menu

Riruha* Library

光のもとでU+

迷路の出口

Side 藤宮雅 03話

 アパートで暮らすようになってから、ご飯は待っていれば出てくるものではなくなった。
 母が仕事帰りにコンビニで買ったパンがそこら辺に転がっており、それを自分で見つけ、さらには袋を開けて食べなくてはいけない。
 最初こそ袋を開けることに難儀したけれど、生存本能のなせるわざか、私は早々に開け方を覚え、ひとりでパンを食べられるようになっていた。
 けれども、なんでもかんでも「生存本能」で切り抜けられるわけではない。人が人らしく暮らしていくにためには、誰かから教わらなければ習得できないものが大半を占める。そのひとつが「排泄」。
 三歳になるとベビーシッターが「トイレトレーニング」を始めてくれたけれど、トレーニング半ばでマンションを引っ越したため、私は「トイレ」をきちんとマスターすることができなかったのだ。そして、ふたりきりになったからといって「トレーニング」を引き継ぐほど、母は面倒見のいい人間ではなかった。
 結果、私は常時オムツを履いて過ごすことになる。
 ベビーシッターが面倒を見てくれていたときは、排泄するたびにオムツを交換してくれていたけれど、母は一日に二回変えてくれればいいほうで、たいていが一日に一度だった。
 最初こそ、排泄後の気持ち悪さに泣き喚き、自分で脱いでしまうこともあったけれど、脱いだときにはものすごい剣幕で怒られたし、怒られることでオムツを脱ぐことが悪いことであり、泣くことも悪いことなのだと学習した。
 実際、泣き喚いたところで何が変わるでもなかったし、気持ち悪さが軽減されることも解消されることもなかった。しだいに私は泣くこともなくなり、不快感に対して鈍感になっていった。
 けれど、いくら本人が鈍感になろうと、オムツ自体に吸収力の限界がある。
 排泄物がオムツから漏れ出て部屋を汚してしまうことも多々あった。それに対し、母は感情に任せて怒るばかりで、決して「トイレ」を教えようとはしなかったのだ。

 そんな私が藤宮に引き取られたのは、四歳になって少ししてからのこと。
「思っていた形ではないけれど、やっと役に立ったわね。あんたと別れられて清々する」。
 そんな言葉とともに家から追い出され、私は玄関の前でただただ呆然としていた。正直、何が起こったのか理解できなかったのだ。
 そんな私を待ち構えていたのは、黒いスーツを着た大柄の男ふたりだった。
 もともと健康診断や予防接種のときにしか家から出たことはなかったし、身近に男の人がいなかったこともあり、私は恐怖に泣きだした。
 ふたりは顔を見合わせ困った表情をしていたけれど、すぐに右側の男が私を抱き上げ、道路に停めてあった車へ向かって歩き出す。と、もうひとりの男が黒い車のドアをすばやく開け、私を抱えた男は無言で車に乗り込んだ。
 車を見たことがなかったわけではないし、外出の際にタクシーに乗ったことだってある。けれどもチャイルドシートを見るのは初めてだったし、有無を言わさず見知らぬシートに固定され、身体の自由を奪われたらパニックにもなる。
 私は数ヶ月ぶりに泣き叫んだ。
 声が枯れるまで泣いて気づいたことはひとつ――
 私がどれほど泣き喚いても、隣に座る男は叩いたりしなかった。母のように怒鳴ることもない。それどころか、無言で私の頭を撫でてくれていた。
 ここ最近、自分に伸びてくる手はいつだって「痛い」や「怖い」とセットだったのに……。
「このひとはなんだろう……」――そんな思いで隣に座る男を見上げると、
「今、雅様のお父様のおうちへ向かっています」
 言葉の意味は理解できた。でも、産まれてから一度も「お父様」には会ったことがない。
 母の話を聞いて存在だけは知っていたけれど、それだけだ。そんな人の家になぜ行くのか――
 疑問に思っても、それを訊ねることはできなかった。

