光のもとでU

距離 Side 藤宮司 03話

「手……貸して」
 俺が口にすると、翠はさらに驚いた顔をした。
 考えてみれば、翠に手をつなぎたいと言われることはあっても、俺から手をつなぎたいと申し出るのは初めてのことだった。
「本当に、どうしたの?」
 今度は不安ではなく心配という視線をよこす。
「いいから手」
 半ば強引に翠の右手を取った。
 冷たい……。
 翠のことだから長時間の入浴を楽しんだはずなのに、もう冷たくなっている。
「悪い……」
「……ツカサ?」
 何をどう話せばいいのか――普通に、そのままを話せばいいのだろうか。
 翠と向きあう。話をするとは決めてきたものの、どう話すか、という具体的なことは何も決めていなかった。
「ツカサ、何に対して謝られたのかがわからないから、許そうにも許せないのだけど」
 律儀にもほどがある、と言いたくなる返答だけれど、その言葉に救われる。話す取っ掛かりができた。
「意図して避けてた……というか――」
 行動は共にしていたわけだから、俗に言う「避けていた」というのとは少し異なる。ただ、手をつないだり、隣に座って腕や肩が触れたり――そういう状況からは逃げていたし、常に距離を取るようにしていた。
 もし、俺が誰かに相談していたら、人はなんと答えただろう。

