「姉さんが戻るまで御園生さんがついてるって」
「……すごく悪いの?」
「いや……。今、梅雨だろ? 普段元気な人でも体調崩しやすい季節」
そう言うと、「代わる」と私の手から木ベラを取り上げた。
「リィは海斗っち起こしてよ」
「はい」
ソファまで行くと、ついつい座り込んでまじまじと見てしまう。
いつも元気で格好いい海斗くんとは違い、寝顔はかわいい。
「メガネそっち行ったっっっ!」
突然の大声にびっくりして思わず飛び退く。
……な、何?
心臓がバクバクいっていて、胸元を両手で押さえてしまう。
気づくとすぐそこに司先輩が立っていて、
「いい加減起きろ」
と、海斗くんの足に蹴りを入れた。
「……って〜、司蹴んなよ」
海斗くんは億劫そうに起き上がった。
司先輩は人を蹴るのが上手だと思う。今朝のサザナミくんの背中にもきれいな足跡がくっきりとついていたし……。
「っていうか、翠葉は何尻餅ついてるんだ?」
海斗くんに顔を覗き込まれ、「あぁ、これは尻餅というのか」などと納得する。
「海斗が変な寝言を言うからびっくりしたんだろ」
言いながら、司先輩はキッチンへと戻っていった。
「げ、マジっ!? 俺なんて言った?」
「……メガネ、そっち行った……」
いったいどんな夢を見ていたのだろう。
「そうなんだよっ! メガネっ……あの深緑のセルフレームは絶対に司に似合うと思ったんだけどなぁ……。全力で逃げるんだもんなぁ……。佐野と一緒に追ってたんだけどどうしても捕まえられなくてさ」
メガネが全力で逃げるって……それ、どんな夢でしょう。
不思議に思っていると、唯兄が丼を持ってやってきた。
「っていうか、海斗っち、それどんな夢よ」
「え? メガネが逃げる夢だけど?」
「変な子だとは思ってたけど、本当に変な子だよねぇ〜」
笑いながら唯兄もキッチンへと戻っていく。
海斗くんはその姿を目で追いながら、
「そんなに変?」
真顔で訊かれて唸ってしまう。
「うーん……少し、おかしいと思いました」
「それ、実は少しじゃなくてかなり変だと思ったんだろ?」
言われて苦笑を返す。
「くっ、本当に翠葉って正直者だよな」
海斗くんはキッチンの中を見やり、
「栞さんは?」
「具合悪くておうちに帰ったの」
次に海斗くんは卓上カレンダーに目をやり、納得したふうの言葉を発した。
その動作も言動も気になったけれど、どのあたりに的を絞って尋ねたらいいのかがわからなくて、結局何を訊くこともできなかった。
間もなくして、司先輩と唯兄がカレーのプレートを手に戻ってきた。
「海斗、スプーンと取り皿持ってきて」
司先輩の声に、海斗くんはソファを飛び越えて行く。
すごいなぁ……。ソファの背をものともせずに飛び越えちゃうなんて……。
「リィ、おうどん伸びちゃうよ」
唯兄に指摘され、目の前に置かれたおうどんを食べることにした。
丼の中にはちくわと卵、鶏肉と長ネギが入っている。
長ネギは薬味の効果をもつものと、熱が加わって少しとろけているものとふたつ入っていた。
これ、二回に分けて長ネギ入れたのかな……。
スープを口にすると、
「鶏ガラスープのおうどん……?」
「そう、口に合わない?」
「ううん、とても美味しい……。なんだか新鮮」
栞さんが作ってくれる毎朝のお雑炊に少し似ていた。
思わず、優しい味に頬が緩む。
「そういう顔して食べてくれると作り甲斐あるよなぁ〜」
唯兄はにこにこと笑っていた。
「だってとっても美味しい!」
「一口ちょうだい!」
海斗くんに言われてそのまま器を渡そうとすると、
「海斗、行儀悪い。スープならまだ鍋に残ってるからそこから取ってこい」
司先輩が厳しく制した。
「一口くらいいーじゃん」
言いながらもキッチンへ行く海斗くんは素直だと思う。
「翠も、人の口にしたものを口にするな。風邪はそういうところからも感染する」
そっか……。でも、海斗くんが風邪をひいているようには見えないから、あまり問題なかったと思うんだけどな……。
そんなことを考えていると、私の右側に座っていた唯兄がソファにコロンと転がって笑いだした。
「あんちゃんも過保護だけど、司くんも過保護だよね」
言いながらお腹を抱えて笑っている。
「司先輩はお医者さんを目指してるんだよ。だから、普段からとても難しそうな医学書を読んでいるの」
「あぁ、司くんところはもろに医療系だもんね」
言いながら唯兄は身体を起こす。
「このカレーも手抜きって言いながら、確かに手抜きだけど美味しいし」
左隣の先輩のプレートを見ると、グリーンピースに角切りのにんじん、それからコーンと大豆……。あとはなんだろう?
