リビングには複数の人がいたからか、そこまで室温が低いとは思わなかった。
「少し冷えるわね」
言いながら、お母さんがファンヒーターのボタンを押した。
すると、穏やかにあたたかな風を吐き出し始める。
静音運転のため、音はそれほどうるさくない。
それでも、それ以外の物音が立たない部屋では十分な音量として耳に届いた。
「まずはそれを飲みなさい」
言われてタンブラーの蓋を開ける。
飲みたくないけど食べないのならこれ、という条件だっただけに拒否はできない。
味の強い液体が口の中に残留するのを感じながら必死で飲み下す。
顔を歪ませたからか、
「量が増えていいなら薄めてあげるけど?」
お母さんの提案には首を振った。
「じゃ、飲み終わったらお水を持ってくるわ。薬も飲まなくちゃいけないしね?」
サイドテーブルに目をやると、時計は十時前を指していた。
そこから少し視線をずらしベッドの枕元を見るも、ラヴィしかいない。
「お母さんっ、私の携帯はっ!?」
もう壊れてしまったであろう携帯。それでも、ちゃんと私の手に戻ってきた携帯。それが見当たらない。
「落ち着きなさい。ここにあるから」
お母さんが立ち上がると、ベッドの足元にあるデスクの上からふたつの携帯を持ってきた。
差し出された携帯はふたつ。
一見して同じように見える携帯は、ストラップがついているかついていないかの差しかない。
「こっちが今日池に落ちた携帯」
そう言って渡されたのは、ストラップが付いているほうの携帯だった。
「そしてこっちは――このくらい言ってもいいわよね?」
お母さんは誰に訊くでもなく、宙を見ながら口にする。
「こっちは唯が保護してくれていた、本当の、もとからある翠葉の携帯よ」
ただでさえぐちゃぐちゃなのに、さらに意味のわからないことを言われて頭がどうにかなってしまいそうだ。
「経年劣化で得た傷も何もかも、細部まで加工して翠葉に気づかれないようにすり替えられていたの。内部基板も何もかも無事。もっとも、携帯のバックアップを取るように指示してくれたのは司くんなんだけど」
どうして、と訊きそうになる。
そんな私を見てお母さんが笑った。
「私が話したら今度は私が唯に怒鳴られるわ。……彼ら、藤宮にも色々あるのよ。それは司くんに訊きなさい。彼が話してくれるのなら聞けると思うわ」
「話してくれないかもしれない……。私、ものすごくひといこと言っちゃったから」
お母さんは壊れた携帯からストラップを外し、もとの――本当の私の携帯にそれを付け替えてくれた。
「何も間違わず、一度も誤解することなく人生を歩める人なんているのかしらね?」
「え……?」
「きっと、そんな人はいないんじゃないかしら。もしいたとしても、そんな人生は小さくて狭くてつまらないものだと思うわ。間違いを犯すから人間で、間違いを認められるから、改められるから人間なのよ。せっかく、考えたことや思ったことを言葉にして伝えられる生き物なんだから、もっと有効活用しなくちゃ」
お母さん独特の言い回しはなかなか理解することができない。
本当は、頭が飽和状態で考えられないとかそういうわけではなく、ただ考えたくないだけかもしれない。
怖いから。考えるのが怖いから。
先を考えるのはいつも不安を伴う。
自分の進路ですらそうなのに、それに人が絡むとなるともっと複雑な不安が募る。
自分が悪かったと気づいたとして、謝ったとして、それで許してもらえなかったら私はどうしたらいいのかな。
謝ることすら拒否されたら……?
