているサンドイッチじゃなくて、シンプルな白いホイップクリームと果物が挟まっている。
 一口食べるとほんのりと甘く、保冷剤効果で少し冷たくて、それが余計に食べやすくしてくれていた。
「おいしい……」
「蒼樹さんからあまり食べてないって聞いてたから、テスト中は少しヒヤヒヤしてたのよ?」
 ……あ、れ?
「いつから蒼兄と連絡を取り合ってるの?」
「そうね……。いつだったかしら?」
 思い出そうとはしてくれているみたいだけれど、具体的な日にちが出てくることはなかった。
 サンドイッチを食べ終わると、
「さて、内緒話を聞かせてもらおうかしら」
 私が芝生に座るものだから、最近は桃華さんも芝生に座るようになった。
 上着のボレロを脱ぎ、左腕の長袖を腕まくりする。
「これ……なんだと思う?」
 バングルを見せて訊く。
「触っても大丈夫?」
「平気」
 桃華さんは中指と人差し指でなぞるようにバングルに触れた。
「一見して普通のバングルに見えるけど……。でもそれなら、学校につけてくる必要はないわね」
「うん、そうなの。普通のバングルに見えるけど、バイタルチェックをする装置」
「……なんでまたそんなものを?」
 びっくりしつつ、「これが?」という顔をして、再度バングルに視線を戻した。
「秋斗さんが開発してくれた特注品。蒼兄と私へ贈られた誕生日プレゼントなの」
「誕生日近いの?」
「来月の一日で十七歳。蒼兄は来週の三十日」
「あら、お祝いしなくちゃ」
「ありがとう」
 誕生日の話で少しだけ場が和む。そんな空気のところに、こんな話はしたくないのだけど……。
「これをつけることになったきっかけは……」
 私が具合が悪いことを人に言わないから――その一言が出てこない。
「私が……」
 先を続けられない。話すと決めたのに――
「私が――」
「具合が悪いことを人に言わないから」
 口にできなかった言葉を桃華さんに言われて息を呑む。
「そんなの、少し考えればわかることよ。だから、毎日のように蒼樹さんや栞さんが張り付いているんでしょ?」
 見ていたら――見ているだけでそんなことまでわかってしまうのだろうか。じっと桃華さんを見ていると、
「でも、なんで人に言えないのか……。それは知りたいわ」
 黒いきれいな髪の毛を耳にかけ直し、こちらを向く。
 私は深く息を吸い込んでから口を開いた。
「具合が悪くて誰かに助けてもらうとき、ものすごく申し訳なくて自分が情けなくなるの。痛いのもつらいのも我慢できる。でも、人の負担になるのはすごくつらい。そういうことが何度か続くと、必ず思うことがある。……自分がいなくなればいいのに、消えてしまえばいいのにって思う。そういう気持ちが溜まっていくと、具合が悪いこと、誰にも言えなくなっちゃうの。それで倒れてまた自己嫌悪。私の場合、時と場合によりけりだけれど、処置が遅れると心肺停止する可能性があるでしょう? だから、私がそれをするのはすごく無謀なことで、自殺未遂となんらかわらないって――湊先生に言われるまで気づかなくて……」
 一度言葉に詰まると、その先を続けることができなかった。
 何度説明しても慣れない。自身のことと認めたくない。
 唇を強く噛み締めていると、
「……要は無自覚ってことよね?」
 コクリと頷く。
「それじゃ、その装置が翠葉の代弁をしてくれるのね」
 桃華さんはまるで眩しい光でも見るように、バングルを見つめる。
「最近は蒼樹さんがベッタリ張り付いてないのにも納得」
 と、桃華さんはクスクスと笑いだした。その反応すら私が予想していたものとは違って戸惑う。
 何をどう……と予想していたわけではない。でも、話したあとにこんな笑顔を見られるとは思っていなかった。
「なあに? 私の顔に何かついてる?」
「……どうして、どうしてそんなに普通に聞いてくれるの?」
「……とくに問題がないからよ。だって、翠葉は死にたくてその行動を取ってるわけじゃないのでしょう? あくまでも無自覚……。時に無自覚ほど怖いものはないけれど、今はその装置がついてる。ならば、最悪の状況を避ける道は確保されている。それなら何を怖がることもないわ」
 強く、真っ直ぐな眼差しを向けられた。
「学校って結構楽しいところよ? そんなに簡単になんでもかんでも諦めようとしないで? 私たちが寂しくなるじゃない」
 少し拗ねたような、そんな表情。
「本当に……この学校は楽しいことばかりで、桃華さんやクラスメイトに出会えたことも幸せだと思ってる。でもね、やっぱり人の負担にはなりたくないと思うの」
 最後まで桃華さんの顔を見て話すことはできなかった。
「だから?」
 だから……? その先も言うの……?
「……だから、今が楽しければあとは欲張っちゃいけないと思うの……」
「だから何? 高校を辞める覚悟もしてるっていうの?」
「辞める」という言葉にドキッとする。
 今まで自分が口にしたことはなかったし、人に言われたこともなかった。
 だから、実際に言葉として耳にすると、結構な衝撃があるのだと知った。
「やめてよね……。手を貸す人は貸したいから貸すの。助けてくれる人は助けたいと思うから助けるの。その手を自分から遠ざけて、そのうえ何? 人の負担になるのがいやだから辞める? 冗談言わないでよ。そんなことしたらうちのクラス全員が嘆くわよ? そんなこと、クラス委員として認められるわけないじゃない」
 言われていることは筋が通っている。ただ、クラス委員がそこまで背負う必要はないのでは、とも思う。
 それと同時に、桃華さんの責任感を強く感じるほどに、自分の身勝手さを恥ずかしく思った。
 人に迷惑をかけるのがいやだと言いながら、その人たちがいつか離れて行くことを恐れている。
 ならば――最初からその手を取らなければ悲しい思いをしなくてすむ。
 心の奥底でそう考えているのだ。
 大切なものは、一度手に入れてしまったら手放すことができなくなる。手放すときは、想像よりはるかに苦しい思いをする。
 それは蒼兄と同じで、少しの距離ですら不安に駆られるようになるだろう。
「みんな、出てきていいわよっ」
 桃華さんが後方へ向かって声を発した。
「翠葉、ごめんなさいね」
 桃華さんが顔の前で両手を合わせながらきれいに笑った。
 私たちがいるベンチの後ろには、人の背丈ほどあるツツジが植わっている。その影から出てきたのはクラスメイトたちだった。
 続々とその垣根から人が出てくる。
「桃華さんっ!?」
 あっという間に周りを囲まれ、
「簾条から、ホームルームが終わる直前に内緒話を立ち聞きしに来いって不穏なメールが届いたんだ」
 と、和光くんがスマホを見せてくれた。
 メールにはおおむねそのようなことが書いてあった。