 車は仰々しい門を通り過ぎると、白さが目立つ大きな建物の前で停まった。
 その洋館こそ、私が四歳から二十四歳まで暮らした場所でもある。
「ここが雅様の新しいおうちです」
 私は男の人を見上げ、
「あたらしいおうち……?」
「はい。今日から雅様は、お父様と、新しいお母様と暮らすことになります」
 このとき、初めてのワードに少し戸惑った。
 マンションからアパートへ引っ越したことがあるから、「家」が別の場所へ移ることや、住む場所が変わることがあるのは知っている。でも、「母」というものも新しくなることがあるのだろうか。
 だって、「母」とは私を産んだ人のことを言うはずなのだ。
 様々な疑問が浮かんだけれど、気になることはひとつ。
「いままでのおかあさんはどうなるの?」
 男はその問いに答えてはくれなかった。
 抱っこされて建物の中に入ると、大きな階段の手前に同じ服装の女性が三人待機していて、私はその人たちに託された。
 最初に連れて行かれたのは、アパートのリビングより広い部屋。
 その部屋はとてもあたたかく、なんだかいい匂いがした。
 出掛ける前の母から香ってくるようなはっきりとした香りではなく、もっとやわらかくて優しい掴みどころのない香り。
 その正体を探すべく室内を見回すと、壁面に見覚えのあるものを見つける。
 シャワーヘッドだ。
 母がそれを手に持ったときは、容赦なく冷たい水を浴びせられた。
 きっとまた、冷たい水をかけられる――
 そう思った私は身体を丸めて縮こまり、次にくる衝撃に備えて目を瞑っていた。けれども、どれほど待っても「冷たい」も「痛い」もやってはこなかった。
 恐る恐る目を開けると、心配そうにこちらをうかがう目があった。
「何を恐れられておいでですか?」
 聞き慣れない言葉からは意味を汲み取れず、不安ばかりが募っていく。すると、正面から女性の手が近づいてきた。
 今度こそ叩かれる。そう思ったけれど、その手は私の頭を優しく撫でただけだった。
 自分に伸びる手が「痛い」ことをしないのは、私をここへ連れてきた人に続いてふたり目。
「何も恐ろしいことはございません」
 声は優しく響き、その人は何度も頭を撫で、背中を擦ってくれた。
 ただそれだけのことに、ひどく安堵したのを覚えている。
「汚れたお洋服は脱いで、身体をきれいに洗いましょう。髪の毛も洗って、乾かしたら少し整えましょうね」
 直後、女性の手が服に伸びてくる。
 服を脱がされればその先は想像に易い。問答無用で水をかけられる――
 そう刷り込まれていたがゆえに、私はバスルームの中を逃げ回った。しかし大人三人に子どもひとりである。すぐに捕獲されてしまうし、粗末な服はいとも簡単に脱がされてしまう。
 シャワーヘッドを手に持った人が近づいたときに、私はたまらず泣きだした。
 そこで、何を怖がっているのかに気づいたのだろう。
 三人は言葉少なに話し合い、シャワーヘッドをフックへ戻すと洗面器を用意した。そこへ水を張ると、優しく私の手を取り水に触れるよう促す。
 もともとバケツに張られた水を飲んで過ごしてきたのだ。目の前にある光景は決して「恐怖」を感じるものではない。
 促されるままに水へ手を浸すと、手に触れるものがいつもと異なることに気づく。
 私は驚きに目を瞠った。
 私の知っている「水」はひんやりとしていて、最近身体にかけられたものにおいては身を刺すような感触を得るものだった。でもこれは――
 疑問に思いながら、繰り返し手を浸す。
「……みず?」
 近くにいた女性に訊ねると、三人はクスクスと笑った。
「これは『お湯』です」
「お、ゆ?」
「はい。お水があたたかいものは『お湯』と申します」
「おゆ……」
 私は確認するように何度も何度も手を浸した。その感触は、冷蔵庫から伝う柔らかな熱によく似ていた。
 すっかり忘れていたけれど、母以外の人が面倒を見てくれていたときは、あたたかい水で身体を洗ってくれていた。シャワーヘッドから出てくる水は、冷たくはなかった。
 母との生活で得た印象が強烈すぎて、いつしかそんなことまで私は忘れてしまっていたのだ。