それに、私、知っているの……。謝られたからといって傷がきれいに消えてなくなるわけではないことを。
抉られた傷はそんな簡単には塞がらない。またいつ同じことを言われるのだろうか、と不安が常に付きまとうようになる。
私、そういうのだけは知っているの……。
私はそういう傷をツカサにつけた。
ツカサだけではなく、秋斗さんにも湊先生にも。あの場にはいなかったけれど、海斗くんにも同じことが言える。
紅葉祭一日目の朝、あんなに顔を強張らせて打ち明けてくれたのに。私は「大丈夫」と言ったのに。
自分が関わりたいから関わっていると、巻き込んでごめんなんて謝らないでほしいと、自分が言ったのに。それなのに私は――
ポカリを飲んでいたことまでは覚えている。携帯を渡されたことも覚えている。
けれど、それ以降の記憶がひどく曖昧だった。
いつ薬を飲んだのか、いつベッドへ横たわったのか。その辺りの記憶があやふやすぎる。
いつから唯兄と手をつないでいたのかもわからなくて、それが寝ていたからなのか、気持ちが悪いくらいにはっきりとしない。
ただ、「目を開ける」という動作をした記憶がない。「目が覚める」という感覚がなかった。
急に目の前に部屋が映った。人が映った。そんな認識。
「リ、ィ……?」
唯兄がひどく驚いたような顔をしていた。
どうしてそんな顔をされるのかが私にはわからない。
私、また倒れたのかな。だから記憶が曖昧なのかな……。
「唯兄……」
口にした声は掠れていた。
「おかえり……」
言われて不思議に思う。
私はゲストルームにいて、「おかえり」を言われる状況ではないから。
それに、目が覚めても誰も呼びに行かないことからすると、私は倒れたわけではないのかもしれない。
「あ……携帯」
「バイタル?」
訊かれて、「違う」と首を横に振る。
「私の携帯、持っていてくれてありがとう……。ダミー携帯、持たせてくれてありがとう」
唯兄は力なく笑う。
「力不足だったけどね。俺には携帯の代わりを作ることしかできなかった。リィが大切にしているのは携帯本体だけじゃないでしょ?」
私はずっと握りしめていた携帯を見つめる。
ストラップやとんぼ玉、鍵がすぐ目についた。
「それらの代わりを用意することはできなかったし、それを救出してくれたのは司っち。お礼は生徒会の彼らに言わないと」
「っ……」
「リィ、逃げちゃだめだ」
つながれていた手をぎゅっと掴まれる。
「誰に何を言わなくちゃいけないのかはわかってるよね?」
コクリと頷く。
「わかってることから逃げちゃだめだ。自分にできる精一杯のことをしなくちゃ。本当に大切なのは物じゃない。人、でしょ?」
唯兄の言葉がズシンと胸に響く。
まるで、大きな岩が落ちてきたみたいだった。
「人を大切にしたいなら物を握りしめているだけじゃだめだよ。人はさ、物よりも脆いことがあるから。大切ならちゃんと大事にしなくちゃ」
「でも、怖い。許してもらえるか怖くて仕方ない」
声が震えた。それに答えた唯兄の声は、
「怖いのなんて誰も一緒」
一切揺るがなかった。
すると、部屋のドアが静かに開いた。
「起きてたのね」
入ってきたのはお母さんだった。
「唯と話してたの?」
頷くことで返事をする。
お母さんは唯兄を見て、「ふぅん」と意味深に笑ってみせた。
「一応あんちゃんですから? リィのシャットアウト機能なんて突破してやりますよ。いつまでもあれを突破できるのがあんちゃんだけだと思ったら大間違いっ」
お母さんはふわりと笑った。
「バカね……。一応じゃなくて立派にお兄ちゃんでしょ?」
唯兄の頭を軽く小突くと、唯兄は少し照れくさそうに笑った。
「起きているなら少しくらい何か口にしなさい。スープくらいは飲めるでしょう?」
ゆっくりと身体を起こし、飲むことを伝える。
「唯も。何か食べるなり翠葉のスープに付き合うなりしなさい」
「じゃ、同じもの」
「そうね……。もう時間が時間だし、スープくらいがいいかもしれないわ」
時計を見ると、明け方といってもいい時間だった。
短針は四を少し過ぎたところを、長針は十を指していた。
「翠葉、唯に感謝しなさい。一晩中ついていてくれたんだから」
「え……?」
隣にいる唯兄を見ると、唯兄は苦笑を漏らし、
「かわいい妹を放っておけますかってーの」
ペチ、と額を叩かれた。
「ごめんなさいっ。今日のお仕事に差し支えないっ!?」
「……一晩の徹夜が何ぼのもんですか。二番目のあんちゃんはまだ若いんです」
「でも……」
「リィ、その続きは違う人に言ってあげて」
唯兄は私からお母さんに視線を移すと、
「見つかったの?」
「これ、データ。翠葉のミュージックプレーヤーに入れてあげて」
「了解」
唯兄はお母さんからUSBメモリを受け取ると、それをすぐに私のノートパソコンに差し込みミュージックプレーヤーをつなげた。
「スープの用意してくるから、それまで聞いているといいわ。私の好きな曲なの」
そう言うと、お母さんは入ってきたとき同様、静かに部屋を出ていった。
唯兄がミュージックプレーヤーに取り込んでくれたお母さんの好きな曲は今井美樹さんという人の曲だった。
曲名は「PIECE OF MY WISH」。
前奏もメロデイーも、何もかもが優しい。まるで優しい雨に包まれたような気持ちになる。
聴いているだけで涙が溢れてくるような、そんな曲だった。
イヤホンを片方唯兄に取られる。
「涙の理由、教えて?」
「これ、聴いて?」
そのままイヤホンをするように伝えると、唯兄は私の隣に並んで曲を聴き始めた。
ベッドを背にしてふたりお布団を膝にかけた状態で曲を聴いていた。
お母さんがスープカップをトレイに載せて入ってくると、私と唯兄を見てクスクスと笑ってからトレイをローテーブルに置く。
「飲みなさい」
お母さんはそれだけを言い残し、すぐに部屋を出ていった。
私と唯兄はスープを飲みながら、優しい音楽をずっとリピートさせて聴いていた。
Update:2012/06/07 改稿:2017/07/17


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