秘密の想い
Side 若槻芹香 03話
「ちゃんとお礼、言えてなかったな……」「え?」
ママに訊き返され、私は移動テーブルに置いたままのミュージックプレーヤを指差した。
「一年くらい前に唯ちゃんがプレゼントしてくれたの。暇なときに聞けばいいって。具合が悪いときでもイヤホンだけしてれば音楽流れるって」
「そう……」
「本当はね、すっごく嬉しかったの。すっごく嬉しかったんだけど、唯ちゃんもママと同じでボロボロのバッグをずっと使い続けてる……。なのに、私にはこんなに高価なものを買ってきてくれる。もっと……もっと自分のためにお金を使えばいいのに」
言って唇を噛んでは、ママに視線を向ける。
「ママも――ママも、私のタオルやパジャマを定期的に新調するんじゃなくて、私の洗顔フォームがなくなるのとか気にするんじゃなくて、もっと自分にお金かけていいんだよ? 私は看護師さんと先生にしか会わないし、洗顔フォームじゃなくて石鹸でも洗えるし、ボディーソープだって普通の石鹸でいいっ。香り付きの、今どきの高校生が使っているようなボディーソープじゃなくていいっ。これ以上私にお金をかける必要なんてないっっっ」
きっと、そんなに長くは生きられないのだから、そんな人間にお金などかける必要は――
お布団を握りしめる手に視線を落とし言い切ると、うっ血した手にお母さんの手が重ねられる。
その手が思っていたよりもずっとガサガサで、手の甲なんて白い粉が吹いてる状態で、今すぐハンドクリームを塗ってあげたいと思った。
胸がぎゅっと苦しくなるほど、切なくなる。
「やっといつもの芹ちゃんに戻ったわね……。でも、そんなことを考えていたの?」
コクリと頷くと、ママはふわりと優しく笑う。
「そんなこと、芹ちゃんが気にする必要はないのよ? それに、芹ちゃんだって我慢してることはたくさんあるでしょう?」
「だって私はっ――私がこんな身体だから、こんな病気だからっ――」
「芹ちゃん、落ち着いて? 発作は起こしたくないでしょう? 苦しい思いはしたくないでしょう?」
ママは私の背中を擦りながら、「落ち着こう」と繰り返す。
私は自分を落ち着けるために深呼吸を繰り返した。何度も何度も深呼吸を繰り返して、そしたら今度は涙が止まらなくなって、もうわけがわからなくなってくる。
「芹ちゃん、落ち着こう? ね? 泣かなくて大丈夫だから。そんなにお金のことを気にする必要はないのよ? 大丈夫だから。ママたち、我慢なんてしてないわ。芹ちゃんが元気になるのなら、どんなことだってがんばれるのよ?」
私のためにがんばらせてしまうことがつらい。苦しくてたまらない。
でも、こういう感情はママたちにはわからないものなのかもしれなくて――
思っていることを上手に言葉へ変換できないことや、感じていることを誤解なく伝える術が自分に足りないことを痛感する。
本をたくさん読むだけじゃだめなの? ちゃんと学校へ行って、みんなと同じように勉強ができていたら、こんなときに伝える術もあったのだろうか。
そう思うと、悔しさや悲しさ――様々な感情が絡み合って、次から次へと涙が溢れてくる。ママはそんな私を優しく抱きしめ、
「芹ちゃん、大好きよ。ママの大切な大切な娘。唯とパパと芹ちゃんは、ママの宝物なの。だから、泣かないで? 芹ちゃんが泣いていたら、ママまで悲しくなっちゃうわ」
そう言って、何度も何度も頭を撫でてくれた。
その感覚に、唯ちゃんが頭を撫でてくれたことを思い出す。
「唯ちゃん……元気?」
「え? 唯?」
「ん……」
「最近は来てないの?」
私は困った。
通常の面会時間に来てくれることも稀にある。でも、夜中に忍び込んでくることのほうが断然多くて、それを会っていると言っていいのかわからず、「うん」とも「ううん」とも言えずにいた。
唯ちゃんが病室にいるのはほんの数分だ。
でも、その数分の間にミュージックプレーヤーは更新され、翌日に確認すると必ず曲目が増えている。おそらくはミュージックプレーヤーを更新している時間が、唯ちゃんが病室に滞在している時間なのだろう。
唯ちゃんはその短時間に頭を撫でてくれたり、手をつないでくれたり、その日にあったなんてことのない話を呟くように口にして、最後に触れるだけのキスをして帰っていく。
それをどう伝えたらいいのかに困っていた。
「ものすごくたまに、日中に来てくれることがあるのだけど、私、全然素直になれなくて、ほとんど会話はしてないの……。口を開けばひどいことばかり言って、私、かわいくない……」
でも、夜中に来てくれるときは、唯ちゃんの雰囲気もちょっと違うし、私も刺々しい反応をすることなくいられる。その数分がとっても幸せで、でも、それをママに伝えていいのかわからなくて、苦しくなる。
「芹ちゃん、そんな苦しそうな顔をするくらいなら言っちゃいなさい」
「……ママ?」
「芹ちゃんがどうしても秘密にしておきたい話なら、あえて聞き出したりはしないけれど、そんな苦しそうな顔をするのなら、人に話しちゃったほうがいいわ。ママ、誰にも話したりしないわよ?」
「内緒話」の合図のように、ママは口元に人差し指を立てて見せる。
いいのかな……。本当に、話していいのかな……?
