迷路の出口
Side 藤宮雅 13話
コンコン、コンコン――ひどく聞き馴染みのあるリズム。おそらくはノック音だと思うのだけど、こんな音のするドアが身の回りにあっただろうか。
コンコン、コンコン――
「雅さん、雅さん? お加減いかがですか?」
お加減……?
まだ鮮明ではない頭で、今の声が誰のものかを考える。
落ち着いた声音ではあるけれど、あかり先生の声よりは明らかに高いし、あかり先生は私のことを「雅さん」とは呼ばない。そもそも、日本語で話しかけられるここは――
そこまで考えて、勢いよく起き上がる。
「雅さん、開けますよ?」
声の主は遠慮気味にそう告げると、ゆっくりとドアを開けた。
ドアの向こうから顔を覗かせたのは、昨日翠葉さんに紹介された桃華さんだった。
「おはようございます」
「桃華さん、おはよう」
昨日日本に帰国した私は、翠葉さんたちの旅行に同行させていただいているのだ。でも――昨夜カードゲームをしたあと、みんなで雑談していたところまでは覚えているのだけど、そのあとのことが曖昧なのはどうしてだろう……。
はっきりと言うならば、曖昧というよりは思い出せない。
なんとか思い出せないものか、と記憶を手繰り寄せていると、気づいたときには桃華さんがベッドサイドに膝をついていた。
「お加減は大丈夫ですか?」
「え、えぇ……」
二日酔いするほど飲んだ記憶はないし、具合も悪くないと思うのだけど、桃華さんが心配するほどに顔色が悪いのだろうか。
「昨夜のこと、覚えてます?」
「昨夜のこと……?」
「雅さん、グラスのワインを飲み終えたら、リビングで寝ちゃったんですよ」
私は驚きに目を見開く。
どちらかと言えばお酒には強いほうだし、記憶がなくなってしまったり、人前で眠り込んでしまったことなど一度もない。
ならばなぜ、昨夜のことが思い出せないのか……。
底をさらう勢いで記憶を漁っても、この部屋まで戻ってきたという記憶が欠片も見つからない。
「帰国して、休む間もなくこちらへいらしたんですものね。相当お疲れだったんだと思います。でも今朝は、顔色もいいですし、大丈夫そうですね」
「……あの――私、どうやってこの部屋まで戻ってきたのかしら……」
恐る恐る訊ねると、桃華さんはにこりと笑って教えてくれた。
「蔵元さんが運んでくださったんです」
「えっ!?」
「何度もお声かけたんですけど、雅さんぐっすり眠っていらしたので」
私、なんて醜態を晒してしまったのかしら……。しかも、
「ここ最近太ってしまったのに……」
項垂れていると、桃華さんがクスクスと笑いだす。
「そんなこと気にされてたんですか?」
「だって、誰かに運ばれることになるだなんて、まったく想定もしてなくて……」
「それはそうですよね……。でも大丈夫です。蔵元さんは紳士ですから! 重いだなんて一言もおっしゃいませんでしたし、軽々と運ばれてました」
「どちらにしても失態だわ……。社長に寝室まで運ばせる社員なんて、まずいないでしょう?」
「でも、もう過ぎてしまったことですし、何より今は、休暇中なのでしょう?」
桃華さんはにこりと笑う。
「気にするのはやめましょう? 今七時半なんですけど、起きられそうですか?」
「えぇ、大丈夫よ」
大なり小なり問題はあるけれど、衝撃的な事実が発覚して、頭はしっかりと覚醒した。
「なら、蔵元さんにそうお伝えしますね」
「えっ?」
なぜ蔵元さんっ!?
「きっと、今日ばかりは起こされないと起きられないんじゃないかって、蔵元さんが声をかけてきてほしいとおっしゃられたんです」
なんとも情けない……。
「着替えて支度をしたら二階へ上がります。確か、朝食は八時半からだったわよね?」
「はい。あと一時間あるので、ごゆっくりお支度なさってください。じゃ、私は失礼しますね」
そう言うと、ネイビーのサンドレスを着た桃華さんは、軽やかな足取りで部屋を出て行った。
まだ出逢って二日目だけど、言葉遣いがしっかりしているうえに、相応の気遣いもできる子だ。
「蒼樹さんとお似合いね。それに――」
四年のバイト期間を経て入社するならば、入社時には内情に精通しているだろうし、あの子なら秘書を務められるくらいにはなっているかもしれない。
目上の人間と臆することなく話せ、自分に求められるものを取捨選択する器量もある。
「秋斗さんたちはいい人材を得たわね……。さ、気を取り直して支度をしよう」
さっとシャワーを浴びて、身体も頭もしゃっきりさせてこなければ――
シャワーを浴びてメイクをしたら、髪を乾かして簡単にまとめる。ゴムにポニーフックをつければ、あとは洋服に着替えるだけ。
クローゼットを開け、ハンガーにかかる洋服を前に悩む。
桃華さんは涼しげなサンドレスを着ていた。なら、私もワンピースでいいだろうか。
もしかしたら朝食の席で今日何をするかが決まるかもしれないけれど、着替えが必要なら朝食後に着替えればいい。
クローゼットは白や青、水色といった色が大半を占める。
日本にいたときは暖色系の洋服を着ることもあったけれど、仕事をするようになってから、ブルー系のものを意識して選ぶようになった。
ブルーは気を引き締め物事を冷静に考えられる効果があるし、暖色系のものよりも、きりっとした印象を相手に与える。
仕事を円滑に回すことを考えたら、手に取るのはブルー系の服ばかりになっていた。気付けば、休日に着る洋服までブルー系が多くなっていて、私のワードローブを見て呆れたあかり先生が、一着のワンピースを買って来てくれたのだ。
「雅ちゃんはピンクの花柄のお洋服も似合うと思うの」
そう言って差し出された洋服は、白地に赤とピンクのグラデーションが美しい、エレガントなお花が描かれたワンピースだった。
こういった洋服を着たことがないわけではない。でも、一度「ブルー」という色に慣れてしまうと、かわいらしく見える洋服を手に取るのは躊躇してしまう。
なかなか手に取ることができずにいると、「ぜひ旅行に持って行って?」とあかり先生にスーツケースへワンピースを詰められてしまった。
そのワンピースは、今目の前のハンガーにかけられている。
とてもすてきなワンピースだと思う。でも、こんなかわいらしい雰囲気の洋服で、蔵元さんたちにお会いしたことはない。
「ただワンピースを着るだけなのに、なんだか不必要に勇気を求められるものね?」
でも、せっかくいただいたものを着ないのも申し訳ない。
ワンピースを手に取り考える。
「らしくない」と思われるかしら? 意外だと思われる……?
