なんとなく、藤倉駅近くのマンションにいると言われたような気がしなくもない。
ただ、その情報をいつ得たのかがわからないから訊いてみた。
唯兄はくつくつと笑いながら答える。
「何度も言った。聞いてるのか聞いていないのかわからないリィに向かって。呪文みたいに唱えてた。良かった、洗脳されてくれて」
「洗脳って……」
私は苦笑する。
私の中にぽっかりと開いた時間は寝ていたわけではないらしい。
唯兄曰く、私の目はずっと開いたままだったみたいだから。
私の考えは正しかった。「目を開ける」という動作をした記憶がないのは行動そのものをしていないから。
ポカリを飲んだあとから唯兄が目に映るまでの記憶だけがない。ツカサのことを考えていた気はするけれど、何をどう考えていたのか、その部分もはっきりとはしない。
「記憶」というものに過敏になっているのか、それはそれで不安になるし怖くないわけではないけれど、今は自分のことよりも別のことが心を占める。
「唯兄」
「ん?」
「私、ツカサのところへ行きたい」
唯兄が無言で私の目を覗き込む。
「……まさか、今から?」
「うん……藤山の家にもこのマンションにも帰ってきていないのでしょう?」
ツカサは久先輩の仕事部屋として使われているマンション、藤倉駅から徒歩圏内のマンションにいると言う。
たぶん、いつもと状況が違う。
私の想像が正しければ、普段いる場所に帰ってこれないような状態。
「寝てるかもよ?」
当然すぎる指摘だ。
普通に生活している人ならば寝ている時間だろう。
「……起こしたらだめかな?」
私の言葉に唯兄が笑う。
「リィにしては珍しく強引だね?」
「だって……学校に来てくれるかわからないでしょう? それに、学校に来たら――ツカサは本心を――本当の顔を見せてはくれない気がするから……」
その前に会わないと――
「人を訪ねる前にはまず連絡。これ基本。電話してごらん」
「こんな時間に?」
「……だってこんな時間に尋ねるんだよ? どっちもどっちじゃないの?」
何を今さら、と真顔で返され、妙に納得してしまった。
ちゃんと電源の入る携帯はずっと握りしめていたこともあり、ずいぶんとあたたかくなっていた。
リダイヤルからツカサの番号を呼び出し表示させたけれど、通話ボタンを押すのには勇気がいる。
「唯兄……押しかけてしまうほうが気分的には楽な気がするのはどうしてだろう?」
唯兄はきょとんとした顔を見せたあと、すぐに笑いだす。
私は意気地なしで情けない自分を疎ましく思いながら唯兄を見ていた。
「そんなのさ、たぶんどこでも一緒。クゥのマンションへ行ってインターホンを押すときには今と同じ気持ちになるんじゃない?」
「それは電話してから行ってもインターホンって最後の砦があるから勇気二回分必要ってことにならない?」
今度はゲラゲラと笑いだす。
「そっちに変換したかっ! とりあえず、まずは電話。電話に出てくれないようなら強行突破を考えよう。――ほら、押しちゃった」
「えっ!?」
気づいたときには唯兄に通話ボタンを押されたあとだった。
「やっ、唯兄、どうしようっ!?」
「どうしようじゃなくて、電話、するんでしょ?」
そんな会話をしている間にも携帯からコール音が聞こえてくる。そのコール音と同じくらいの音量で自分の心臓が鳴っている気がした。
コール音を何度鳴らしただろうか。
明け方、という時間帯に。寝ていてもおかしくない時間帯に。
でも、このコール音がライフラインのような気がして、「寝ているかもしれないから……」の理由では切ることができなかった。
しつこいくらいに鳴らして、通話状態になったのがどのくらい経ってからだったかは定かではない。
でも、つながった。出てくれた。ライフラインはつながった――
「私っ、あのっ――翠葉っ、ですっ」
いつもなら、「着信見れば誰からかかってきてるかくらいわかる」と返されそうなところでも何を言われることもない。
通話がつながっているかどうかはディスプレイに表示される通話時間しか証明してくれない。
怖い――電話だけだと怖い。顔を見たい――
「ツカサっ、今から会いに行くからっ、だから会ってねっ」
私はそれだけを言うと、一方的に通話を切った。
あまりにも怖くて、手が震えて携帯を落としてしまう。
そんな私を見ていた唯兄が、お腹を抱えて笑いだす。
「何、今のっ!」
「だ、だって、ツカサ何も喋ってくれないし……」
「喋ってくれない以前に、リィ、自分の名前しか言ってないじゃんっ!」
「そうだけどっ……。だって、怖いんだもの。携帯じゃ顔が見えなくて怖かったんだもの……」
尻すぼみに声が小さくなる。
唯兄はラグに落ちた携帯を拾い私に差し出すと、