当然躊躇ったし、でも、この感情を自分の中に留めておくのはもう限界だった。
「……あのね、唯ちゃん、夜中に来てくれることがあって――」
「え? どういうこと……?」
「面会時間に来てくれるときは、私、ひどい対応してしまうのだけど、夜中に来てくれるときは寝たふりしてるから、ひどい対応しなくて済んで……でも――本当は夜中に忍び込むのなんて良くないよね?」
ママは少し驚いたような顔をして、「そっか……」と声を漏らした。そして、どこか嬉しそうに微笑む。
「ママ……?」
「あ、ごめんね」
「別に謝らなくてもいいけど……」
「あぁ、それもそうね。……うん。あの子も、色々と思うところがあるのよ」
「思うところ……?」
どんなふうに何を思えば夜中に忍び込むようなことになるのかわからないし、妹にキスをするような事態に陥るのかもわからない。
ママ、疑問しかないのだけど……。
「芹ちゃんは好きな人、いる?」
「は……?」
話の飛躍ぶりにも驚いたけれど、それ以上に、私は人と初めてする会話内容にドキドキしていた。
幼稚園や学校へきちんと通うことができなかった私に恋愛話などできる友人はいなかったし、世間話どころか恋愛話などしたこともない。そもそも、幼稚園や学校に好きな人という存在がいたことはないのだ。
病院の中にある院内学級だって、年の近い男子なんてほとんどいないし、ケガで入院してきた子たちはすぐに退院していく。病気で入院している子たちも退院していくか、ある日突然欠席が続いて、気付いたころには病室にかけられていたネームプレートがなくなっている。ここは、そういうところなのだ。
でも、好きな人はいた。私は小さなころから、物心がつく前から、唯ちゃんだけが好きだった。
だから、強いて言うなら、ママの質問への答えは「Yes」だ。
私が小さく頷くと、ママは嬉しそうにはにかんだ。
「ごめんね。芹ちゃんに好きな人がいるのは知っていたの」
「え……?」
どうして? 今までそんな話したこと――
「唯、でしょう?」
まさか人物まで言い当てられるとは思っていなかったし、この話題で唯ちゃんの名前が普通に出てくることにも驚いていた。
ママはおかしそうにクスクスと笑っている。
「そんなびっくりしなくてもいいじゃない。ママ、ずっと芹ちゃんといたのよ? ずっと芹ちゃんを見てきたのよ? 気付かないわけがないじゃない」
でも――
「私、好きになっちゃいけない人を好きになっちゃった……。ごめんなさい……」
どうしようもない背徳感に俯くと、
「芹ちゃん、こういう気持ちは矯正しようと思ってできるものではないし、好きになってしまったらもう最後――自分の意思でどうこうできるものじゃないのよ」
実感がこもった声音に少し戸惑う。
まるで私の気持ちを知っているような口ぶりだけど、それはどういうこと……?
複雑すぎる疑問を抱えたまま、ゆっくりと顔を上げる。と、ママは少し困ったような顔で笑っていた。今まで見たことのない、どこか少女っぽさを残す表情で。
「芹ちゃんももう十五歳――来月には十六歳ね。子どもの成長って早いものね」
ママは窓の外へ視線を向け、寒空を眺めてからこちらに視線を戻した。
「これからする話は芹ちゃんには言わないつもりだった。でも、唯にはいつか話さなくちゃいけないと思っていて、そのいつかを考えていたのだけど……」
「な、に……?」
こんなふうに言い渋るママを見るのは初めてのことだった。
私には話すつもりがなくて、唯ちゃんにはいつか話さなくちゃいけないと思っていたことって、何……?
心がざわざわする感覚を覚える。
「これから話すことは一般的な話ではなくて、人に白い目で見られるような内容なの。……芹ちゃん、今気分はどう? 体調、大丈夫そう?」
ママはいつも以上に私の体調を気遣う。
「……大丈夫、だけど……」
ママは何をこんなにも気にしているのだろう。
「話したら、芹ちゃんがショックを受けるかもしれない類の話なの。本当に大丈夫?」
「ショック……? どうして私がショックを受けるの?」
「それを今から話そうと思うの。聞ける?」
ママは確認に確認を重ね、
「たぶん、話し出したら途中で引き返すことはできないわ。どうする?」
ママが何度も確認をするくらには、きっと大切な話なのだろう。
私はす、と息を吸い込んでから、
「……聞く」
「うん、わかった」
そう言って立ち上がると、ママは病室のドアを閉めに行った。
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Update:2021/06/20