光のもとで

第12章 自分のモノサシ 18話

「翠葉ちゃん、司が迎えに来たよ」
「……ん」
 優しく身体を揺すられ、起こされていることに気づく。
「う……は?」
「……それ何語?」
 あれ? 私、今何を言っただろう……? ツカサ、と言ったつもりだったのだけど……。
 目を開けたら自分の左側にツカサがいた。でも、起こしてくれた声はツカサのものではなかった気がする。
「おはよう。よく眠れたようで何より。もう六時半だけどね」
 ツカサがあまりにもきれいに笑うから、一瞬何を言われたのかわからなかった。
 言われたことを何度か反復して意味を理解する。
 え――六時半?
「わ、嘘っっっ――」
 飛び起きて後悔。しかも、ツカサの目の前……。
 視界がチカチカしだす瞬間、反射的にものに掴まろうと手を伸ばした。
 その手を掴んでくれたのはきっとツカサ。
 身体がぐらりと傾ぐ。
 せめて右側の背もたれ側に倒れられたら良かったのに……。
 残念なことにツカサの側へと傾いてしまった。
 でも、これは眩暈のせいではなく、少し重心がずれてしまっただけ。
 すると、ものすごく近い場所からツカサの容赦ない言葉が飛んできた。
「いい加減学べ――いや、会得習得獲得制覇してこい、バカ」
「……ごめんなさい」
 色んな意味でごめんなさい……。
「エトクシュウトクカクトクセイハ」って、全部カタカナで聞こえてきたから瞬時には理解できませんでした。
 そのくらいにまだ私の頭は回っていない。
「つらいのは俺じゃないからいいけど……。三十分多く休憩取った分しっかり働いてもらう」
 目の前のチカチカはまだ取れず、未だモザイクがかった状態。
 その状態の目ではツカサがどんな顔をしているのかは見えない。
 けれども、脳内には「これかな?」と思う表情が浮かび上がる。
 思い出したらとにかく「ごめんなさい」で、「仕事がんばります」で、余計なことは口にしないようにとコクコク何度も頷いた。
「阿呆、頭を振るな」
 片手は私の手が掴んでいるから、もう片方の手で頭ごとソファの背もたれに押し付けられた。
 でも、確かに頭を振ったら余計にぐわんぐわんした気はする。
 モザイクが取れて視界がクリアになったとき、目の前にある時計に驚いた。
 短針は六と七の間くらいで、長身は七の少し手前。
 うわっ、六時三十四分っ――
「本当に六時半っ、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ。一生懸命やるから起案書取り上げないでっ? あ、それとも……もう作り終わっちゃった?」
 掴んでいる手をブンブン振ってひたすら謝ってひたすらお願いしてみたけれど、もう作り終えてたらどうしようっ!?
 ツカサはブンブン振られた手を、「落ち着け」と言わんばかりに止めては離し、ため息混じりに口を開く。
「そんなに必死に請われなくたって取り上げたりしない」
「本当っ!?」
 じっとツカサを見ると、「本当」と答えてくれた。
「良かった……」
 ツカサはすぐそこにいるけれど、私の手はとんぼ玉を探しに行く。
 指先にひんやりとした感触を得ると、次のものを探し始める。
 それは携帯。
 別に今すぐ必要なわけじゃない。でも、傍らにないと少し落ち着かない。
 入院中に身についてしまった依存症――
「次は何……」
 思い切り呆れたふうのツカサに携帯がないと言うと、ソファの手すり近くにいた秋斗さんが教えてくれる。
「携帯はダイニングテーブルの上」
 どうやら、私はお茶を飲んだときに携帯をテーブルに置いたようだった。
 ダイニングテーブルを振り返ってさっきの出来事がよみがえる。
「わ――」
 思い切り赤面している自覚があるだけに、恥ずかしくて隠れたい衝動に駆られる。
「本当にすみません……」
 何に謝罪しているのかわからないくらいに恥ずかしい。
 あんなに泣いて話してさらには寝過ごして、携帯がないと慌てて――
 もうやだ、隠れる場所がない……。
 色々居たたまれなくて、その場を離れることにした。
 ……といっても、ダイニングテーブルに移動するだけ。
 この部屋の中であることに変わりないけれど、少しでも身体を動かして頭の回転率をもとに戻したかった。
 それに、泣いたまま寝てしまったので、自分の顔がどんなことになっているのかが知りたい。
 けれどもこの部屋に鏡はなかった。
 自分のかばんの中にならコンパクトミラーが入っている。でも、それは隣の図書室に置いてあるわけで……。
 ……美乃里ちゃんだったらポケットにコンパクトミラーを入れて持ち歩いてるんだろうな。
 そう思うと、自分の女子力の低さを感じずにはいられなかった。
 ないものはないのだから仕方ない――諦めて顔を上げたとき、簡易キッチンに備え付けられているカップボードのガラス戸に自分が映った。
 あ……気にするほど目は腫れてないかも?
 そんなことにほっとしてテーブルの携帯に視線を向けると、携帯の下に「起案書」と書かれたプリントが置かれていた。
 秋斗さん、本当に用意してくれたんだ……。
「秋斗さん、これ、ありがとうございますっ」
 秋斗さんを振り返ってお礼を言うと、「どういたしまして」とにこやかな笑顔が返ってきた。