 ――「好きな者同士が付き合っているのだから、踏まえるところさえ踏まえていれば問題はない」。

 自分に都合のいい言葉だけを並べてみても、すぐに打ち消し線が入る。相手が翠ならその限りではない、と。
 初めての感情に戸惑うというよりは、未だ男性恐怖症の気がある翠を相手にすることに戸惑いがあった。
「避けてたっていうのは……」
 翠の声を聞いて意識を戻す。
「手――つないでもすぐに離されちゃうのとか、隣に座ってもすぐに席を立たれちゃうのとか……そういうこと?」
 不安そうに訊かれた。
「そう。それらの行動すべてに対して謝りたい」
「……じゃぁ、もう、そういうの、しない……?」
「……あぁ」
 でも、それだけでは終われない。
「翠、俺は……どこまで自分を抑えられるのかがわからない」
「え……?」
「……付き合う前は手をつなぐことも抱きしめることも、そんなに意識していたわけじゃなくて……」
 翠は少しびっくりしたような目で俺を見た。
「でも今は――ありえないほど意識していて、翠ほど簡単に手をつなぐことはできない」
 こんな言い方じゃ翠には伝わらない。もっとストレートに言わないと伝わらない。
 そう思っていると、
「ツカサ……ひどい」
 翠が目に涙を滲ませ、声までも震わせた。
「全然簡単じゃないっ。手つないでいいか訊くの、全然簡単じゃないっ。すごく……すごく勇気いるんだからっ」
 このタイミングで泣かれるとは思っていなかっただけに、俺は別の衝撃を受けていた。
「全然簡単じゃないんだから……。私がそう言うたびにツカサは一瞬身を引くし、長くはつないでいてもらえないし、がんばって隣に座ってもすぐに席を立たれちゃうし……。全然――全然簡単じゃないっ」
 すべて事実で自分の擁護などできるわけもない。
 悪い、とは思う。でも、俺もそこまで余裕なんてないから。
「だから……悪い。これからはそういうのしないから。しない予定。……でも、何度も言うけど、俺、どこまで自制できるのかわからないから」
「……自制って? あ……言葉の意味はわかるのよ? 国語辞典とかいらないからね?」
 こういう切り返しが翠だと思う。最後の国語辞典のくだりは間違いなく俺のせいだと思うけど……。
「自制しなくちゃいけないものは何?」
 翠らしい直球な質問が返され、俺は小さく深呼吸をした。そんな動作を挟まなくてはいけない程度には、緊張していた。
「つまりは俺も男だから、って意味」
 翠の顔を見ると、きょとんとした目をしている。
 だめか……もっと露骨な言い方をしないと。くそっ――
「手をつないで、翠の腕や肩が俺に触れて、翠の顔がすぐそこにあって――どこまで理性を保っていられるのかがわからないっ」
「……り、せ、い?」
 口にして、はっと気づいたようだった。翠は新たに驚いた表情を見せる。
「あのさ、俺をなんだと思ってる? 一応、人並みの性欲と生殖機能を備え持つ普通の男なんだけど」
 翠に対して性的な欲求を認識した途端に距離を欲した自分は、どこか微妙に「普通」からは外れるのかもしれない。
 でも、今だって、すぐ隣にいる翠からシャンプーだかボディーソープの香りがしていて微妙な心境なわけで――
 色々思うところはあるけれど、それはひとえに風呂上りだと聞いたうえで会う約束した自分が悪い。
 絶句した翠を見ながら思う。翠はまだ怖いと思っているだろうか、と。
 秋兄とキスはしている。でも、キスマークを付けられたときには擦過傷へ発展させ、さらには緊張型頭痛を勃発。その後色々あって記憶喪失――
 こんな人間を相手にどうしたらいいのかなんてわかるか……。
 しかし、このまま距離を置き続ければ、間違いなく溝が深まる。そんなところを秋兄に掻っ攫われるのは面白くはない。ならば、諦めて話すしかないだろう。
 翠にとって、何が平気で何が怖いものなのか……。
「例えば、俺は翠を抱きしめたいと思うことだってあるし、キスをしたいと思うことだってある。でも、それがどこまで受け入れられるのかがわからない」
 翠の感情を探るように視線を合わせると、驚いた顔から一変して顔を真っ赤に染め上げた。
「抱きしめてキスしたら――俺はその先を自制できるのかがわからない。正直に言うなら自信がない」
 さあ、なんて答える?
「ツカサ……ツカサっ……」
 翠は視線を逸らして俯いたものの、ラグを見たまま俺の名前だけを連呼する。
「何」
「ツカサ、ツカサ……ツカサ――」
 いったい何度呼ぶつもりなのか。しだいに、つないでいる左手に力がこめられる。
 長い髪で隠れた顔を見るために、右手で翠の髪を耳にかける。と、
「っ……なんで泣いて――」
「ツカサ……もっと近くに寄ってもいい?」
 ラグに視線を固定させたまま、揺れる瞳で尋ねられた。
 もっと近く……とは言っても、俺は翠のすぐ隣に座っていて、間は二十センチくらいのスペースしかない。その間を埋めてもいいか、と問われているのか。
「別にかまわない」
 翠は手をつないだままにじり寄るように移動して、俺の左半身にピタリとくっついた。
 つないでいない方の袖で涙を拭い、「絶対逃げない?」と再度訊かれる。
「逃げない。……でも、理性の保証もない」
「……なくてもいい」
 聞き間違い? それとも幻聴……?
「……側にいたい。ずっと近くにいたい。もっと近くにいたい……」
 俯いたまま口にする翠の膝にポタポタ、と涙が落ち染みが広がる。
 抱きしめてもいいだろうか――
「翠……もっと近くって?」
「……本当に逃げない?」
 今度は顔を上げて訊かれた。翠の大きな目からは涙がボロボロと零れる。
「逃げないけど――」
 答えた瞬間に翠が身を反転させ、俺の上半身に腕を回した。――つまりは抱きつかれた。