「じゃ、支度しな。連絡もしたし押しかけてもいいでしょ? 連れてくよ」
唯兄はさっと立ち上がり、手を差し伸べてくれた。
私の支度は十分とかからなかった。
顔を洗って髪の毛を梳かして制服を着るだけ。
学校へ行く支度を済ませて部屋を出ると、
「え……リィ、学校に行く気? 今日完徹してんだよ?」
唯兄の顔全体が引きつる。
「行けるかどうかは別だと思う。でも、制服って気持ちがシャンとするでしょう?」
「くっ、戦闘服ってわけか」
「そんな感じかも……」
昨日膝丈の制服はクリーニングに出してしまったから、今私が着ているのはロング丈の制服。
クリーニングが終わっているかはわからない。
エントランスに下りて出来上がっていればボレロを受け取ればいいと思った。
どちらにせよ、ブラウスとワンピースの上にはコートを着るのだから、見た目的には何も変わらない。
玄関でコートの袖に腕を通していると、廊下の先のドアが開いた。
お母さんが口元を手で押さえ、クスクスと笑いながらこちらに向かってやってくる。
「私の娘らしいけど、こんな時間に行くとはね。制服、クリーニングから戻ってきてるらしいから下で受け取っていきなさい」
お母さんは電話でコンシェルジュに確認を取ってくれていたらしい。
「ツカサは、私とは違うの。一年のときから――もっというと中等部のころから学校を休んだことないんだって。そんなツカサが学校を休むとは思わないけど、もし昨日のことが原因で休まれたら嫌だから……」
「……いってらっしゃい。止めはしないわ」
お母さんの隣に並ぶ蒼兄は少し不安そうな顔をしていた。
「体調は?」
……たぶん、良くはない。
睡眠不足だからか心拍がおかしいのは気づいている。
何をするでもないのに、急に動悸が激しくなる。
それはきっと、バイタルを見ていればわかることで、蒼兄もお母さんも唯兄も気づいているのだろう。
「無理はしない。ツカサに会って話をしてくる。帰ってきて無理だと思ったら学校は休む。……でも、できれば行きたい。……昨日の人が学校に来るかはわからないけれど、昨日の件があって私が学校を休んでると思われるのは嫌」
気持ちは固まっていた。
怖いものは怖い。でも、立ち止まっていても怖いものはなくならない。
だから、対峙しに行く。
昨夜一睡もしていない唯兄の運転は却下された。
「仮眠程度だけど少しは寝てる俺のほうが安全」
そう言って蒼兄が引かなかったから。
唯兄は「へいへい」と言いながら自分も同行することを認めさせ承諾した。
「今回は格好いいとこ全部俺が持っていくつもりだったのに」
「そんなことが許されると思わないように。初代あんちゃんは俺なの」
唯兄と蒼兄が口端を上げながら言葉を交わす。
それを見たお母さんは、ぷっ、と吹き出すほどに笑った。
私は、「家族だな」って……。「家族ってあたたかいな」って――目で見て耳で聞いて、肌で雰囲気を感じて心に栄養を補充した。
エレベーターに乗ると唯兄が、
「さっきクゥから連絡あった。インターホンを鳴らしたらクゥが出るから安心してくれって」
「ありがとう……」
自分の声がロボットの声みたいに硬く、無機質なものに感じた。
緊張している。緊張しないわけがない。
怖い。怖くないわけがない。
でも、怖いのはみんな同じだと唯兄が教えてくれたから――行かなくちゃ。
エントランスで高崎さんからボレロを受け取り見送られる。
「ずいぶん早い登校だね?」
私の代わりに唯兄が、
「出陣なんです」
笑って答えた。
「初陣?」
高崎さんの言葉に、そうかもしれない、と思う。
自分から動くのは初めてかもしれない。
昨夜、唯兄にガツンと言われたときはショックが大きくて、ものごとの意味をきちんと捉えられないでいたけれど、今は少し違った心境で思い返すことができる。反芻することができる。
いつも助けてもらうばかりだった。
私がツカサに手を差し伸べたことなど一度もない。
私、謝る以外にできることはあるのかな……。
……ううん、まずは謝るところから。
許してくれるかわからないけれど、謝らなくてはいけない。
……違うな。「しなくてはいけない」ではなく、「謝りたい」。
謝って許してほしい、とそう思う。
秋斗さん、これが正しいカタチな気がします。
本当は、謝って許してほしいと願う。だから、謝る。
――でも、どうして私たちは反省していて謝りたいと思っているのに、許されることを望まないのでしょう……。
自分の気持ちのはずなのに、わからないことばかりです。
Update:2012/06/09 改稿:2017/07/17


ネット小説の人気投票です。投票していただけると励みになります。
↓コメント書けます*↓