件名 :立ち聞き大会
本文 :翠葉の秘密が知りたい人は放課後、ここに集まって。
   ただし、面白半分で来たら許さないから。
   翠葉を大切に思う人だけが来なさい。

   簾条桃華


 ずいぶんとふざけた件名だけれど、メールの内容は――
 そしてそのメールには、このベンチの写真が添付されていた。
 顔を上げると、スマホのディスプレイをこちらへ向けたクラスメイトに周りを囲まれていた。
 みんな私にメール画面を向けている。
 誰も笑っている人がいなかった。
 それどころか、希和ちゃんや理美ちゃん、女の子がちらほらと泣いていて、それを支えるように男子が立っている。
「せっかくこの学校に入ってきて同じクラスになれたんだ。焼ける世話くらい焼かせろや」
 そう言ったのは河野くん。
「翠葉、このクラスの大半の人が、翠葉がひとつ年上なことを知っていたわ」
 桃華さんに言われて目を見開く。
「どう、して……?」
「瀬川、説明してあげたら?」
 桃華さんが声をかけると、後ろの方にいた瀬川くんが円の中に入ってくる。そして女子の保健委員、亜美ちゃんも。
「俺ら保健委員だからさ、このクラスの保健カードとかの整理に駆り出されるんだよ。そのとき、生年月日を知った。最初は記入間違いだと思ってたんだけど……」
 瀬川くんの言葉を亜美ちゃんが継ぐ。
「間違いがあるといけないから、移動教室の合間にクラスの女子数人と川岸先生に訊きに行ったの。そしたら、間違いじゃないって先生が……。でも、本人が言うまでは言うなって言われていたから誰にも話してないよ?」
 そして佐野くんが、
「そのほかで知った人間もいる。移動教室のとき、チェッカーに学生証を通すだろ? その学生証を見れば気づく」
 うちの学校は移動教室で特別教室に入る際には全員の学生証をチェッカーに通すことになっている。
 教室とは違う席順になることもあり、カードを通すことで出欠確認が容易に取れるかららしい。
 特別教室の机上にもカードを入れておく装置があり、そこに学生証を挿入しておくと、誰が発言したのかが、教卓でわかる仕組みになっている。
 学生証とは、いわば学生であることを証明するカードであり、学校名のほかには名前、生年月日、住所などが記載されている。
 私、ものすごく迂闊だったのではないだろうか。
 机の上に出しっぱなしにしていたことが何度かある。
 迂闊を通り越して、無用心このうえない。
「でもさ、誰も何も言わなかっただろ? 誰も態度変えなかっただろ?」
 後ろから海斗くんが現れる。
「うちのクラスはこういうクラスだよ?」
 飛鳥ちゃんが私の右隣に座った。
「だからさ、もっと楽しもうよ」
 希和ちゃんが涙を溜めた目で言う。
「御園生はさ、がんばるのと諦めるの、どっちが簡単?」
 そう問いかけてきたのは佐野くんだった。
「どっちも――どっちも私には難しい」
「俺はがんばるほうが楽。諦めるのはさ、不完全燃焼でずっと燻り続けるから」
 それはわかる……。
「俺もー」
 と、声をあげたのは高木くん。
「あのときもっと全力で走ってたらあのボール奪えたかもしれない、とかさ。もっといいセンタリング出せてたらって思うときは、たいていどっか諦めて試合やってるときなんだ。でも、試合ってやり直しきかないからさ」
 彼はサッカー部だ。ゆえにそういう思いをしたことがあるのだろう。
「内容は違うかもしれない。でも、みんな一緒だよ? みんな何かに必死なの。恋愛だったり部活だったり勉強だったり趣味だったり。そういうの、周りの人は手伝えることあるでしょう? 相談に乗ったり、一緒にストレッチやったり、攻撃方法考えたり。勉強なんて得意分野教えあうのが普通だし……。だから翠葉ちゃんが苦しいときに手を貸せるのは嬉しいことだし、普通のことだよ?」
 一生懸命話してくれたのは、普段人前ではあまり話さない志穂ちゃんだった。
