九コールしたところで、「ツカサ?」とこちらをうかがうような声が聞こえてくる。
電話をかけるなら十コールは鳴らしてほしい、というのが翠からの要望だった。
そんなに鳴らしたら寝ているときには起こすことになる。そう思った俺に対し、「十コール鳴らされたら絶対に起きられるから」と翠は正反対の持論を展開させた。
「悪い、起こした?」
『え? あ……ううん。今、お風呂から上がったところで……』
「あ、そう」
翠の趣味にはバスタイムというものがある。
シャワーや風呂は朝か夜、もしくは汗をかいたときに入るものだと思っていた俺にはかなり衝撃的な趣味だった。
翠は趣味として時間を問わず好きな時間にバスタイムを楽しむ。それも、二十分三十分なんてかわいいものではなく、一時間半以上がデフォルト。
なんでそんなに風呂に時間がかかるのか理解しかねた俺は訊いたことがあった。
「洗うところなんてそんなにないだろ?」
ただでさえ細い身体なのだから、身体の表面積などたかが知れている。
「あ……うん、それはそうなんだけど、髪の毛が長いとシャンプーやトリートメントを泡立てたり馴染ませたりするよりも、きちんと流しきるのに時間がかかって……」
「それでも一時間半以上は長すぎると思う」
「身体と髪の毛を洗うので四十分かかるんだよ? そのあとに半身浴をするとそのくらいはかかるっ」
なるほど、と思った。
翠は手術を受けたあとも運動に制限があるため、普段からあまり汗をかくことがない。
夏ですら手足は冷たく、発汗しているところはめったに見ない。どちらかというならば、発汗は発汗でも、冷や汗や脂汗ばかりを見ている気がする。だから、風呂での発汗は翠の身体機能にとっては重要な項目となるのだろう。
「ふやけそうだな……」
なんとなく口にした言葉に、翠はクスクスと笑いながら「うん、ふやけるよ」と答えた。
「でもね、その時間に音楽を聴いたりアロマの香りを楽しんだりするのが好き。時々携帯を持ち込んで読書したり」
それはそれは嬉しそうに話してくれた。
「翠、このあとの予定は?」
『え……? あ……髪の毛を乾かすことくらい?』
言った直後、慌てた様子で、
『あのっ、とくにはないよ。いいお天気だから少しお散歩に行こうかな、とは思っていたけれど……。ツカサは今日も部活って言ってたよね? 今はお昼休憩?』
「部活は午前で終わった。今、帰り。マンションへ向かってる」
幸い、俺には自宅と呼べる場所が二ヶ所ある。
一ヶ所は藤山にある実家。もう一ヶ所は姉さんが住んでいたマンションの一室。
姉さんは結婚してから静さんの家へ移り、それまで使っていた部屋は俺に譲られた。
名義上はまだ姉さんの所有物だが、俺が成人したら俺の名義に変更される予定。試験前には海斗や翠も来るけれど、それ以外は俺ひとり悠々自適に過ごせる場所となっていた。
『誰かに用事? ……確か、湊先生なら今日は栞さんと出かけるって言っていたけど。あ、楓先生?』
そこでなぜ自分だと思わないのか……。
「翠に用事……っていうか、翠に会おうと思って向かっているし、電話してるんだけど」
『……本当?』
「本当」
ここで本当かどうかを問われてしまうのは、俺に原因があるだろう。問われても仕方のないような態度をとってきたのだから。
『……私に用事って、何? 電話じゃだめなの?』
昨日感じた、「これ以上話したくない」という空気に酷似したものを感じる。暗に、「会いたくない」と言われているような、そんな感じ。
でも、今日は引かない。
「できれば会って話したい。だから、予定がないなら髪の毛乾かしたら十階に来て」
『……うん。でも、十五分くらいはかかるかも……』
「わかってる。急がなくていいから」
『わかった。……あ、今日ね、フロランタンを焼いたの。切り分けて持っていくね』
「待ってる」
通話を終えてため息ひとつ。
「……俺の考えすぎか?」
翠にしては単調すぎる話し方だった。そこにきてフロランタンのあれこれ。時間稼ぎをされている気がしてならないんだけど……。
それも仕方ない、と思うべきなのか。
どちらにせよ、翠は人を待たせるのが苦手だ。時間がかかる、とは言いながらもそれほど待たせることはできないだろう。