 私はバスルームで色んなことを思い出していた。
 母とふたりきりになる前、私の面倒を見てくれていた人たちは皆優しかったこと。こんなふうにお風呂へ入れてくれる人がいたこと。人の手が近づいてきたからといって、痛いことをされるわけではないこと。シャワーヘッドからはひんやりとした水以外に、あたたかなお湯が出ること。身体をきれいにするときは、白い泡が立つ石鹸を使うこと。頭を洗うと気持ちがいいこと。お湯に触れると、身体や心がポカポカしてくること。
 それらを思い出すことでシャワーヘッドに対する恐怖心は和らいだものの、それを上回る負の感情があった。それはバスタブ――
 この家のバスタブほど広いものではなかったが、アパートにもバスタブはあった。けれどそこは、排泄物で汚れた私の動きを封じるための場所であり、水をかける場所でしかなかったのだ。
 それはしっかりとトラウマになっており、私はバスタブを前に後ずさり、泣くことしかできずにいた。
 女性たちは困惑しつつも私を宥め、バスタブのすぐ近くまで来させることに成功する。と、
「雅様、これは水ではなくお湯ですよ」
 決して怖いものでも毒でもない。そんなふうに、女性は自分の手を浸して見せた。
「ちょうど良い湯加減です。雅様もご確認ください」
 女性は決して強要することなく、ゆっくりと私の手を引く。
 恐る恐る水に手をくぐらせると、確かにあたたかい水だった。
 別の女性が、
「雅様、ヒヨコさんが一緒に入りましょうと申しております」
 言いながら、手のひらに収まる黄色いおもちゃを手に持った。
「ひょこ……」
「はい、ヒヨコです。こちらは――」
 女性が次に手に取ったのは、表面がごつごつとした緑色の、
「わにっ!」
「そうです! ワニです! では、こちらは何かおわかりになりますか?」
 女性が手に取ったのは首に鈴を付けた猫だった。
「にゃーにゃんっ! にゃーにゃんは――……ねこーーーっ!」
「雅様は物知りでございますね。ではこちらは?」
「ちゅーいっぷっ!」
 バスタブに浮いていたおもちゃは、以前ベビーシッターに見せられていたカードや図鑑に描かれていたものばかりで、「これは? じゃあ、これは? ――正解! 雅ちゃんはお利口さんね」と言われながら覚えたものばかりだったのだ。
 女性は少し砕けた口調でゲームのように質問を繰り返し、私は夢中になって答えているうちに、バスタブに対する恐怖心が薄れていった。
「みんなが一緒にお風呂に入りましょうと言ってますよ?」
 私は久しぶりに目にしたおもちゃに惹かれるように、お風呂に足を踏み入れた。
 水深はきちんと私の身長が考慮されており、座ってもお湯は私の胸元まで。
 久しぶりのお風呂で十分に温まると、次は恐ろしく柔らかなタオルに包まれた。
 肌に当たるそれはふわふわしていて、穏やかな香りに夢見心地にさせられる。
 うっとりとしたままタオルに頬を寄せると、女性たちにクスクスと笑われた。
「さ、水気はきちんと吸い取りましたから、お風邪をお召しになる前にお洋服を着ましょうね」
 そう言って見せられたのは、フリルがふんだんにあしらわれた淡いピンクのワンピース。
 母とふたりで暮らすようになってからというもの、常にサイズの合っていないTシャツにオムツ姿だった私は、こんなにきれいなお洋服を着ていいのかに戸惑う。しかし、女性たちは躊躇うことなく私に着せにかかった。そして、手早く髪の毛を乾かしては伸びきった前髪を短くカットする。
 急に開けた視界に私は驚いた。
 母とふたりで暮らすようになってから、髪を梳かしてもらったこともなければ前髪を切ってもらったこともなく、視界に髪の毛が映るのが常だったのだ。
「ご覧ください。とてもかわいらしく仕上がりましたよ」
 女性に手を引かれて立たされたのは、キラキラした壁の前。そこには私の隣にいる女性と小さな女の子が手をつないで立っていた。
 奇妙なことに、その女の子は私と同じ洋服を着てこちらを見ている。
 どういうことだろう――
 私は鏡の中の女性と隣に立つ女性を何度も見比べた。すると、
「鏡は初めてでいらっしゃいますか?」
「か、が、み……?」
「はい。左側に映っているのが私で、右側――こちらは雅様ですよ」
 女性の指先は私を示していた。
 私は初めて見る「鏡」を観察したくて、一歩ずつキラキラの壁に近づいた。そしたら、鏡の中の女の子も同じ動きをするから息を呑むほどに驚く。
 私は四歳にして初めて、自分の姿を目にしたのだ。


 ↓↓↓楽しんでいただけましたらポチっとお願いします↓↓↓


 ネット小説ランキング   恋愛遊牧民R+      


ネット小説の人気投票です。投票していただけると励みになります。


↓ コメント書けます ↓

光のもとでU+ 迷路の出口

Update:2020/12/26

Home  もくじ  Back  Next

Menu

© 2009 Riruha* Library.
designed by FOOL LOVERS.
top