「ミックスベジタブルと大豆の水煮。それからシーチキンを炒めて水入れてカレーのルーを入れるだけ。隠し味にバターとすりおろしにんにく。以上」
なるほど……。
「え? 私、何も言いませんでしたよね?」
「目が言ってた」
そっか……。ん? いやいやいやいや――
「先輩、あまり私の思考を読まないでください。時々ものすごくびっくりします」
「それなら、人にわからないように仮面でもつければ?」
それもどうかと思う……。
こんなふうに夕飯の時間はゆっくりと過ぎていった。
最後のおうどんをお箸で掴むと玄関で音がした。
「蒼兄っ!?」
すぐに立ち上がろうとした私を阻む手があった。
その手は左側から伸びている。
「……すみません、ごめんなさい……」
「わかればいい」
こんなやり取りは司先輩といるとよくあることで、それはつまり、それだけ私が不注意な行動を取っているということでもあった。
反省……。
「翠葉、ただいま。手洗いうがいしたらそっちに行くから」
と、廊下から声をかけられる。
それには頷いたものの、身体は廊下を向いてしまう。
左隣の先輩は立ち上がってキッチンへと入っていった。
あ、そうか……。蒼兄のご飯……。
「彼のあれはもう条件反射みたいだよね?」
唯兄を振り返ると肩を震わせて笑っていた。
なんだか今日は唯兄に笑われてばかりだ。
「なんかさ、翠葉といるとみんなそうなっちゃうんだよ」
海斗くんが唯兄に向かって言うけれど、それはちょっと嬉しくない。
「なるほどねぇ〜」
それで納得されてしまうのも嬉しくない。
……もっと自重しよう。
蒼兄が洗面所から出てくるのと同時、司先輩が蒼兄のカレーを持ってキッチンから出てきた。
「蒼兄、栞さんは?」
「夏風邪と疲労、生理が一緒に来ちゃった感じ。でも、湊さんも付いてるし大丈夫だよ」
「本当?」
「うん」
そのとき、隣から変な音が鳴りだした。
司先輩がジーパンのポケットから携帯を取り出しすぐに出る。
「――ある。――わかった」
二言ほど喋ると携帯をしまった。
「……先輩、携帯の着信音が警報機みたいな音してましたけど……」
「あぁ、姉さんからの電話なんて基本いいことないから警報機の音で十分」
湊先生、弟さんにものすごく危険人物みたいな扱いされてますけど……。
「くっ、相変わらずだな。その分だと、秋斗先輩からの着信音も未だに警報機?」
蒼兄が訊くと唯兄が笑い出した。
「司くん、俺といい勝負! 俺なんてオーナーと秋斗さんの着信音はダースベーダーとジョーズだからねっ」
唯兄も司先輩も、思考回路が似ているのではないだろうか……。
「……あの、因みに私の着信音は?」
恐る恐る尋ねると、
「目覚まし時計の音」
「……ジリリリリーン?」
「違う、電子音の単調なやつ」
「……普通で良かったです」
思わず胸を撫で下ろす。と、
「ご希望とあらば、警報機、もしくは救急車のサイレンにするけど?」
「そんなこと希望しないし真顔で提案しないでください。意地悪……」
「……なんとでも?」
澄ました顔でトマトサラダを食べ始める。
「……美味しい」
「……トマト?」
「いや、ドレッシング」
「簡単だよ? サラダオイルとお醤油は一対一。あとは塩コショウで味を調えるだけ」
「ほかのサラダにも使えそう。お酢やレモンを入れても風味が変わるな」
言いながら、またトマトにお箸を伸ばした。
海斗くんも唯兄も、よそったトマトサラダは全部食べてくれた。
蒼兄もカレーを食べつつトマトに手を伸ばす。
その顔に珍しくしわが寄っていた。メガネのせいかな、と思ったけど、見間違いではなかった。
「蒼兄……?」
「どうした?」
訊き返されたときにはいつもの表情に戻っていたけれど、
「険しい顔してた。……何かあった? お部屋もすごいことになってたし」
「……あぁ、唯が仕事忙しいって言ってただろ? それの手伝いをすることになった」
「秋斗さんのお仕事?」
「そう。出張先から指令が下された」
そう答えた蒼兄を唯兄が凝視する。
蒼兄は唯兄に向かって、
「いつものことだろ」
と、なんでもないことのように笑った。
「……確かに。そっか、いつものことだった」
どこか不自然に思える会話のやり取りだったけれど、私には仕事のことはわからないのでそれ以上何かを訊くのはやめることにした。
約一名、会話に入ってこないと思ったら、海斗くんはテーブルに突っ伏して寝ていた。
そして、テーブルの片付けを始める人も約一名。言うまでもなく司先輩である。
それを手伝うためにキッチンへ行くと、司先輩は食洗機に食器を入れながら、
「俺、このあと海斗連れて帰るから。場合によっては明日も夕飯作りに来る」
そう言ってキッチンを出ていったけどなんだか申し訳ない気がしてしまう。
それでも、自分の体調が万全ではないことから「自分が作る」と言うことはできなかった。
キッチンからリビングを見ていると、唯兄と蒼兄が話している中、司先輩がさっきと同様海斗くんを軽く蹴飛ばした。
「寝るなら秋兄の家に帰れ」
「んー……そうする」
海斗くんはだるそうに身体を起こす。
学校ではあんなに元気だけれど、部活をやって帰ってくるとソファで寝ていることが多い。
やっぱり、夏の屋外での運動はきついのかな。
そんなことを考えていると、帰り際の先輩に声をかけられた。
「このあと姉さんが夕飯食べにくるからよろしく」
「あ、はい。わかりました。……色々とありがとうございます」
「別に、礼を言われるほどのことはしてない」
司先輩は素っ気無くゲストルームを出ていった。
Update:2009/07/28 改稿:2017/06/19
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