光のもとで

第12章 自分のモノサシ 19話

 今日の見回りは海斗くんたちの日で、私は七時半ギリギリまで起案書を作成することができた。
 一応形にはなったと思う。
 それをツカサに提出したときには七時半を回っていて、「家に帰ったら確認する」とツカサはクリアファイルに入れてかばんにしまった。
 そのとき、自分の携帯が震えた。
 誰……?
「あ――」
 ディスプレイには唯兄の二文字。
 今日は唯兄が帰ってくる日だったのだ。
 慌てて通話ボタンを押す。
「唯兄っ!?」
 我ながらひどい出方だったと思う。でも、通話相手はちゃんと唯兄だった。
『リィ、ただいま』
 久しぶりに耳にする声がくすぐったい。
「もうマンション?」
『ノンノン、免許取れたぜ! ってことで職員用の駐車場に車で来てるよ』
「本当っ!? ……でも、車は?」
『湊さんが貸してくれたラパン。これ、教習車よりも小さくて小回りきいて運転しやすい』
 蒼兄の乗る車はステーションワゴン。対して、湊先生の車は軽自動車だ。
 蒼兄の車が大きな車というわけではないけれど、それよりも小さい湊先生の車のほうが運転しやすいのかもしれない。
 何よりも、私は湊先生の車が好きだ。
 何度か乗せてもらったことのある車はクラシカルな雰囲気がある。そして、優しい水色が何よりも好きだった。
『もう終わりでしょ? そしたらおいでおいで』
「うんっ!」
『じゃ、待ってるねー』
 通話を切ると、ツカサが「若槻さん?」と訊いてくる。
「うん。車の免許を取りに行っていて、二週間くらい合宿でいなかったの。でも、無事に免許取得できたみたい。今、職員用の駐車場で待ってるって。だから、今日の帰りは車だよ」
 いつもツカサと一緒に帰っているからそのつもりでそう言うと、思わぬ言葉が返ってきた。
「若槻さんが来てるなら俺が一緒じゃなくても大丈夫だな」
「……え?」
「実家に取りに行きたい本があるから、若槻さんが来てるなら実家へ帰る」
「あ、うん……」
 どうしてか少しテンションが下がった自分がいた。
 あまりにもツカサが一緒であることを当然のように思っていたから。
「そうだよね……。真白さんも涼先生も、みんながマンションにいるんじゃ寂しいよね」
 そう言ってこの会話を終わらせたけれど、私の心には黒い影が差した。
 どうしよう――なんで「当然」なんて思っちゃったんだろう。それはとても危ないことなのに……。
 ここのところ、「大丈夫」「何度でも言う」と優しい言葉ばかりを聞いていたからかな……。
 感覚が少し麻痺しているのかも。
 違う――違う違う違う……。
 その人たちが言ってくれた言葉は絶対に疑わないって決めた。
 信じてる、信じるの――全部丸ごと。
 目を瞑り心を落ち着けるおまじない。
 何度も繰り返し聴いたひとつの声を頼りに数を数える。
 一から十までの数は心を切り替えたいときに使うけど、心を落ち着けたいとき、ツカサの声を思い出すことがとても効果的だと気づいた。
 でも、原因がツカサだとあまり効果はないようだ。心がザワザワ落ち着かない。
 なんだろう、これ……。
 ひどく胸が締め付けられるような、そんな感覚――

 今日はほとんどのメンバーが見回りが終わる時間まで図書室に残っていて、見回りを終えた海斗くんとサザナミくんと実行委員の人たちみんな揃って昇降口から出た。
 私は藤山や大学門方面に帰るツカサと海斗くん、サザナミくんと一緒だった。
「なんで翠葉がこっち?」
 不思議そうに尋ねる海斗くんに、
「唯兄が車で迎えに来てくれているの」
「あ、じゃぁ俺挨拶してくー!」
 駐車場へ一緒に行くのは海斗くんだけかと思ったら、ツカサもサザナミくんも一緒に来てくれた。
 エンジンのかかった車を見つけると、
「あっれー? 湊ちゃんの車じゃん」
 海斗くんが駆け寄ると、窓を開けていた唯兄が、
「おっ! 海斗っち、久しぶり!」
「久しぶり久しぶり!」
 ふたりは軽く殴るような攻防をしていた。
「御園生さん、あの人誰……?」
「兄の――」
 私が答えようとすると、
「リィがいつもお世話になってるのかな? 兄の唯芹です」
 サザナミくんは、「イゼリ?」と首を傾げては、
「あ、自己紹介が遅れました。御園生さんと生徒会で一緒の漣千里です」
 と、礼儀正しく挨拶をする。
 普段のサザナミくんからすると、かなりかしこまった挨拶だった。でも、その雰囲気は私を振り返るとすぐに変わる。
「お兄さん、ふたりもいたっけ? 俺の御園生さん情報だと、インテリ風の背の高い人がひとりだったんだけど……」
 なんて答えようか迷っていると、海斗くんが一言。
「おまえの情報あてになんねーのな」
 たったの一言でその場をやり過ごすことができた。
「んじゃ、挨拶も済んだことだし」
 と、海斗くんはサザナミくんの肩に腕を回し、「また明日な」と歩きだした。
 ツカサは始終一言も口を開かなかった。
 徐々に遠ざかる姿は、しだいに闇色に紛れてしまう。
 私は人影が見て取れなくなるその瞬間まで、ツカサの背から視線を剥がすことができなかった。
「リィ? 寒いから早く乗っちゃいな。もっとも、取り立てホカホカの初心者マークですけどね!」
 声をかけられはっとした。
「う、うん。免許取り立てでも大丈夫。だって、蒼兄が免許取り立てのときも助手席に乗っていたもの」
 笑って車に乗り込むと、
「何かあった?」
 即座に訊かれた。
 こういうタイミングでさらっと訊いてくるのは唯兄ならではのフットワーク。
「色々あって……何から話したらいいのかわからなくなっちゃった」
 すでに半泣きの自分が嫌……。
 どうしてこんなに涙が出るようになってしまったのだろう。もっと我慢できたはずなのに……。
 どうして最近はこんなに泣いてばかりなんだろう……。
「俺、明日は一日休みなんだよね。リィの話いっぱい聞けるよ?」
 そう言ってにこりと笑った。
 その笑顔にほっとする。
「唯兄はラヴィみたい。ふわっとしてて優しい」
「あれ? 俺がウサギさん? そりゃ嬉しいや。狼とか能無しとか言われるよりも断然嬉しいよねっ、うん」
 言っている意味はよくわからなかったけど、自分を包むこの空気――唯兄の雰囲気にはものすごく救われている気がした。
「でもね、明日も紅葉祭の準備で学校なんだ」
「あ、栞さんから聞いたんだけど、明日の午前中は病院に来いって言われてるみたいよ?」
「え……? でも、明日って日曜日……」
「そうだよね? ま、俺が送っていくことになってるから大丈夫! 超絶安全運転で送るよっ!」
 唯兄は華奢な胸を自分の手でポン、と叩いては「ぐへ、痛い……」と零した。



Update:2010/06/02  改稿:2017/07/09



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