少し考えて頭を振る。
「自意識過剰もいいところだわ。私が何を着たところで、誰がどう思うわけもないじゃない」
そう思うと少しおかしくなってきて、私は一呼吸してから、まだ一度も袖を通したことのない洋服を身に纏った。
部屋を出る前に深呼吸をひとつ。階段を上がりきる前にもう一度。
緊張しながら二階フロアへ足を踏み入れると、こちらを向いて座っていた蔵元さんに声をかけられた。
「雅さん、おはようございます。お加減はいかがですか?」
私はその場で頭を下げ、
「昨晩は醜態を晒したうえに、お手間をおかけして申し訳ございませんでしたっ」
前方からはクスクスと笑う声が聞こえてくる。
恐る恐る顔を上げると、
「そんな恐縮なさらないでください。自分は役得だったと思っているので」
蔵元さんはそう言ってにこりと笑う。
その柔らかな表情にうっかり見惚れていると、
「蔵元はこう見えて意外と油断ならない男だから、雅は気を付けたほうがいいかもよ?」
秋斗さんにそんな言葉をかけられて、「え?」と思う。
そもそも、蔵元さんがおっしゃる「役得」の意味がわからないし、秋斗さんの言う「油断ならない男」の意味もわからない。
私を部屋まで運ぶことで得られる得とはなんだろう……。筋トレの負荷代わりになったとか……?
ニューヨーク支社のボブはスポーツジムで重量上げをしていて、一二〇キログラムを上げられるようになったと言っていた。そこからすると、私の体重などその半分にも満たない。
負荷にすらなれていない気がするのだけど……。
「油断ならない男」とはどういうことだろう……。蔵元さんは、私が出逢ってきたどの男性よりも紳士だと思うのだけど……。
それぞれの言葉に首を傾げていると、一際明るい声がかけられた。
「雅さん、その服超似合ってる!」
言いながら唯くんは私の側までやってきて、見分するように私の周りをくるりと一周する。
「仕事んときはブルー系のスーツやワンピースばかりだから、こういう格好は好きじゃないのかと思ってた」
「そんなことはないのだけど……」
開口一番に「似合う」と言ってもらえたことは嬉しい。でも、あえて話題に取り上げられると恥ずかしくもあり、私はなんとなしに言葉を濁してしまう。
するとダイニングから声がかかり、朝食の準備ができたことを告げられた。
みんながテーブルに着くと、
「前はピンクのワンピースとか着てたけど、今は着てないの?」
秋斗さんに訊ねられ、
「仕事では意識してブルー系を着ているんです」
「どうして?」
「暖色よりも寒色のほうが清潔感を感じるし、しっかりして見えるじゃないですか。それに海外支部での私の立場的に、『女の子』は求められていませんから」
なるべく簡潔に答えると、秋斗さんは「なるほど」と納得してくれた。そして桃華さんは、
「なんだか格好いいですね? ビジネスウーマンって感じで、私憧れちゃいます!」
「そんな憧れるほどのことではないのよ?」
苦笑を返すと、
「そんなことないです! 昨日の服装もカジュアルなのに、どこかきりっと見えてとても格好よかったです!」
「そんなに褒められると困っちゃうわ……」
会話をうまく受け流せずに戸惑っていると、
「仕事のとき、そこまで考えて服装を選んでいるとは思いもしませんでした。ですが、さすがの配慮ですね。確かに、雅さんのポジションで『女の子』は求められていませんから。……でも今は休暇中ですし、二十代の『女の子』に戻られてもよろしいのでは?」
「でももう二十代半ばなので、『女の子』という感じでは――」
「自分からしてみれば、『まだ二十代の』女の子ですよ」
蔵元さんはクスクスと笑う。
「もっと肩の力を抜いて大丈夫です。ここにいる人間は、上司と部下以前に『同士』ですから」
仕事のときに見る表情とは違う顔に、私の頬は熱を持っていく。
どうしようかと思っていると、
「蔵元、雅みたいな頭でっかちは口でどうこう言ってもだめだって」
「秋斗様、頭でっかちは言いすぎでしょう?」
「そうでもないと思うよ? ま、雅みたいなタイプはガンガン甘やかす、が正解かな」
「……甘やかす、ですか。それもそうですね……。では、ここにいる間は存分に甘やかさせていただきましょう」
そう言うと、蔵元さんはにこりと笑んだ。
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Update:2021/01/05