menu

Riruha* Library

光のもとでU+

迷路の出口

Side 藤宮雅 01話

 去年五月に日本を出た私は、ニューヨークに拠点を移した。
 正しくは、初等部と中等部でお世話になった養護教諭の星野あかり先生がご家族で住む家に、間借りさせていただいている。
 あのまま日本にいてもいいことはなかっただろうし、それを理解したうえでこの環境を整えてくれた静さんには、一生かかっても返しきれない恩義を感じている。
 来週、社員旅行へ参加するために一時帰国するけれど、お土産には何を持ち帰ろう。
「元おじい様はひどく固いものでなければ食べるものには困らないようだし、先日いただいておいしかった焼き菓子でもお持ちしようかしら……? 静さんは――」
 あの方はおいしいものなど食べ飽きているわね。だとしたら、
「ネクタイか何か身につけるもののほうがいいかしら?」
 でも、ご結婚された方にそういった贈り物はタブーな気もするし……。
「むしろ、湊さんとご一緒に召し上がれるようなものを贈るべき?」
 知人から聞いたお勧めのショップサイトを覗いたり、ネットのレビューに目を通して候補になりそうなものをチェックしていると、部屋のドアがノックされた。
「雅ちゃん、ドクターがいらっしゃったわ」
 あかり先生の声を聞き鏡の前で身だしなみを整えると、高さのあるドアをゆっくりと開く。
 廊下にはトレイを持ったあかり先生と、口髭を生やした精神科医が立っていた。ドクターの両脇には、ゴールデンレトリバーのサラとランディが身を寄せている。
 サラとランディの性格はいたって穏やか。主人や家族に忠実で、客人のご機嫌をとることも忘れない、躾の行き届いたなんともしっかりした子たちなのだ。そんな二頭を微笑ましく思いながら、
「ドクタージョージ、いらっしゃい」
「やあ、ミヤビ。気分はどうだい?」
「そうですね……。まあまあ、かしら?」
「それは何よりだ。では、今日のカウンセリングを始めようか」
「お願いします。あかり先生、飲み物をありがとうございます。サラとランディはまたあとでね? 夕方にはお散歩へ連れて行ってあげるから」
 二頭に声をかけ軽く頭を撫でてあげると、私はドクターを自室へ招き入れた。