 翠の身体は小刻みに震えていた。
 肩に顔をうずめて泣く姿を見て、こんなに不安にさせていたのか、と思い知る。
 俺は自分の右腕を翠に背に回し、さらに抱き寄せる。
 去年の夏よりは体重も増えた。それでも細い身体。細い首、華奢な肩、折れそうな腕、片腕で十分に支えられる腰――
 そのどれもが俺の力で折れてしまいそうで、「掴む」という行為を躊躇する。
「悪かった……」
「ツカサは優しいだけだもの……」
「偏見」
「違うもの。……ツカサは知っているから……」
 秋兄とのことを言っているのだろう。それでも、
「……翠を不安にさせていた事実は変わらない」
 密着して、より近くでフローラルの香りが鼻腔をくすぐる。逃げたいわけじゃないけど、少し離れたい。それとも、これが「逃げ」なのか……。
 自分に問うものの答えは出ない。
 翠の背に回していた手を肩に当て、ふたりの間にスペースを作った。その些細な変化に翠は涙する。
「嘘つき……」
 ばつが悪く顔を逸らそうとしたとき、
「……キス、して?」
 え……?
 聞き間違いかと思って翠を凝視する。と、
「キス、して?」
 涙を湛えた目は、真っ直ぐ俺を捉えていた。
 今まで、衝動でキスをすることがあっても、翠に求められたことはなかった。
 俺は誘われるように翠の唇に自分のそれを重ねる。唇を離して翠の顔を見ると、翠は真っ赤な顔で俯いた。
「……好きっていう気持ちがたくさんで、どうしたら伝わるのかがわからないの。でも、キスしたら伝わる気がして……」
 言ってすぐ、今度は翠が俺から離れようとする。
 さっきは自分から離れたいと思ったくせに、今離れられるのは嫌で、離されかけた右手を加減なしに引き寄せた。翠はバランスを崩し、再度俺の腕に収まる。
 腕の中で縮こまる翠に唇を寄せ、思う。衝動でキスをする分には悩まないのに、と。
 今まで、その場に任せてキスをしてきた。今だってさして変わりはしない。それでも、多少は状況が変わっただろうか。
 今、初めてキスを乞われた。
「キスはしていいの?」
「して……?」
 言ったあとに気づいたのか、翠は急に顔を背ける。そして、居心地悪そうに体勢を立て直そうとするから、そんな翠の動作を止めるべく、再度唇を重ねた。
 さっきまで冷たかった手が心なしあたたかくなっていて、そんなことに少しほっとする。
 唇を離すと、
「ツ、ツカサ……身体、起こしたい」
 真っ赤な顔で抗議してくる翠を見て思う。
 こっち方面はまるきり疎いくせに、自分からキスを懇願してきたり――本当に困る。
 嬉しくて、嬉しすぎて……。
 翠は体勢を直すと、俺が引いた手をぎゅっと握り返してきた。
「ツカサ……好き。大好き」
 俯いたまま言われても嬉しいって、何。
 俺は口元が緩みそうなのを必死で堪えていた。
「好き……」
 何度言われても嬉しい。でも、若干言われすぎてもったいなくも思え、翠の唇の前に人差し指を近づけた。
「ツカサ……?」
 翠は不思議そうに俺の名前を口にしたが、顔をゆっくりと近づけると、キスを察して目を閉じる。
 どうしてだろう……ただキスをしているだけなのに、気持ちが満たされていく。
 キスをすれば歯止めがきかなくなる、そう思っていたのに……。
 正直なところはその先の関係を望んでいる。でも、切羽詰まった感じは遠のいたように思えた。
 この変化はなんなのか……。
「……ツカサ?」
 翠に顔を覗き込まれ、改めてそっと抱きしめる。
「……翠は何が怖い?」
「え……?」
「俺も男だから、秋兄と変わらない。性欲はそれ相応にあると思う。俺がそういうことを考えていたら、恐怖の対象になるのかが知りたい」
「……何が違うのかはわからないの。でも、秋斗さんに感じたような恐怖感をツカサには感じてない。でも、性行為は怖い」
「……わかった」
「ツカサは……?」
「……わからないんだ。キスをすればその先を望む。箍が外れたように翠を求める。この二週間、ずっとそう思ってた。でも今は――」
 ただ、腕の中に翠がいて、キスを受け入れてくれる。それだけで満たされている。
 その先を確かに望んでいたのに。
 行為自体は拒まれたけど、どうしてか、それが自分を拒まれたことにはならない気がした。
「……ツカサ、お願いがあるの」
「何?」
「……これからは、避ける前に話して……?」
「何を?」
「……だから、その……ツカサの気持ちを」
「……気持ちって、欲求のこと?」
 翠はコクリ、と頷いた。
「急に避けられるのは理由がわからなくて怖い……。だから、話してほしい」
「話したところで翠は困るだけじゃないの?」
「……かもしれない。でも、話してほしい」
「……わかった」
 腕を解くと、
「ツカサ、もう一度だけ……」
 何、とは言われない。でも、キスを乞われているとわかる。
 唇を重ねると、翠は嬉しそうに微笑んだ。そして、
「……ツカサ、デート、したいな……」
「デート……?」
「うん。いいお天気だから……お散歩に、行かない?」
 翠の突飛な提案に、俺は表情を緩めて賛成した。
 
 藤山くらいまで行くのかと思いきや、翠はマンション敷地内を回るだけでいいと言った。
 なんの変哲もない小道を歩き、公園で遊ぶ子どもを見ながら翠は笑う。そんな翠を見て、「ありがとう」と心の中で唱えた。
 こんな俺を受け入れてくれて、ありがとう。……願わくば、これからどんな俺を見ても、そのすべてを受け入れてくれますように――


END
Update:2014/11/13(改稿:2017/08/13)



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