「あとで生徒会のメールアドレスに送っておく。俺が学生時代に作ったフォーマットよりはいいんじゃない?」
 秋斗さんはツカサに向かってそう言った。
 ……ということは、今使っている文書関連のフォーマットは全部秋斗さんが学生のときに作ったのもなのだろうか。
 あれこれ考えているとインターホンが鳴った。
『茜です。プリンタのインクを取りにきました』
 ロックが解除されると茜先輩が入ってくる。
「茜先輩、すみません……」
 ただでさえ人よりも長い休憩時間をいただいているのに、そのうえ三十分も超過だなんて……。
「本当にごめんなさい……。携帯のアラームセットするの忘れてしまいました」
 ごめんなさいごめんなさいごめんなさい――
「いーよいーよ! 実は、もう三十分寝かせてあげてって言ったのは私だから。勝手にごめんね。でも、翠葉ちゃんはいっぱい計算してくれるからね」
 茜先輩に優しく抱きしめられると、ふわり、と甘いお菓子のような匂いがした。
 頬をくすぐるふわふわの髪の毛が離れると、茜先輩は窓際へ向かい、
「インクってこの箱でしたよね」
 と、ダンボールをカパリと開ける。
 連日あれこれプリントアウトしているから、黒のインクはほかの色よりもなくなるのが格段に早い。たいていはツカサがこの部屋にインクカートリッジを取りに来るのだけど――
「翠、戻るよ」
 ツカサに声をかけられ思考が遮断された。
「はいっ」
 すぐドアに向かって歩き始め、思い出したかのようにくる、と秋斗さんを振り返った。
「秋斗さん、本当に……本当にありがとうございました」
 ちゃんと「ありがとう」を伝えたくて、いつもより丁寧にお辞儀した。
 またツカサに体勢を変えたことを怒られるかと思ったけれど、とくには何も言われなかった。
 ゆっくり動けば怒られないのかな……?
 秋斗さんは「いいえ」と優しく甘く笑う。
 そしてこう続けたのだ。
「あのさ、ふたりともどう思う? できることをやらないでいるのと、上限以上のことを無理してがんばりすぎちゃうの。……俺はどっちにも色々問題があると思うんだけど」
 え……?
「ツカサ、おまえは俺が学生時代に作ったフォーマットよりもっといいものを作れただろ? なのにどうして作ろうとしなかった? 何も変える必要がないと思った? それとも――現状に満足しているから?」
 ――「できることをやらないでいるのと、上限以上のことを無理してがんばりすぎちゃうの」。
 ふたつは全く正反対の意味と持つ言葉。
 秋斗さんはそのうちの前者をツカサへ向けて言ったようだ。
 それなら、後者は私――?
「――いや、なんでもないよ」
 秋斗さんはそう言いなおしたけれど、胸がチクリと痛んだのはどうしてだろう……。
「ほら、仕事に戻った戻った」
 この部屋から急かされるようにして出たことはなかったと思う。でも、今は間違いなく出ていくように促された。
 実際、もう時間は六時四十分だし、起案書を作らなくちゃいけないし、早く仕事に戻らなくちゃいけなかったんだけど……。
 あまりにもいつもと違う感じがして違和感を覚えた。
 言われたことの意味もまだきちんと把握できていない。
 それを考えようとしたら、
「翠葉ちゃん、おかえり! 資料揃ってるよ」
 優太先輩に声をかけられる。
 ほかのメンバーは必要な場所に出向いているのか、図書室にはいない。
 放送委員の人たちも数人を残して桜林館の放送室へ移ったようだ。
「あのっ、休憩時間オーバーしてしまってごめんなさいっ」
「気にしない気にしないっ! さっ、これですこれです」
 優太先輩は資料の数々をテーブルに並べてくれた。
「熟睡できた?」
 訊かれて、恥ずかしいと思いつつもコクリと頷く。
「そんなかしこまんなくていいよ。熟睡してるときの三十分や一時間ってすっごく短く感じるしさ」
 あまりにも共感できることに、コクコクと頭を振る。と、
「だよね、そうだよね」
「実は……五分くらいしか寝てない気がするんです。でも、実際は一時間も経っていてびっくりしました……」
 私の答えに優太先輩が「ん?」って顔をした。
「計算合わなくない? 五時には休憩に入ってて今……」
 時計に目をやられて、わわわ、と慌てる。
「すみません……あの……起案書を任せてもらえたのが嬉しくて、嬉しすぎて……最初の時間は眠れなくて――」
「あ、そっか。そうだよね? すっごく喜んでたもんね。そっかそっか、すぐには眠れなかったか」
 優太先輩は笑って許してくれるけど、起案書の件だけで眠れなかったわけではなくて、全部話していない自分が少しずるい気がした。
 でも、あえて話すことでもなければ、そんなことに時間を使うのも絶対的に間違っているから、と理由をつけて私は口を噤んだ。
「見ながらやればできると思う。もしわからないことがあったらそこの難しい顔した人に聞いてごらん」
 優太先輩はツカサを指した。
 私の右隣に座っているツカサは本当に難しい顔をしていて、いつもよりも少しだけ近寄りがたい空気を纏っている。
 しかも、私と優太先輩の会話も耳には入っていないようだ。
 珍しい……もしかして、さっき秋斗さんに言われたことを考えているの?
「残り時間四十五分、はいがんばって!」
 優太先輩の言葉に、意識を仕事へ戻した。