 静さんの勧めで日本でもカウンセリングは受けていたけれど、それで私が救われることはなかった。つらい思いをしてカウンセリングを受けても上澄みを掠めるような感触しか得られず、心が空虚になるばかり。きっと、どんなカウンセリングを受けても私が求める救いは得られない。それならもう、カウンセリングなどやめてしまおうか――
 そう思っていたところ、転居先のニューヨークで静さんに紹介されたのが、ドクタージョージだった。
 少し調べれば、どれほど優秀なドクターなのかは知ることができた。けれど、日本で私を診てくれた医師たちだって「名医」と言われる人たちだった。つまり、優秀なドクターだからといって、自分を救えるかどうかは別問題なのだ。
 それを知っていた私は、新しい医師に対してさして期待はしていなかった。
 カウンセリングにはまとまった時間が必要になるし、カウンセリングを受けたあとは精神的な疲労が甚だしい。ひどいときは感情のコントロールがきかなくなることもある。
 治療と仕事を両立させる自信がなかった私は、静さんの面子を潰さない程度の応対を繰り返していたわけだけど、さすがは精神科医というべきか――
 のらりくらりとかわしているのは、数回のカウンセリングで見破られてしまった。
 ドクタージョージは実に注意深く私を観察していたのだ。
「ミヤビ、君はカウンセリングを受けるつもりがないのかな? 予約日には必ず来院するし、カウンセリングに応じているふうではある。が、問題の核心部分には触れずに話を進めるし、きっちり一時間半でこの部屋を出て行く。……君は、話が一時間半で終わるように会話をコントロールしているね?」
 そこまで言われたら、認めざるを得なかった。
 私は観念して口を開く。
「ドクターもご存知のように、私は仕事をしております。土日休みの会社ですので、平日のこの時間に仕事を抜けるのは容易ではありません。たとえカウンセリングの時間を確保できたとしても、そのあとは仕事へ戻らねばなりません。場合によっては、その足で商談へ向かうこともあります。つまり――」
 自分の弱い部分をさらけ出すことに抵抗を覚え、続ける言葉を躊躇っていると、
「つまり、まともにカウンセリングを受けてしまうと、その後の仕事に支障が出る恐れがある。だから、深部を探られないよう会話をコントロールしていた?」
 私は恥ずかしさと申し訳なさを感じながら頷く。
「それなら、仕事が休みの日なら問題はないのかな?」
「え……?」
 ドクターは精悍な顔の口元に、柔らかな笑みを浮かべる。
「ミヤビ、何か問題があるのなら、ひとつひとつ解決していけばいいだけだよ」
「ですが、このクリニックは土日休み――」
「カウンセリングはクリニックじゃなくてもできるだろう?」
 確かに、患者とドクターがいて、カウンセリングができる落ち着いた空間さえあれば、問題はないわけだけど……。
「実はね、僕の自宅はミヤビが住むアパートメントと同じ区画にあるんだ」
 同じ、区画……? それが、何……?
「つまり、クリニックへ来るよりも、君の自宅の方が近いことになる」
 意味がわかってはっとする。
「ですが、ドクターのお休みに診てもらうわけにはっ――」
「平日に都合がつかない患者は稀にいるし、特別な患者を自宅で診ることも珍しくはない。ただ、ミヤビは男性不信の気があるだろう? ならば僕の家ではなく、君の自宅のほうが安心なんじゃないかな? もちろん、ご家族がいるときにうかがうし、僕と部屋にふたりきりになるのが不安なら、ご家族がカウンセリングに付き添ってもかまわない。どうだろう? もう少し前向きにカウンセリングを受けてみない?」
 親切すぎる申し出に、私はどうしたらいいのかわからず言葉を返せずにいた。
「おかしいな……。現時点での問題はクリアしたつもりだし、君にとっては好条件だと思うんだけど、何をそんなに悩んでいるのかな?」
 ドクターは一定の距離を保ったまま、顔を覗き込むように私を見ていた。
「どうして――どうしてそこまでしてくださるんですか?」
 ドクターは間髪容れずに答える。「セイに頼まれたからだ」と。
 返答はとても簡潔で、納得するに足る言葉だった。
「セイ」とは静さんを指すと同時に、「藤宮」を示す。
 国外へ出てもどこへ行っても、静さんの庇護下にいる限りは「藤宮」がついて回る。
 それがいやならさっさと自立して、自分の力で生きていけるようにならなくてはいけない。
 ……こんなところで躓いている場合ではない。トラウマに囚われている時間などない――
 表情筋にぐっと力をこめ、違和感のないように口角を引き上げる。同時に視線を上げると、私をじっと見るドクターの目に捕まった。
 ドクターは私と数秒間視線を合わせると、
「なるほど……。これはどうにかしなくちゃいけない」
 そう呟いた。
「何が、でしょう?」
 不自然にならない程度の笑みを添えて訊ねると、ドクターは神妙な面持ちで口を開いた。
「ミヤビ、よく聞いて? 僕はね、セイにこう頼まれたんだ。金に糸目をつけない。その代わり、ミヤビが心から笑えるようにしてほしい、と……。少なくとも、セイが望んでいるのはそんな笑顔じゃないよ」
 瞬時に顔が熱を持ち、言葉に詰まった私は顔を背ける。と、時間差で涙が目に溢れてきて困った事態に陥った。
 笑顔の作り方くらい心得ていて、それなりに繕えているつもりでいた。けれども、このドクターには通用しなかったし何よりも、静さんの心遣いが嬉しかった。
 表面上の問題さえ片付けば、静さんにとって私は数いる縁者のひとりにすぎず、ここまでのケアをしてもらえるとは思っていなかったのだ。
 日本を出る前に、「今後、雅の後見人を務めるのは私だ。何かあれば連絡してきなさい」とは言われていた。でも、ここまで気を回してくれていたなんて知らなかった。
 人からもらう優しさに慣れておらず、どうしようもなく泣きたくなる。
「君に何があったのか、どんな状況にいるのか、僕は君から聞いたこと以上のことは何も知らない。けれどね、ひとつだけわかっていることがある」
 わかっている、こと……?
「セイ・フジミヤ――彼は君の味方だよ」
 深海を思わせる青い瞳に見つめられ、私は唇を真一文字に引き結ぶとゆっくりと浅く頷いた。
「ミヤビ、大丈夫だ。君はひとりじゃない」
 ドクターは暗示をかけるように、または言い聞かせるようにゆっくりとそう口にする。
 私は言われるたびに頷き、ボロボロと涙を零した。
 一頻り泣いて私が落ち着くと、
「ミヤビ、君が今まで受けてきた治療の経歴を見てもいいだろうか」
 ドクターの言葉を不思議に思って視線を上げると、ドクターはデスクに置いてあった茶封筒を手に取り、薄っぺらいそれをテーブルの上で滑らせた。
 目の前に差し出された封筒を手に取って見ると、封筒は緩衝材と一体化したものだった。
 封筒の表と裏を交互に見たけれど、開封した形跡はない。宛名はドクターで、差出人は――静さん……?
「ミヤビのカルテが記録されたメモリが入っている」
「っ……!?」
「事前にセイから預かっていたんだが、曲がりなりにも個人情報だからね。君の了承を得てから拝見しようと思っていた。僕、患者とは信頼関係をきちんと築きたいタイプなんだ」
 そう言ってクスリと笑うとドクターは、「どうする?」とでも言うように、ゆったりとデスクチェアーに身を預けて見せる。
「ミヤビが問題の根幹と向き合い、解決に取り組むことを望むなら、僕は最大限の助力をしよう。でも、ミヤビがそれを望まないのなら、普段の生活に支障がないよう暗示をかけることも可能だ」
 その提案にはっとする。
 ドクタージョージは一般的なカウンセリングにも定評があるが、催眠療法の見識も深く、臨床実績も豊富だ。
 そういうこと……。
 静さんは本当に、本当に色んなことを考えてこのドクターを紹介してくれたのね。
 私が自分の過去と向き合う道と、つらかったことすべてに蓋をして、平穏な日常を取り戻す道の両方を用意してくれていた。
 さほど時間がかからず苦しくもないのは後者の暗示療法。でも、暗示療法は定期的なメンテナンスが必要になるし、何かの拍子に暗示が解けてしまう可能性もゼロではない。
 もう苦しい思いもつらい思いもしたくはない。でも――
「ドクタージョージ、カルテを……カルテをご覧いただけますか」
 ドクターは静かに頷き、封筒からUSBメモリを取り出した。
 日本で受けたカウンセリングは去年の四月で終わっており、治療期間としては一年に満たない。よって、ドクターが目を通すのにそこまでの時間は要しなかった。
 カルテに目を通し終えたドクターはひとつ息を吐き出すと、
「セイが僕にコンタクトを取ってきた理由がわかった」
 そう言って私を見ると、
「ミヤビ、君は心理学を勉強していたんだね?」
「はい……」
「ならば、単刀直入に訊こう。ミヤビはどっちを望む? 退行催眠か、暗示療法か」
 私は深く息を吸い込み、
「退行催眠を」
 退行催眠は「年齢退行」「胎児期退行」「前世退行」の三種類あるけれど、私が提案されているのは「年齢退行」だろう。
 それはつらい体験を細部にわたって思い出し、問題の根幹と向き合うことで問題を解決していく治療法だ。
「楽ではないよ?」
「存じております」
 本来この治療は腕のいい催眠療法士、または信頼のおける催眠療法士を探さなくてはいけない。けれど、ファーストステップは静さんがクリアしてくれた。ならば私も、逃げ続けるのではなく、立ち向かわなければ――
 決意が揺らがないよう奥歯を強く噛み締める。と、トントンとドクターに右肩を叩かれた。
「ミヤビ、僕は君の勇気ある選択を称える。けれどね、闘うことがすべてではないし、つらくて仕方がないときは逃げてもいいんだ。それに僕はセラピストだよ? カウンセリングによって君がつらい思いをしたならば、そのつらさを抱えたまま治療を終えるような真似はしない。約束しよう」
 ドクターは真摯な目で、「安心して」と言ってくれた。