「こんなクラスメイトを残して高校なんて辞めてみなさい。みんな日替わりで家まで迎えに行きかねないわよ?」
 桃華さんの手が背に添えられた。
「桃華さん――どうしよう……」
「何を悩むことがあるのよ……」
「違う」
 私は首を横に振る。
「なんだよ」
 海斗くんに小突かれて、
「大切なものが増えると困るの」
 ぎゅっと目を瞑り答える。
「なんだよそれ……」
「何それ」
 ところどころから声がする。
「だって――自分が何を返せるのかやっぱりわからない。もし何も返せなくて、大好きだと思った人たちが周りからいなくなってしまったら? そのときこそ、絶対に耐えられない――」
 左から小突かれ、恐る恐る目を開けると、呆れた顔をした佐野くんがいた。
「バーカ……。御園生は頭いいくせにバカだ。それが杞憂だって言ってるんじゃんか」
 ……確か似たようなことを、司先輩にも言われた気がする。
「ホント、翠葉ちゃんって頭いいくせに学生証置きっぱだったり結構ドジ」
 小川くんが芝生にごろんと横になると、それまで周りを囲んでいたクラスメイトたちが次々と転がりだした。
 そんな中、希和ちゃんが目の前に来ていつものようににっこりと笑う。
「翠葉ちゃん、重たい荷物はみんなで持つものなんだよ」
「そうそう、みんなで手をつないでね。荷物の中には持ってあげられないものもあるけれど、そういうときは周りで支えになれるようにがんばるの。友達ってそういうものだよ」
 香乃子ちゃんが教えてくれた。
 桃華さんはというと、ひとりベンチに座り悠然とかまえている。そして、
「うちのクラスいいクラスでしょう?」
 と、それはもう自慢げに微笑むのだ。
 さっきから涙で目の前があまりよく見えてない。
 でも、クラスのみんながそこにいるのはわかっていて、曇り空の下だというのに、まるで陽が当たっているかのように、あたたかくて柔らかな空気がここにある。
「はーい! 依頼されてやってきましたー! 桃ちゃん、これを撮ればいいんだよね?」
 現れたのは加納先輩で、首にデジタル一眼レフを引っ提げ、脚立を持ってやってきた。
 何……?
 不思議に思っていると、クラスの人間がぎゅうぎゅうに寄ってきて、脚立に跨った加納先輩のカメラに視線を向ける。
「翠葉ちゃん、笑って! 記念撮影だよ!」
 加納先輩に声をかけられ、
「え……?」
「ほら、みんなもっ! 翠葉ちゃんが笑わないといい写真になんないよー!」
 加納先輩の言葉に触発されたかのように、あちこちから手が伸びてきてはくすぐられる。
「きゃっ、や……ちょっと待ってっ――」
 あわあわしているうちに何枚もシャッターを切る音がした。
 挙句には、部活に行く途中通りかかった人まで乱入する騒ぎとなり、最後には桜香苑にいた人たちの集団写真になっていた。

 あのときの、あたたかな雰囲気をそのまま閉じ込めた写真は私の宝物。
 私はきっと、このクラスとの出逢いを一生忘れないし、この場に集まってくれた人たちを決して忘れない。
 写真に写る友達の笑顔はスターダストのようにキラキラと光っていて、まるでみんながみんな、向日葵のような笑顔だった。
 その写真は、写真盾に入れて自宅の飾り棚に飾ってあるし、手帳の中にも挟んである。
 写真には海斗くんの字で、「Union is strength!」と書かれており、桃華さんの流麗な筆記体で「While there is life,there is hope.」と書かれている。
「団結は力なり」と「命ある限り希望あり」。
 桃華さんのメッセージは以前湊先生に言われたことがある。
「死ぬな」――という、とても直接的なメッセージ。
 その言葉は重い。けれど、何よりも強く真っ直ぐ心に響いた。
 私は、この日を忘れない――

一年B組





Update:2009/06/22  改稿:2020/05/27



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