 新しく用意してもらったフォーマットを念のため一部コピーしてから作業に取り掛かる。
 いくつか前例を見たけれど、基本的なことは何も変わらない。
 そう思って下書きに、とシャーペンを手に取ったとき、隣から低い声で「ムカつくな……」と聞こえた。
 聞き間違いではない。ツカサが口にした言葉は間違いなく「ムカつくな」。
「ごめん。私、何かした?」
 言葉をかけたけれど、ツカサの視線は私を向いてはいなかった。
 私に対して言った言葉じゃない……?
「……というか、ツカサは休憩取った?」
 人がどのタイミングで休憩を取るのかはその日によって異なるし、決まった時間に休ませてもらっているのは私くらいだ。だから、ツカサが休憩を取れているのかも知らなかった。
 ツカサは少しだけ表情を変え、
「いや、翠に対して言ったわけじゃない。それから、休憩はもう取った」
 言葉少なに、簡潔に答える。
「げ、じゃぁ何? ムカつくの対象って俺っ!?」
 優太先輩が会話に加わると、
「あぁ、そうかもな。ちょうど目の前にいたし」
 さらりと答えたけど、きっと違う。
 なんとなくだけれど、ツカサは秋斗さんに言われた言葉をずっと考えていた気がする。
 それがどうして「ムカつく」という言葉にたどり着いたのかは想像もできないけれど。
 優太先輩も何かを察知したようで、この場の雰囲気が悪くならないように、と会話を続けてくれる。
「すみません」という言葉に濁点をいっぱいつけて土下座するみたいに、テーブルに額をゴツンとつけた。
 その音があまりにも痛そうで、「大丈夫ですか?」と声をかけようとしたら、
「優太、それ……愉快にも不愉快にも見える」
 ツカサがものすごく呆れた顔で口にした。
 あ……いつものツカサだ。
 顔を上げた優太先輩は「本当にごめんなさい」と背筋を正した。そして作業に戻る直前に、「大丈夫だよ」という感じの笑みを向けてくれた。
 うん、大丈夫――でも、ツカサは大丈夫なのかな……?
「翠、余所見する暇があるなら今日中、あと三十分以内に起案書仕上げろ」
「が、がんばるっ」
「……わからないところがあれば訊いてくれてかまわないから」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
 ツカサ、私も気になってる。
 さっき秋斗さんが言ったこと、気になってるよ。
 でも、今は起案書に集中する。
 私の頭はあれこれ同時に考えられるほど器用じゃないし、そんなことをしていたら使い物にならない起案書になっちゃいそうだから――



Update:2010/06/02  改稿:2017/07/09



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