 自宅でカウンセリングをするようになってしばらくは、あかり先生に同席してもらっていた。
 最初の数ヶ月は退行催眠中に取り乱すことが多く、治療を何度も中断した。パニックが治まっても不安感が強いときは、暗示療法を用いてくれた。
 ドクターは最初に約束したとおり、治療によって焦燥感や不安感が増長した私を、そのまま放置することはなかったのだ。
 治療が思うように進まなくても、ドクターとの信頼関係は着実に築けていて、半年が過ぎるころにはあかり先生の付き添いがなくても大丈夫になっていた。
 そして一年ちょっと経った今では、退行催眠を行っても取り乱すほどひどいことにはならない。あっても涙を零すくらいだ。
 そこからすると、多少は前に進めているのではないかと思う。
「では、まずはお茶を飲んで」
「はい」
 ドクターが調合してくれた独特な香りのするハーブティーを飲みながら、他愛もない雑談をする。そしてリクライニングチェアーに身を預けると、目を瞑るよう促された。
「いつものように、階段を下って行くイメージだ」
「はい」
「暗くて狭い階段だ。そして、身に纏わり着くような湿気と肌寒さを感じる――」
 意識を深い部分へ導くための誘導が始まり、私は意識を内へ内へと向けた。
「階段を下った先には何がある?」
「……いつもと同じ――数が書かれた灰色のドアがいくつもあります」
「では、『3』と書かれたドアを開いてみよう」
「はい」
 私は誘導されるままに「3」と書かれたドアの前に立ち、硬く冷たそうな印象を受けるシルバーのドアレバーに手をかける。
 レバーは少し力を入れるだけで簡単に動き、ドアはゆっくりと向こう側へ開いた。
「ミヤビ、君は今どこにいる? そこはどんなところだい?」
 ここは――


 ↓↓↓楽しんでいただけましたらポチっとお願いします↓↓↓


 ネット小説ランキング   恋愛遊牧民R+      


ネット小説の人気投票です。投票していただけると励みになります。


↓ コメント書けます ↓

光のもとでU+ 迷路の出口

Update:2020/12/24

Home  もくじ  Next

Menu

© 2009 Riruha* Library.
designed by FOOL LOVERS.
top