マンションのエントランスで軽食のオーダーをしてエレベーターホールへ直行。
自宅に着くとキッチンへ向かい、手だけ洗ってコーヒーメーカーをセットをした。その後、洗面所でうがいを済ませ、姉さんが住んでいたときから自室として使っている部屋へ向かう。
姉さんが静さんの家へ移ってからも、この家にある家具は何ひとつ変わらない。そして、置かれていた本なども移動されることなく置かれたままだ。
ひとつ変わったとすれば、南側にある主寝室のベットメイキングが変わった程度。引っ越すときに、それだけは姉さんが変えていった。
モノトーンを好む姉さんが、ベットメイキングだけは赤と白のタータンチェックを使用していた。つまり、それがあまりにも俺に不釣合いに思えたのだろう。今はチャコールグレーより若干薄いグレーのカバーがかけられている。
そして、何を思って残していったのかは不明だが、未だ数着、姉さんのルームウェアやパジャマの封を切っていないものがウォークインクローゼットの片隅に残されていた。
制服を着替え終わるころにはコーヒーのいい香りがしていた。そのタイミングで七倉さんがサンドイッチを届けてくれた。
落とし終わったコーヒーをカップに注ぎ、ダイニングでサンドイッチを食す。
なんとなしに時計を見ると、翠に電話をしてから三十分近い時間が経過していた。
髪を乾かして服を着替えて――はないか。ここならルームウェアのまま来るだろう。
ふと、テーブルに放った携帯に目をやる。
約束を反故にされたりして……。
さっきの電話の雰囲気からすると、あり得なくはないことだ。しかし、そんなことは問題になり得ない。
翠が来なければ自分が行けばいい。ただそれだけのこと。
サンドイッチが載っていたプレートを洗い終えたとき、インターホンが鳴った。
玄関のドアを開けると、膝丈のワンピースにレギンスを合わせた翠が立っていた。
「いらっしゃい」
「これ、お菓子」
おずおずと差し出されたのはきれいにラッピングされた包み。きっと中身はフロランタンだろう。
「そのまま持ってきてくれてよかったのに」
反する言葉が返されるかと思ったが、翠は何も言わずに俯いた。
「……悪い。上がって」
「お邪魔します」
「何か飲む?」
靴を揃える翠に尋ねると、
「ハーブティーある? あるなら自分で淹れるよ?」
いつも目を見て話す翠が俺を見なかった。
「ハーブティーなら棚にある」
「棚ってどれかな……?」
わざと尋ね返されるような返答をしてみたが、翠は廊下の先に視線を移し、俺を見ることはなかった。
一緒にキッチンへ向かい棚から茶葉の入った缶を下ろす。と、翠はお茶の準備を始め、俺はその隣できれいにラッピングされた包みを解き、フロランタンをプレートへ移す。
その後、一度はリビングへ行ったものの、「広すぎて落ち着かない」という翠の言葉に、テスト勉強で馴染みある俺の部屋へ移った。
「この部屋に来ると勉強しなくちゃ、って思っちゃう」
「リビングが落ち着かないって言ったのは翠だけど?」
「うん、そうなんだけど……」
翠は苦笑を浮かべ、ベッドを背に膝を抱えて小さく座りこむ。
その様が、より小さな面積で収まるように、と見えなくもなく、そんなにも居心地が悪いのか、と考えた。
いつもなら、俺は窓際にあるデスクチェアかベッドの正面にある本棚の前に座るわけだけど、今日は意識して翠の隣に座った。
「っ……どうしたの!?」
「……別に」
別に、じゃない。ここに座れば翠が疑問に思う。きっと尋ねてくる。それがわかっていたからここに座った。
ある意味、俺なりの決意表明。
「……本当に、どうしたの?」
翠は不安そうに俺の顔を覗き込んできた。
……やっと目が合った。
そうは思うものの、黒目がちな翠の目が潤んで見えて、困ったな、と思う。
翠の目はハナを彷彿とさせる。けど、これはどこからどう見ても人間で、自分が好きになった女で、翠でしかない――
Update:2014/11/11(改稿:2017/08/13)


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